00 Introtius
──午前零時。
「ご、ゴボッ!!!」
泡沫のゴポゴポとした破裂が、首から肩を通って組み伏せられる白魚のような手を伝う。また、白絹を掴み取る真聖なる手が偽証の証である紫色の痣を淡く確実に残すであろう。怯える細かい振動に混じって聞こえてくる生の音、あぁ、腕を重ねて更に衰弱していく脈の音までを聞いてやりたいがお楽しみはもっともっと後に──。
「起きろ、起きろ、起きろ──!」
ステップ2では、聖なる救いの手をもってしてお前の中の悪魔を払う。邪気を吸った肺を押して飲ませた聖水ごと出す。肩から橈骨と尺骨の隙間を縫って強く這う衝動をそこから繋がる手根骨に落とす。
「ゴハッ──」
「1回目・・・」
──戻ってきた。いいなぁ、しかしまだ審判は始まったばかりだ。後9回は同じ事を繰り返す。さて、彼女はどこまで耐えられるか、こちらも相当な体力を使うことになるだろうが、これも務めである。
「ンー、いいぞ。よし、後何回深淵を覗けばお前は自分の罪を告白するか──」
・・・誰だ、俺様の背後に音もなく忍び寄った不埒者はっ──。
「あっちょ待て──チッ」
「イヤァアア──!」
白魚が跳ねた。そして叫声、耳を擘くような甲高い悲鳴が暗い路地一帯に響き渡る。
「誰か助けエッ──」
絶望に浮いた体から搾り出した淡い悲曲はなんとか路地を挟む壁まで届いたものの、肩甲骨の間を貫通した銀のナイフによってそれから泡沫の内に唐突なる素晴らしい終曲を迎えた。ナイフには即効性の麻酔薬と致死性の毒薬を片面ずつに塗ってある。決断スレば容赦はしない。
「たすけ・・・しにたくな・・・」
そして彼女は生と死に板挟みとなって希望に垣間見える恐怖を見事に絶唱したというのに──チッ、と、俺は再び舌打ちせずにはいられない。まだ審判は始まったばかりだったというのに不覚をとった。しかし審判の途中で逃げ出したということはやはり異端者、それこそ罪の証明であるから、罰が下された彼女は救われて、来世では業を背負うことなく敬虔なる信者となろう。ならば俺の貴重な時間が無作為に浪費されることなく守られたと酸味の効いた溜飲を飲み込むか。
「・・・邪魔したな?」
「戯言を。手を離したのはお前の過失だ」
「俺は過ちを犯さない。そして神が裁きを下している最中にその背後に忍び寄るなど礼儀がなっていない」
「虚言を吐くな。ただの人間が」
「我は神なり、頭が高いぞ・・・ニンゲン」
刺殺毒殺された女の背中から凶器を抜き取って2度頬擦りをして鮮血を顔に塗りたくる。それから審判中断の原因となった私に竦むような睨みを利かすが、私はむしろ、コイツの態とらしい演技を見て顔をしかめた。
「なーんて、そんなイタイケな目で俺を見るなよ照れるじゃないか! 俺たち親友だろ? な、な?」
「イタイものを見ていたんだ。今でも思うよ・・・私と相部屋となった同居人が誰か別の同居人だったらと。よりによってお前がバディとは反吐が出る」
「そりゃあ大変だ! 大丈夫か? ゲボでお前の大事な大事な本は汚れてないか!?」
「・・・この通り、僕の執筆中の原稿も本も完璧だ。・・・そもそも神の見習いを気取るお前の執行行為に目を瞑り、本には記さない。つまり本が汚れることはない」
「いい趣味じゃないか、聖典づくり。こう頼むのももう100回目くらいになるが、俺様が神になった暁には、お前に聖書と伝記づくりを依頼しようではないか」
「お前はイレギュラーだ。昔から全く理解できないから、僕の本の登場人物にはなり得ない」
「んふふ〜、死ね♪」
「お前が死ね」
胸糞悪い。どうして私がこんなやつと組まされなければならないのか・・・答えはわかり切っているのにこうして自問するとは、本当に面倒くさい感情というものは。実に非効率的だ。
「・・・で、態々嫌いな親友の俺に会いに来たってことは、何か頼み事があってきたんだろう? それもマミーにとてもではないが言えないようなイ・ケ・ナ・イ・こと♪」
「そういう物分かりが存外に悪くないところだけは評価している」
「どうも〜」
「・・・」
「で、どうしたよ。俺に歌でも歌って欲しいのか?」
「前言を撤回する。お前はやはり救いようもない阿呆だ、イカレ野郎だ」
「察しが悪いのはどっちかな? 俺が奏でる旋律はそれはそれは神々しいモノ、それでいて悲惨で儚く美しい浄化のリリックが付くんだぜ?」
「乱暴して上がる悲鳴をリリックと題するのはどうかと」
「はぁあああぁ! 魂の浄化ッッッッッ!!! 物足りねぇえええヨォおお!!!」
「・・・異常者め」
昔からお前は声、首、息に執着する。私が行為の真っ最中に声をかけたから、もうそこに横たわる屍はコイツの求めるものを提供しはしない。
「ほらほら、早く言っちゃえよ。俺は忙しいんだッ! お前のせいで十分な贖罪を集められなかったからなぁー!」
腹が減って仕方がないと泣き喚く。まるで子供だ。こうなってしまったら、さっさと用件を言って受諾だけさせて後は丸投げするのが一番面倒事が少なくて済む。
「・・・フーガとチャンバーがミニチュアガーデンから逃げた」
「オイオイまさか身内事かッ!? なんだそれを先に言えよ!」
それでそれで、早く続きを言えよと両手で私の肩を掴んで揺らし急かしてくる。
「揺らすなッ!──たく!・・・貴様の手に染み付いた穢れた念がついたらどうしてくれる」
「ノミの恨みだろうが竜の怨みだろうが穢らわしいものは全て俺の中に入った時点で浄化されるんだ。バッチくないさ」
「そうかよッ・・・で、興味はあるんだな?」
「当たり前だろッ! 俺たち家族の問題だ! かわいい弟と妹の家出なんて・・・さいっこうじゃないか!!!」
「しかし・・・頼んでおいてなんだが何故だ。お前はフーガもチャンバーの称号楽曲も欲してなかっただろう? 特にチャンバーはまだ、重奏を重ねているところだった」
「確かにな。俺が欲しいのは今のところニケの持つ称号のみ・・・だが、名誉ってのはいくらあってもいい! 何の役に立つかはわからない、それで言えば邪魔になるかもだが要らないようだったら心の奥に簡単に捨ててしまえるんだからさ!」
「悪食の中でも最底辺の思考だ」
「全てを記憶できる脳があるからこそ、お前は理解できないものを、自分が理解できない範疇にある世迷い言と言って嫌う! ギフト持ちは苦労するなぁ!」
「ギフト持ちでも、探究の果てにこの世界の中で理解できないのはきっと神と、それからお前くらいだ」
「そうか、やっぱり俺は神か!」
「違う、そんなつもりで言ったわけではない。お前は生まれつき頭に傷を負っている。だから外れている、そこまではちゃんと理解できているが、元となるお前の」
「あぁーはいはい。俺の脳がイカレてるって批判したいんだろうが、イカレてる自覚はあるって。だから俺は普通とは違う・・・グフッ♪」
グフフ、グフフフフと両手の指を折り曲げて唇に当てながら笑う様は実に気色悪い。
「フーガとチャンバーはマミーの元で調律中だったよな?」
「そうだ・・・つまり2人が発揮できる力は我々にとってもまだ未知数・・・」
「やるなー。トイボックスのおもちゃで遊んでるフリして、まんまとダディとマミーを出し抜いたわけか・・・なら、特にマミーは御冠だろうな。マミーはチャンバーにフーガと組む事を許して更にお気に入りのナイロン糸で編んだ黒布を与えてたろ? 相当に可愛がっていたからなぁ」
「・・・あんなに可愛がっていたのはニケ以来」
「マミーと奴の話はするな。あいつの称号楽曲は絶対に俺がこの手で奪ってやる・・・」
吊り上げる気力を失って瞼は死んだように落ちているのに、隙間から覗く瞳孔は目一杯に広がっている。結膜が血走せ沸沸と湧き上がる嫉妬を抑えながら滲み出した言葉からは、並々ならぬ決意が感じ取られる。
「約1年前のことだ」
「ほぅ・・・」
「私は母に逃走したフーガとチャンバーを見つけ出して連れ戻すか・・・殺す様に命じられた・・・」
「容赦なしか、相変わらずだ・・・」
「・・・」
「・・・そうか後者だな! マミーの決定だから一応は従ったる素振りを見せたものの、どうやらお前は気乗りしないとッ」
「チッ──」
「それに事情を聞いた俺様なら奴らとあいまみえれば容赦無く殺すッ! だから俺のところに話を持ってきた!!!」
「・・・その通りだ。・・・母は絶対だ・・・しかし私は生憎と共食いは・・・苦手で・・・それに仮に命じられた任を実行するとしても、2人を見つける術がそもそも乏しい」
「分析してみなかったのか?」
「知ってるだろ? 私達も含めて、分析してもあそこで育った人間にはみんな母の何重にも重なる影を見るだけで、時間の無駄だ」
だから母は彼らを連れ戻すのではなく、殺すように命じたのだ。染まり切る前に、別の色に浸かってしまった失敗作を破棄するようにと。
「だが分析はせずとも、同年代で一緒に育ったお前の性格はよく知ってる。それに行動も。解き離れた今でもこうして再会できたのは、お前の行動パターンに組み込まれたルーティンを追った結果だ」
「俺が行った浄化の残り香を追ってきたわけだ。しかし動物的な勘に疎い、本能に疎い。分析と記憶担当のくせにそれでよく変奏曲が務まるな」
「福音を謳って人殺しを正当化するお前と違って、自分の枠に嵌らないものを無闇に殺すことはしたくない。私とお前の行動の差について比較するのであれば、それはお前が死に目敏いだけだ。それだけの差。そして知識量を測れば明らかにこちらが優勢であるが、しかしこうして私がお前に頼み事をすることもある。つまり甲乙もつけがたい」
「だが、ひとたび理解できないと異質物として異端認定し存在ごと抹消しようとする。お前も即座に殺すだろう」
「・・・僕が理解できなかったのは、先ほども言ったが神と、お前・・・と・・・」
「わかるぞ、お前が何を思い浮かべてるか、思い出してるか・・・リレのことだな」
「・・・ヤメろ。お前にとってのニケこそが、俺にとってのリレだった」
「子毒か・・・懐かしいなぁ・・・あの中は楽しかったなぁ・・・」
「・・・いずれ母を理解するのが僕の目標の一つだ」
「今の遊び場は広すぎる。そして・・・こう、骨のある奴があまりにも少なすぎる。こうして称号楽曲を彫ってから外に出て出会ったメンバーはお前でまだ2人目だしな・・・コナー」
「忘れるなシド。お前が殺すほど、私が観測すべき対象が減っていく・・・可能性の芽も摘まれる」
「だがそいつらがいなくなったおかげで、然るべき人材に然るべき資源が分配されて供給される。結果世界全体の発展効率が上がるという見方もできる、違うか?」
「選別など我々を育む世界の恩寵に対する裏切りだ。共存できないエゴだ」
「エゴの何が悪い。自分を否定する奴ほどに偽善にドップリ足を突っ込んでることに気づかない。・・・そして溺れる。ほら、そこに横たわる尸に耳を傾けてみろ。何も聞こえない。世の中に蔓延っているのは都合の悪い世界を変える度胸も正す力もない弱い人間の悲鳴だ。俺は惨めな彼らに自らの弱さを懺悔させ、そして救っているだけ!」
・・・だから、殺すと。
「お前はクロウか? それともジャック・ザ・リッパーか?」
「またアダムの記した山脈の如き書に書かれた別世界の話か。勇者がこの世界に呼ばれる前にいた別の世界の記憶をもとに書かれた」
「全部で1001巻、総文字数50億以上、総ページ数は500万、1巻の平均ページ数は・・・」
「約4995頁。はいはい、それくらいなら俺にだって計算できる。1巻でも枕にするには高すぎるすあれ全部に目を通して一言一句漏らさず記憶しているお前はホント変態だ。だが・・・俺が知らない世界を俺は認めないし、なんなら書が示す新天地を信奉するマミーは俺以上にイカれてる」
「ならクロウはどうなんだ」
「実在したとはいえ所詮は神話さ。それに奴の狂気を最も良く知る被害者は一人として残っていない。なぜならみんな死んだからだ。尾鰭がないとは言わせない、多少の誇張が混じってる。嘘っぱちのジャック・ザ・リッパーもアダムの証言に基づく虚言だ。マミーに陶酔しているあいつもイカれてる。愛するなら俺にすべきなんだ・・・なぜなら俺は神になる男だ」
「神か・・・」
「何か言いたげだな・・・あれだ、俺が審判を下して回っているのはこの世界の秩序を崩す行為だと。だがここまで神に敬虔な信徒は中々いない」
「だが、人間は利益を考えて取捨選択を取れる生き物だ。だからだな、もう少しお前は審判ばかりに捉われず広い視点をもってみても良いのではなかろうか」
「俺の行為は家を建てるために森を伐採するのと同じだって言うんだろ? 薬を作るのには植物が必要なのに、人間はその地に群生する種も調査せずに勝手気ままに伐採して家を作ったり、資材とす。自ら新たな新薬を開発できる可能性の芽を摘み取っていると」
「・・・調律の問題だ。その分家は雨風から身体を守り衛生面を保っている」
「ならば畑はどうだ? 大規模な畑を耕し、そこで育つ作物は我々の糧となるが、開墾すればするほど自然は多様性を失う」
「それもまた、人間というこの星に生まれた生物の摂理。人間もまた、自然の摂理の一つと考えれば・・・なるようにしかならない」
「このまま人間文化が発展していけばいずれ正しい種の存続のシステムが崩れる。これがお前の見解だったよな」
「ああ・・・だからぼ・・・私は世界を記録し続ける。後世に正しい世界のあり方を考えさせるために。一時も無駄にはしていられない・・・答えろ。やるのか、やらないのか」
「付いてくるか・・・?」
「いや・・・お前に任せる」
「そうかこのサボり魔め! 俺は寂しいゾ!!!」
「お前とは反りが合わない」
「とっくの昔にわかっていたことだ! 楽しくなってきたなぁ!!!」
「・・・お前こそイカレてる。自分を神だと信じて止まない異常者め」
「お前こそ口に気をつけろ! 今まで昔のよしみと俺様の懐の深さで許してやったが、俺様を異常者と宣って許されるのはマミー、ダディとお前くらいだぜ!・・・いいだろう、引き受けてやろう。だが昔から言ってる通り、俺がフーガとチャンバーの称号楽曲を手に入れようが、他の兄弟たちを狩ってタトゥーを手に入れようが、ニケにだけは手を出すな・・・約束しろよ? ニケを殺すのはこの俺だ。お前は手を出すな・・・」
「私はこれ以上共食いをする気はない」
「ならいいんだッ! 奴を殺し、終末曲を奏でるのはこの俺だッッッ!!! ハッハッハハハーッ!!!」
満月に黒霧のかかる不気味な夜に宣言す。世界を形造る最も偉大な存在となるために、彼はまず壊すのだ。




