01 Kyrie eleison -方違え-
薄氷のように硬くなった眼瞼をゆっくりと開く。まつげについた数粒の霜が落ちた眼下には白い薄綿が所々に群れ立ちながら影を作り、影の下に垂れ流した青い水とそこに画用紙のように浮かべた茶色と緑から成る美しいアルカディアがある。
「ハァ、ハァ・・・ハァッ・・・・・・・・・・・・フゥ・・・」
顔を上に向ければ下界に疼く魂の営みを吸い取ろうとする黒い冷獄と、それでも吸い取られる以上のエネルギーを生産する下界と同じく、冷獄の中でも輝きを失わない散りばめられた星々と太陽が眼下の水平線のどの場所から見上げるよりも近い所にある。
「・・・・・・」
体の表面には所々黒く蝕まれ穴の開いた皮膚、血を吐いた口から辛うじて繋がっている息、目眩の狭間に酔いながら腰を落ち着けた尻の裏にはシックと呼ばれたオールトの雲に住むという星鯨の肉塊が転がっている。
「最高の景色ではないか」
「・・・」
「どうした、やりたいだけをやった・・・少しは気が晴れただろ」
普段は横柄な君が不器用ながらも精一杯励ましてくれているのだ。しかしこれだけやり切ったにも関わらず、その励ましに応える気にはなれない。
「脈は・・・速い・・・」
息を深く吸って、そして吐きながら、左手の親指の腹を左薬指の第二関節の中指寄りに当てて、腹同士で叩く様に脈打つ血管の蠢きを感じ取る。昔はチューブと針で点滴に繋がれたり、手術前とかはこうやってよく緊張を解した。それと昔は抑えてるここに丁度傷痕があった。切創の跡で、少し山になっているここからは他の指同士を擦り合わせるより強く脈を感じられていた。しかし当時とは違う肉体を手に入れた現在、体が健やかになった分だけ心臓も強く激しく動いているようで、存外、傷があった当時に感じられた自分に自分の指腹を叩かれる感触とそこまでの差異はないように感じられる。
「・・・けれど、何をそんなに興奮しているのか、何を感じているのかがわからない・・・」
なぜ、心がザワつく。
手持ち無沙汰なのは変わらない。多少なり興奮もしている。なのに自分が今何を感じているのか、考えているのかが真っ暗でわからない。
生への執着もなければ、死への恐怖もあるのか、自暴自棄になっているのだと想う。
頭の中はポッカリと虚ろであるのに、全身に広がる緊張が解けない。
それも全ては衝動からの行動が原因で、故に、僕は欲に負けた。目の前の小さな命を救い上げるために、容赦無く全てを投げ捨てた。それなのに、救えなかった。
「・・・焼けるようだ」
見据えるべき未来を見失いながら希望を探していたあの時、どうして僕は西に向かったのだろうと、ただただ適わない選択だけが頭をチラつく──。西日が憎い、西日が憎いのだ。──僕を眩ました元凶が。
──遡ること、約1年前。旅といえば馬の引く荷車、荷車といえば荒地を行くシーンを一番に想像する。しかし現実には森の街道を行く荷馬車から見える景色といえば、鬱蒼と生茂る木、木、木。唯一、代わり映えがあるのが見上げた先にある空、左右を行く葉の影と日光が交互に入れ替わっていく様は実に・・・碧碧としている。
要するに飽きた。
BGMがあればまだマシだ。
それとも新しい本の一つでも買っとくんだったか、しかしこの揺れでそこまで集中できるほど舗装された道を行く車の快適さを知っている僕にそれほどの忍耐力は果たしてあるのだろうか。
「せ〜んろ〜は続くーよー、どーこまーでーもー」
「あの・・・今日もう5回目ですが・・・流石に飽きませんか?」
「・・・飽きたから、歌ってるんだ」
「左様で・・・」
空は晴れ、まばらに行く雲を眺めながら相乗りさせてもらった荷台の後部に腰をかけ、ぶらぶらと口と足を遊ばせていた。
「では私から話題を一つ・・・なぜ、西に?」
「太陽は東から登ってくるだろ・・・で、僕が西に行けばそれだけ昼の時間が長くなる。たかが知れている僅かな差であるけれど、急がず、しかし限られた時間を存分に堪能したい。新しい事に慣れて効率的に進めるには何事もまず初めを疎かにしない事が肝心」
「成る程、理には適っています」
「・・・昼は短い。色んなものが見えるから」
「夜も短いですよ。1つのことに集中しやすく時間を忘れてしまうから」
「つまり1日は──」
「短い・・・」
実に理に適って下された決定ではなかろうか。1日やそこらで疲れて動けなく成るような体ではないが、自分の化け物じみた力を最近決心して大衆に見せつけたからこそ、ギリギリ人としての心得も忘れたくなかったから時間には従うことにする。そして2年間という限られた時間の中でより多くの時間を生み出そうと思えばこその判断だ。
「だから西へ・・・」
「マスター・・・?」
「さあッ、続きを歌おう!」
「流石に転生して肉体はまだ10歳の子供とはいえ、そろそろ童謡は・・・少し趣向を変えませんか? 荷馬車に揺られながら聴くお勧めの一曲があるんです」
「へぇー・・・精霊がお勧めする曲か。興味あるなー・・・教えて?」
「ドナド」
「ストップ!・・・ビークワイエットプリーズ」
「えー・・・ブーブー」
「もっとこう目を瞑っていても、何も思い浮かべたり考えなくていいような心安らぐ一曲をリクする」
「目を瞑って思い浮かべましょう。荷台に乗せられて連れてゆかれる仔牛」
「却下」
目を瞑って・・・今、思えば理由は決して時間効率性を極めるというこれだけには留まらなかった。それどころか、これまでの経験からして僕が西を選んだのは自然だったのかもしれない。
旅先でもいつの間にか自然と枕の向きを一定の方角に向けてしまうように、本能的な部分で西に何か感じるものがあったのだ。
動物的な本能で唯一行ったことのある方角へ向かう、または友人たちが辿った道を歩く、再会を約束したにも関わらず僕は無意識の内に寂しさに揺らされて、自ら災厄を招いたのだ。
「おぉー」
「ここら辺はコクリコの群生地さ。夏になるとそりゃあ見事に咲き誇る」
「そうなんだ。良い事教えてくれてありがとう」
そんなこんなで30分ほど鼻歌歌って暇を潰していると、鬱蒼とした森緑を抜けて広い緩やかな丘に出た。しかしこの丘を越える所で道が分かれている。優雅な荷台旅はここで終わりである。
「しかしいいのか? オラはここから北に、スプリングフィールド領の方に行くが、方向が違うとはいえ一番近い村まではまた深い森を抜けんとならん」
宿場町を2つ、野営を2回、3日目の昨日からここまで乗せてくれた荷運び中のおじちゃんはスプリングフィールド領に向かうという。アルフレッドとフラジールの故郷だ。いつかは訪れてみたい場所の一つだが、できれば彼らが領地にいるときに友人として初めて赴きたい。
「荷を引かぬ馬でも今からだと日が落ちるまでに着くかどうかわっかんねぇしそっちは魔物が多く生息する夜月の森の中を通るルートだぁ。夜血森って聞いた事ねぇべか? 陽が落ちると魔物が活発になって野営もできないほどに危険な地帯だべ?」
「魔物が発生しやすい魔素の濃ゆい森のことでしょ?」
「んだ」
「なら馬並みの速さで走るよ。そうすれば陽が落ちる前に森を抜けられる」
「そ、そうか──? だがオラが行く道の方に森を迂回していく道があるからそっちさ通るのが一般的だし、最近そっちの道を通って行く行商も旅人もあんまし見ねぇべ」
「でも直線距離だとこっちの道をまっすぐ行くほうが近い。そっちの道を通ればそれだけ時間がかかるでしょ?」
「まぁなぁーんだども」
「大丈夫。ここまでありがとうおじちゃん!」
「そうか?・・・まぁ、無事を祈るよ」
また森か。しかし嘆いている時間はない。ここは壁で囲まれた城塞都市でもなければ荷車が通れるほどの野道だが、周りが森なら獣もモンスターも出る。更に魔素が濃ゆい所となれば、獣も凶暴なのが多い。陽が落ちる前にできればおじさんの言っていた村につきたい。
「ブースト」
魔力で体を強化して足に力を溜め込む。そして脹脛を上に、爪先で地面を後ろに蹴りつける。キックキックキック、速度重視の型。
「さっすがヴォルフガング・・・いや、ブラッディウルフだったか? あんれ、どっちだったかなぁ?」
リトルウルフも今や過去の二つ名、ヴォルフガングこそは正真正銘の狼を指す真の2つ名。しかしあの戦いを見た者、彼の秘めた力を畏怖する意味で巷では別の名前で呼ばれる場面もあって、密かに横行していた。
「僕の全身は血塗れだ・・・」
あれから1年、僕には慈悲を与えられる資格はない。しかしどうか主よ、憐みたまえ。自ら死する程もなく、完全な孤独を感じられない孤独な現在は、正に時間という最悪の病にかかった気分を味わっている。もし神がいるのなら、いるのだろう・・・僕を憐んでくれ。




