飲んだくれ社畜、異世界転移したら超人扱いされてしまいました。
僕は特別な人間ではなかった。
ただ、酒を飲むことだけが得意だった。ウイスキーでも焼酎でも日本酒でも、胃の底に流し込むと、世界がほんの少しだけ柔らかくなる。それだけのことだった。三十四歳、独身、地方の印刷会社勤務。名前は田中誠一。これといって誇れるものは何もない男だった。
その夜も、僕は一人でバーのカウンターに座っていた。
気がついたとき、僕は石畳の上に倒れていた。
空の色がおかしかった。二つの月が浮かんでいた——一つは白く、もう一つは深い緑色をしていた。ああ、これは夢だ、と僕は思った。しかし石畳の冷たさは本物だった。
「あなたは……生きているのですか」
振り返ると、耳の長い少女が僕を見つめていた。エルフ、と呼ばれる種族だと、後で知った。
「生きてる」と僕は言った。「ところで、酒はあるか」
少女の顔が青ざめた。
街の名はアルヴァンといった。
大陸の北に位置する交易都市で、さまざまな種族が共存していた。エルフ、ドワーフ、獣人、そして人間。石造りの建物が迷路のように連なり、どこかの路地からは香辛料の匂いが漂ってきた。
僕を拾った少女——エリナというエルフの娘——は、しきりに謝った。
「異界から召喚されてしまったのです。古い魔法陣が誤作動を起こして」
「責めてない」と僕は言った。「それより、この辺に酒場はあるか」
エリナは困惑した表情で、僕をアルヴァン最大の酒場《燃える竜亭》へ連れて行った。
それが、すべての始まりだった。
《燃える竜亭》のドワーフの主人——ゴルドという名の、樽のような体格をした男——は、僕の顔を見るなり挑戦状を叩きつけてきた。
「よそ者、ドワーフの酒を飲めるか?」
テーブルに置かれた木杯の中身は、《岩溶け》と呼ばれる蒸留酒だった。後で聞いたところによれば、アルコール度数に換算すると七十度を超えるという。人間が一口飲んだだけで昏倒したという伝説を持つ酒だ。
僕はそれを、一息で飲んだ。
「……もう一杯」
酒場が静まり返った。
ゴルドの目が丸くなった。彼は震える手でもう一杯注いだ。僕はそれも飲んだ。そして三杯目を所望した。
翌朝、酒場の床で目を覚ましたのは、ゴルドと他の五人のドワーフだった。僕は一人、カウンターで朝食を食べていた。
噂というものは、水のように街を流れる。
三日も経たないうちに、僕は《不死の異邦人》と呼ばれるようになっていた。
「岩溶けを十五杯飲んで立っていた」という話は、気がつけば「山の精霊と酒比べをして勝った」という話に変わっていた。誇張というものは、それ自体が一種の創作だ。
エルフの長老が僕に会いにきた。
「あなたは特別な体質をお持ちだ」と老人は言った。「毒耐性の加護を持つ者と見受けます」
「そんなものはない」と僕は言った。「ただ、昔から酒に強いだけだ」
老人は深く頷いた。「謙虚さもまた、超人の証」
話が噛み合わない、と僕は思った。しかし反論するのも面倒だったので、黙って酒を飲んだ。
その頃から、奇妙なことが起きはじめた。
街の外れに、《灰の使徒》と呼ばれる魔物の集団が現れた。人々は恐慌状態に陥った。騎士団が動員され、魔法使いたちが対策を練ったが、誰も有効な手を打てずにいた。
そんなとき、使徒の斥候が一人、《燃える竜亭》に迷い込んできた。
それは、人の形をした霧のような存在だった。触れたものを石化させる瘴気をまとい、近づく者すべてを恐怖で縛りつける。
しかし僕には、恐怖よりも先に別の感情が来た。
喉が渇いた。
「ゴルド」と僕は言った。「岩溶けをくれ」
僕は木杯を手に取り、使徒の前に歩み出た。
使徒が瘴気を放った。しかし僕には効かなかった——正確には、酔いの方が瘴気より強かったのだ。毒の類は全部、胃が受け止めてきたんだ、と僕はぼんやり考えた。
使徒は困惑した。僕は困惑した使徒の前で、酒を飲みながら言った。
「お前の主に伝えろ。この街には用がないと」
なぜそんなことを言ったのか、自分でもわからない。ただ、それが正しいことのように思えた。
使徒は逃げた。
翌日から、僕は英雄と呼ばれるようになった。
「毒の瘴気を素手で払った」「使徒を言葉一つで退けた」「実は古代の戦士の転生だ」
どれも事実ではない。しかし人々が信じたいことを、僕には止める手段がなかった。
エリナが申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい。こんなことに巻き込んでしまって」
「いや」と僕は言った。「悪くない」
窓の外では、二つの月が並んで浮かんでいた。白い月と、緑の月。東京では見られない光景だ。
ここも悪くない、と僕は思った。
酒はうまいし、空は広い。
それで十分だった——少なくとも今夜は。
僕の名前は田中誠一。
三十四歳。独身。特技は飲酒。
異世界で英雄と呼ばれているが、自分では何もした覚えがない。
ただ、喉が渇いたとき、酒を飲んだだけだ。
人生とは——あるいは、世界とは——そういうものなのかもしれない、と僕は思った。偉大な行為と、単なる習慣の間には、たいした距離はないのだ。距離があるとすれば、それは見ている側の目の中にある。
僕は今日も《燃える竜亭》のカウンターに腰を下ろす。
ゴルドが無言で岩溶けを置く。
僕は一息で飲む。
二つの月が、窓の向こうで静かに輝いている。
テスト作品です。読んでくださりありがとうございます。




