全と零のお茶会 前編
春の柔らかな陽射しが、住宅街の路地を照らしていた。
一条零は、自宅前の電柱にもたれ、腕時計を見た。
12時05分。
(……遅刻か)
だが、不思議と苛立ちはない。
昨夜、何度も考えた。
「飲みに行く」と言われた。
酒だと思った。
断る理由も思いつかなかった。
同期や先輩に誘われることなど、ほとんどなかったからだ。
遠くからエンジン音が近づく。
黒い車が静かに停まる。
窓が下がる。
「悪い、遅くなった」
九条全が笑っていた。
「いえ、大丈夫です」
零は助手席に乗り込む。
車がゆっくりと走り出す。
⸻
「そういや、あいつ誘わなかったのか?」
全がハンドルを握りながら言う。
「下衆田ですか?」
「ああ」
「今日は地方のゲームセンターでイベントがあるそうです。誘ったらキャンセルすると言ったので、仕事を優先させました」
全は声を出して笑った。
「すげぇ忠誠心だな」
零は小さく頷いた。
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住宅街を抜け、道は少しずつ広くなる。
やがて車は静かな屋敷の前で止まった。
重厚な門。
整えられた庭木。
大きな表札。
【梅田流茶道】梅田芭蕉
零は目を瞬かせる。
「……ここ、ですか?」
「おう。行くぞ」
全は慣れた様子で門を開けた。
零は一瞬躊躇し、後に続く。
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玄関の呼び鈴が鳴る。
すぐに使用人が現れた。
「芭蕉さんのお茶、飲みに来ました」
全が言う。
「お待ちしておりました。どうぞ、九条様」
静かな廊下を進む。
畳の匂い。
足音が吸い込まれていく。
零は無意識に背筋を伸ばしていた。
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障子が開く。
茶室。
中央に座る男。
梅田芭蕉。
「やぁ、全くん」
柔らかな笑み。
「一条くん。いらっしゃい」
零は深く頭を下げた。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
全が横でニヤニヤしている。
⸻
柔らかな昼の光が、茶室の障子を淡く透かしていた。
畳の匂い。
湯の立つ音。
風に揺れる竹の影。
一条零は、正座の姿勢のまま、その静けさに身を置いていた。
目の前で、梅田芭蕉が茶を点てている。
無駄のない動き。
だが急がない。
止まっているようで、流れている。
茶碗が差し出される。
「どうぞ」
零は受け取る。
湯気が立つ。
口をつける。
苦味。
その奥にある、静かな甘み。
喉を通った瞬間――
胸の奥に張り付いていた何かが、
静かにほどけていく。
世界の音が、遠のく。
ただ呼吸だけが残る。
(……静かだ)
(いや)
(静かになったのは――自分の中か)
⸻
「どうだ?」
全が覗き込む。
零は少し考え、
「……落ち着きます」
と答えた。
芭蕉は小さく頷いた。
⸻
全が笑いながら言う。
「おれさ、初めて来たとき――」
芭蕉が嫌な予感をした顔をする。
「まじぃって言ったんだよ」
使用人が凍りつく。
零の目がわずかに動く。
「そしたらこの人、爆笑してさ」
芭蕉は肩を震わせて笑った。
「正直な感想は貴重だ」
使用人は心底安堵した表情になる。
⸻
庭から風が入る。
竹が揺れる音。
遠くの鳥の声。
静けさの中で、零は気づく。
試合の音も、
観客の罵声も、
ブザービートの「ぱすっ」も、
ここには届かない。
胸の奥に残っていた硬い塊が、
少しずつほどけていく。




