九条家へのご挨拶
三人分の靴が、静かに並んでいた。
九条家の玄関は広く、
磨き上げられた床がやけに光を返している。
音が吸い込まれるような静けさの中で、
すきは一度だけ息を整えた。
「……失礼します」
声がわずかに細くなる。隣で全が小さく笑った。
「緊張しすぎだろ」
「してない。」
即答したものの、指先はひやりと冷たい。
昨日、全が昏華家に来たときのことが頭をよぎる。
玄関で噛んで、湯のみを持つ手が震えて、父に「ゆっくりでいいよ」と笑われていた。
(……人のこと言えない)
胸の奥の鼓動が、少しだけ落ち着く。
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廊下を進む。足音がやけに大きく感じる。
案内されたリビングには、三人がいた。
父 九条正。
祖父 九条恒一。
そして、母 九条静江。
「よく来てくれたね」
正が立ち上がる。ぎこちない笑顔だが、どこかほっとしたようでもある。
「……はい。お招きいただいて、ありがとうございます」
すきは深く頭を下げた。
視線を上げると
恒一と目が合う。
厳しい光はない。
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食卓に案内される。
料理が並んでいる。
湯気の立つ煮物、香りの立つ焼き魚、
丁寧に盛られた副菜。
静江が一つひとつ位置を整えながら、少し弾んだ声で言う。
「口に合うといいんだけど」
「……すごく、美味しそうです」
本音だった。けれど、箸を持つ手がほんのわずかに震える。
――カチ。
箸先が器に当たる。
「……大丈夫か?」
全の声が、すぐそばに落ちる。
「大丈夫。」
言った直後、湯のみが傾いた。
「……あ」
お茶が、卓上を伝って広がる。
一瞬、音が消える。
その静けさを破ったのは、静江の柔らかな声だった。
「大丈夫よ。拭けばいいだけだから」
布巾が差し出される。
慌てて受け取るすきの手に、静江の指先が触れた。温かい。
「……すみません」
「いいの。初めてだもの」
その一言で、胸の奥にあった固まりが少し溶ける。
⸻
食事はゆっくり進む。
正が、言葉を選びながら話す。
仕事のことではなく、最近の出来事をぽつりぽつりと。
全の話題になると、少しだけ言い淀むが、逃げずに続ける。
「最近は……家でも、よく話すようになってな」
全が顔をしかめる。
「余計なこと言うな」
「いや、いいことだろう」
短いやり取り。けれど、その間にあった距離が、確かに少し縮まっているのが分かる。
恒一は多くを語らない。
ただ、ときどき箸を止めては、
すきと全を見ている。
その視線は、かつての断定ではなく、何かを確かめるようなものに変わっていた。
静江は、そんな三人を見ながら、どこか安堵したように微笑んでいる。
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食後。
すきは自然に立ち上がった。
「お手伝い、させてください」
「ありがとう。助かるわ」
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台所。
水の音。皿の触れ合う軽い音。整っていくリズム。
静江が、ふと手を止めた。
「ねぇ、すきちゃん」
「はい」
「全のどこが、好き?」
直球だった。けれど、逃げたいとは思わなかった。
ほんの一瞬、言葉を探す。すぐに見つかる。
「……迷わないところ、です」
静江の視線が、やさしく揺れる。
「損か得かを考えずに、思ったことを言ってしまう人で」
「そのせいで、敵もいっぱい作ります」
一拍、息を吸う。
「でも、
それに助けられた人は、もっと多いです」
言葉にしてみて、
初めて自分の中にある確信の形がはっきりする。
「口は悪いですけど」
少しだけ笑う。
「誰よりも、優しい人です」
静江は、ゆっくり頷いた。
目の奥に、長い時間を越えてきた人のやわらかい光がある。
背後で、使用人の一人が、そっと涙を拭うのが見えた。
きっと、幼い頃から全を知っているのだろう。
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リビングに戻る。
空気が、少しだけ張っている。
静江が、穏やかなまま口を開いた。
「ねぇ、あなた」
正が顔を上げる。
「全には、もう期待できない……って、言っていたわよね」
「……っ、それは、その……昔の話で」
言葉がうまく繋がらない。
静江は、そのまま恒一を見る。
「お義父さん」
「全には才能がない、扉が無い……そう、おっしゃいましたよね」
空気が凍る。
全の肩が、ほんのわずかに強張る。
すきは、その横顔を見た。過去の言葉が、まだどこかに残っているのが分かる。
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静江は、ふっと笑った。
「私はね」
声が、少しだけ震える。
「ずっと思っていたの」
「この子は大丈夫だって」
正と恒一を、まっすぐに見る。
「変わらず、そのまま育ってくれればいいって」
目に涙が溜まる。
「怖いこともあったし、心配もたくさんしたけれど」
「ちゃんと、真っ直ぐ育ちました」
そして、すきを見る。
「だって」
やわらかく、でも確信を込めて。
「こんな素敵な人を、連れてくるんですもの」
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沈黙。
重さではなく、満ちるような静けさ。
正が、ゆっくり頷く。
「ああ……そうだな」
視線を全に向ける。
「……ありがとうな」
短い言葉。だが、それまで言えなかったものが、そこに全部乗っている。
恒一が、箸を置いた。
「全」
名を呼ぶ。
全は顔を上げる。
「私の間違いを気付かせてくれて、
ありがとう。」
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すきの胸が、わずかに熱くなる。
全は何も言わない。
ただ、視線を少しだけ逸らした。
その仕草の奥に、
長く張りつめていたものがほどけていく気配がある。
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玄関。
見送りに出てきた静江が、すきの手を軽く包む。
「また、いつでも来てちょうだい」
いたずらっぽく笑う。
「なんなら、ここに住んでもいいのよ?」
「……あ、ありがとうございます」
思わず言葉が詰まる。けれど、その温かさはまっすぐ伝わる。
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外に出る。
夜風が、頬を撫でる。
少し歩いてから、すきが言った。
「……疲れた。」
全が笑う。
「顔に出てる」
「全くんもね」
「俺は慣れてる」
「嘘だよ」
少しだけ間があって、二人とも笑う。
しばらく無言で歩く。
街灯の下、影が並ぶ。
「……いい家族だね」
すきが言う。
全は、少し考えてから頷いた。
「……まぁな」
短い返事。でも、その中にあるものは、以前よりずっと柔らかい。
⸻
空を見上げる。
(ああ)
(今日のこれは)
(大会より、ずっと怖かった)
けれど。
胸の奥に残っているのは、恐怖じゃない。
逃げ切った安堵でもない。
誰かに受け取ってもらえたときの、
あの感触に似ていた。
言葉にならない、小さな確かさ。




