番外編 ある暖かな日の出来事
昼下がりの暖かな応接間の絨毯の上で、フカフカのクッションを背にして船を漕いでいたコレットは思い切り髪の毛を引っ張られた。
「イダッ」
とっさに目を開けるとそこには丸々と太った赤ん坊が髪の毛をぎっちりと握っていた。柔らかそうな赤い髪に、透き通るような白い肌が美男子感を強めている。
「ごめんなさいコレット様。いけませんよ、悪い子でちゅね」
全く怒る気などないのだろう言い方で、やはり怒る気などないのだろう手付きで赤ん坊を抱き上げると、離す気が全くないもっちりとみっちりとお肉の詰まったまん丸の手がコレットの髪を持ち上げた。釣られて立ち上がり、仕方なく笑いながらもちもちの短い指を順番に引き離していく。最後の指が上がった所で再びギュッと握られてしまった。
「フィンはコレット様が大好きなのよね。でも離さないとメッよ」
――いやいやそれじゃ離さないでしょ!
苦笑いしつつ、もう一度握られた髪を手から外そうとした時だった。
「フィン、止めるんだ」
低く通った声に一瞬喜んだのも束の間、驚いたせいでフィンはビクンと体を揺らし、掴んでいた手も揺れた。
「くッ」
なんとか声を我慢すると、トリスタンとフィンの父親であるデュボワ元公爵は、それはもうデレデレの甘ったるい顔で妻のシルヴィーと息子のフィンに口付けをしていた。最初はシルヴィーを突き放そうとしていた元公爵も、吹っ切れた今では年下妻と息子に激甘な夫になっているようだった。
――別にいいですよ、妻と子なんだし。でも義理の娘がお宅の息子の手を介して繋がっているんですからね!
内心突っ込みを入れてはみるものの、実際義父に言える訳もなく、コレットは乾いた笑みを浮かべながら微妙な位置で家族の抱擁を見つめていた。
「フィン! 手を離すんだ」
グイッと肩が引かれ、髪の先を掴んでいたフィンの手を上手に瞬時に引き離したのは、トリスタンだった。
「父上、それにシルヴィー様もフィンを甘やかさないで頂きたい。このままでは何も出来ないひ弱な弟になりそうで心配です」
その瞬間、今の今まで救世主が現れたと思っていた顔に翳りが出てしまった。
――トリスタン様、弟君のこのお体格をよく見て下さい。どこからどう見ても立派よ。小柄なシルヴィー様が抱いているのが奇跡なくらいだわ。もしかしたら見た目に反してお菓子のように軽いのかしら……。
「いいんです。フィンは私の事がとっても好きなのよね。ほらおいで」
フィンは嬉しそうに短い手を伸ばしてくる。半身が移動してきただけで感じた重量感に、コレットはギュッとフィンを抱き締めるとシルヴィーにそっと返した。
「申し訳ありませんお義父様、シルヴィー様。私これから工房に行かなくてはいけなかったんです」
「そうだったのか。家族で食事でもと思ったんだが仕方ないな。あまり無理のないようにするのだぞ」
コレットはにっこり微笑むとトリスタンと共に応接間を出た。
「くッ、フッ」
「……トリスタン様笑い過ぎです」
「すまない。フッ、フィンは大きいだろう」
「まだ赤ん坊ですし、何せフワフワのもちもちなのでもっと軽いと思っていました」
「フィンを抱いてトレーニングすると良い負荷が掛かって丁度いいんだ。だからコレットはくれぐれも無理をしないように」
「そんな事に弟を使うのはお止め下さい!」
トリスタンがここまで笑うのは珍しい。コレットも可笑しくなってしまい、じぶんのまだ少ししか膨らんでいない腹に手を当てた。
「最近とても眠いのです。応接間は日当たりが良くてお昼寝に丁度いいんですよ」
「でもそれだとフィンがすかさず来るからな。兄弟揃って同じ女性が好きとは困ったものだ」
同じ女性が好き、という言葉に頰を赤らめていると、するりと手袋越しに頰を撫でられた。
「結婚して一年以上経つのにまだ慣れないか?」
「……多分あと五年は慣れません」
するとトリスタンが上機嫌に抱き上げてきた。
「ちょ、トリスタン様! 危ないのでお止め下さい!」
「馬車を待たせてあるから出掛けよう。揺れが腹の子にあまり良くないかもしれないからこのまま抱き抱えて乗るぞ」
「出掛けるってどこにですか?」
しかしトリスタンは嬉しそうな顔をしたまま馬車に乗り込むと、宣言通りに膝にコレットを乗せたまま馬車を出してしまった。
間近に見つめ合うにしても程がある。確かにもっと至近距離で見つめ合った事もあるが、昼間の馬車の中でというのはどうしても悪い気がしてきてしまう。誰にという訳では無いが、強いて言うならお腹の子にとでもいうべきだろうか。
「百面相してどうしたんだ?」
「な、見ないで下さい!」
両手で隠すように顔を覆えば、ぐいっと簡単に引き離されてしまう。
「俺としてはこの愛らしい顔をずっと見ていたいんだが?」
「それ出産中にも言えます? きっと凄い顔をしているはずです。今だって薄化粧に見えますが実の所細かな侍女達の技法が詰まって……」
――チュッ
啄むような口付けが落とされればもう何も言う事はない。吸い寄せられるように薄い唇に顔を寄せた時だった。
「着いたぞ。ここが目的地だ」
不発に終わった口付けを名残惜しく思っていると、一旦向かいに座らされ、素早く手を伸ばしてきた。ステップは踏まずに抱き上げて降ろされた目の前には、デュボワ公爵家を凌ぐ大きさの屋敷か聳えていた。
王都の一等地にこれだけの屋敷とはと感心し、ふと心の声が漏れていた。
「あの敷き詰められた石畳……とても高そうだわ」
「最初の言葉がそれとはな。さすが商売をしているだけの事はある」
「いえその! とても立派ですし、素晴らしいです。どなたのお屋敷ですか?」
すると門が開き、そこには馴染みの顔触れが並んでいた。
「旦那様、奥様、お帰りなさいませ!」
使用人達の声が一斉に響く。そこにはルネの姿もあった。
「どういう事なの?」
「俺達の新居だ。建てている期間中、コレットがここを通る時は速めに通過するように御者に言っていたんだ。本当は父上の方が出て行くと仰ったんだが、まだ小さなフィンの環境を変えるのは良くないし、ここは城から近いから俺もすぐに帰れると思ってな」
「デュボワ家もお城から十分に近いです。無駄遣いです」
「でもここは更に近い。コレットにすぐ会える」
剝れた頰が突かれ、コレットは笑いながら抱き着いた。
「実を言うと二人暮らしに憧れていたんです。お義父様達が嫌だというのではなくて、トリスタン様と二人で気兼ねなく……」
そこで言葉が止まる。
「気兼ねなく? 何をしたかったんだ?」
使用人達はそっぽを向いたり、下を向いたりしている。それが余計恥ずかしくなり、トリスタンの腕をグイッと引っ張った。
「早く中を案内して下さいませ!」
「コレット続きは聞かせてくれないのか?」
「……それは二人きりになるまで内緒です」
引っ張られたトリスタンは体を斜めにしながら、嬉しそうに笑っていた。




