38 Slope of tangent
「ネップ、どこ行ったんだろう・・・もう一回、家に戻ってみよう」
手にはリンゴ貝の殻を握りながら、ここ数日、家に帰ってないネップを探し回り、貧民街を一人で歩いている。
そして、今日は2度目か3度目か、繰り返して家を覗いてみる。すると彼はごく自然に普段の日常に溶け込むように、足が一本足りない椅子へ容易に体重を預けて私を迎えた。
「キャシー」
「ネップ! 帰ってたんだ! どこに行ってたの? ロウローのみんなが見当たらないんだ・・・みんなは?」
「ちょっとな。実は新しい仕事の話があって、しばらくはそっちにかかりきりになる。ロウローの仲間も一緒にだ」
「そうなんだ! おめでとうネップ!」
「ああ・・・それで、だ。俺もアイツらも新しい仕事の都合でしばらく家を空けることになった。だからお前はコレを持ってここから出て行きなさい。今日はお前にそれを言うために帰ってきた」
「出て・・・なんで・・・」
「それがお前を守ることになるからだ。まずはメルクリウスにこれから先、近づくな。そしていまから渡す金とこれまで稼いだ金でたくさん食べ物を買って、ぬくもりのある温かいところでできるだけ目立たずに暮らすんだ。ラディたちとお互いに身を守り合いなさい・・・それからリアムとはもう関わらないようにしろ。アイツは目立ちすぎる・・・」
「どうして・・・ネップがリアムと仲良くしてみろって言ったんだよ!」
「これから長い冬がやってくる」
「まだ、夏だよ・・・?」
「そうだが、それでも今度の冬は長引くんだよ・・・」
できることならステディエムから出て、疎開してほしい。しかし、まだ子供のキャシー達をそんな宛てもない旅につかせて、都会の貧民街で育ってきた子供たちが生きていけるのだろうか。
「・・・」
「どうしてそんなことがわかるんだって言いたそうな顔をしている。お前は俺みたいな奴の話を最後まで聞こうとしてくれる気の利いた子だ・・・けどな、俺も気配りの利いた理由を言いたいが、これが難しくて言えねぇ。強いて言えば、ここ最近のステディエムの気運は悪い方に傾いていた。そして、お前も例年の冬の厳しさは知っている」
「でも苦しい時にはネップが、ラディが、ハイボール団のみんなが一緒にいてくれたッ!」
だから去年も、その前も、私は冬を越せた。守ってもらってばかりだったかもしれないけれど、ようやく、私の力で少しずつネップに、みんなに恩返しができるようになるかもしれないのにッ。
「この葛藤はお前がくれた」
「ヤダ・・・」
「わがままを言うんじゃない・・・」
「ヤダ!!!」
「お前のしたい通りになんでもできるみたいに俺がしたい通りにできれば俺はお前とこれからも一緒に暮らせるんだよ!!!」
ボロの木の板が屑を落とすくらいものすごい大きな思いの丈が、キャシーにぶつかる。
「・・・わかったら、これを受け取りなさい。俺は十分に暖まった。だから・・・」
キャシーは涙を流すだけで、口を開いて大泣きはしない。唇を噛み締めて、拳を握りしめて尻尾の付け根を強張らせる。そのキャシーの目の前には、亜空間の中にしまってあったズッシリと硬貨の入った麻袋が突き出される。
「わ、私の手の中には、ネップのお土産がある」
キャシーの手には、逸早く渡そうと準備されていたお土産の貝殻が握られている。見せつけるように、手のひらを大にして薄い桜色のリンゴ貝の殻を、水面に落ちて波紋を広げた花弁のよう、ふらふらと震わせる。
「そんなこと言うなら、このお土産あげないから・・・あげないからッッッ!!!」
最後の言葉を喉から放った時、キャシーの心の中で悴みが裂けてしまったように止まる。
言いたいことを言ってしまった。とりあえずは、怒り、しかしキャシーには肺や気道がヒリヒリと乾くこの感情の名前が、怒り以外にわからない。
「・・・」
硬貨の入った袋が地面との鈍い衝突の音を鳴らす。
「ヤダッ、やめてッ・・・ッ」
「悪い、俺は戻ることにした。だから、これはお前から奪っていく」
「ヤダッ!」
2人は一つの貝殻を巡り、激しく揉み合った。揉み合いとはいうが、キャシーはただ抵抗するだけだ。キャシーの腕を簡単に片手で掴むと、もう一方の手で指の隙間をこじ開けて、ネップは言葉の淡麗さと相反し、奥歯を噛み締めるように貝殻を奪い取る。
「返して──よッ!」
「俺に怯まず掴みかかって、よく、ここまで気が強い子に育ってしまったものだ」
キャシーは貝殻を奪い取った手に両手、両腕で掴みかかり踏ん張った。それだけキャシーはネップから離れまいと懸命だった。
『全然なんにもわかんない・・・!』
次に何を考えたらいいのかわからないくらい、何がしたいのかすらわからない。ただ、思い浮かんだのは、仕事の帰りに迎えにいくと、どんなに疲れていても私を片腕で持ち上げて家の中まで抱っこしてくれる時の、お腹がくすぐったくなるような幸福感、これが失くなってしまう焦りだ。
「酒に酔った俺より酷い顔をしてる・・・重々ひしひし感じる。お前を見てると俺はいい父親代わりではなかったことがよくわかる。親の言うことは素直に聞くものだと躾けられてないし、学校からは逃げる気のまま、そのくせ大したことを教えてやれない。しかしこれくらいなら一つ慰みの教訓をやれるだろう。奪われる前に叩きのめせ。迷うな、キャシー」
その時だ。ネップはソッと、頬を摘むように落ち着かない私の涙を空いた親指で拭った。
『傷だらけだ・・・』
夏なのにネップは長い袖に腕を通していた。その裾から、錆びた鉄の匂いが微かに漂ってきた。それに私が掴んでいるもう片方の腕も少し震えてる。
『いやだ・・・』
誘われるように、私の涙は眼の裏の血管を破裂させるくらいガンガンと叩いた。ネップの教えは命がけで学んだもの。教訓の本当の字句が解ったような気がして、重くのしかかる。
キャシーの目の下を固くて乾いた指の感触が拭い通ると、柔肌のまだまだ小さな体は硬直してしまう。
これだ。
一つ一つの動きは粗雑だけど、ネップは私を触るとき、そしておしゃべりするときは、絶対に私を傷つけない。
喧嘩もするけど、暇だから、などと口癖のように言って、私の話も聞いてちゃんと仲直りしてくれる。
私が熱を出したときは、次の日が仕事でも一晩中起きてそばにいてくれて、ロウローのみんなと交代で看病してくれた。
不器用だけど、優しくて私を肩や膝の上に乗せて守ってくれるそんなネップを私も傷つけたくないし、一番大事だった。
「一緒に、いたい・・・」
赤く濡れてると余計にかさかさが痛い、傷ついちゃいそうだよ、ネップ。
「ばいばい」
──今日、この時。ネップが最後に残した言葉の耳障りはとてもなめらかなものだった。そして、キャシーに大きな不安を残す。
「どうして・・・」
ネップは、もうこの街から出ていく──?
私を置いていく。
どうして私に痛いって言ってくれない。
やっと、私も守ってあげられるかもしれない。
ネップと一緒に活躍できたかもしれないのに・・・一緒じゃないの・・・。




