12 幼い日の記憶
――コレットはあまりにも自分に興味がないのでは?
勢いよく入った私室の椅子にどかりと座ると、トリスタンは片手で首元のタイを緩めた。
「訓練所にいた頃まではあんなに会いに来ていたのに」
コレットと婚約をしたのはもう随分前の事だった。
「なぜですかお父様! コレット嬢は身分も容姿も性格も問題ないはずです!」
五歳の時にコレットと出会い、幼いながらロシニョール家の令嬢に結婚の申込みをして欲しいと父親に願い出てから更に五年。あっという間に年は十歳になり、そろそろ公爵家の跡取りとして婚約しなくてはいけない年になっていた。もちろん自分は縁談がきても何かと理由をつけて断る事は出来る。しかしコレットも公爵家に継ぐ高貴な家柄の令嬢なのだ。女性の縁談に関しては確実に当主が決定権を持つ。コレットは言われた相手と結婚せざるおえないだろう。トリスタンは焦る気持ちを抑える事が出来ず、この日は引くつもりはなかった。
「今日はめでたい誕生日なのだからこの話題は終わりだ。お前はもう準備をしなさい。いつまでそのような格好でいるつもりだ? 今日は沢山の友人を招待しているのだからな」
友人とはいわゆる婚約者候補の者達の事に違いない。トリスタンはパーティー用衣装に着替える事も拒み、父親の後をついて回った。
「いい加減にしないか。検討中だと何度も言っているだろう? まずは子供らしく今日の誕生会を楽しみなさい」
追い払われるように父親の執務室から出されたトリスタンは、苛立ちを隠す事もしないで屋敷を飛び出していた。といっても敷地内から出られる訳もなく、結局の所庭に出るしか出来ない。屋敷の中は誕生日会の準備の為、使用人達が慌ただしく歩き回って準備をしている。それを見ながらぽつりと呟いた。
「せめてコレットが来たら楽しかったのに」
窓の下に背を付いてずるずると座り込んだ。
すでにコレットは不参加という返事をロシニョール侯爵からもらっている。本来爵位が上の家からのパーティーを断るなど余程の事がない限りあってはならないが、今ロシニョール一家はグレンツェ領に長期滞在中だったらしく、物理的に間に合わないのであれば仕方がない。それでもトリスタンの心にはモヤモヤとした気持ちが渦巻いていた。
「ここにいたのね。かくれんぼしているの? 鬼は誰?」
ひょっこりと顔を覗かせたのはグレンツェ領に行っているはずのコレット本人だった。ふんわりとした赤いドレスを着て、いつもさらりとした長い髪も今日は巻かれている。トリスタンは驚き過ぎて返事が出来ないまま、あんぐりと口を開けていた。
「トリスタン様、私の事を忘れちゃった?」
――忘れるもんか! むしろこの五年間、何度も婚約の申込みをしてきたくらいなんだから!
しかし想いは言葉にならず、ただぐっと大人びた姿のコレットに言葉を失ってしまっていた。
にっこりと笑ったコレットは綺麗にドレスの裾を摘んで礼をしてくれる。そうしてようやくトリスタンも立ち上がる事が出来た。
「コレット、君はグレンツェ領にいたんじゃないのか?」
するとコレットは首を傾げた。
「ずっとお家にいたわ。今日はパーティーだとお父様から聞かされていたからとっても楽しみにしていたのよ? でもお留守番のジャンが可哀想で……なぜ女の子しか来ちゃいけないの?」
むくれたコレットも可愛い。そんな事を考えていると、後ろから大きな叫び声が聞こえた。
「お嬢様! あぁなんて事をッ!」
声を上げたのは年上だがまだ子供の侍女だった。震えるように近付いてくると、コレットの手をがばっと掴み足早に通り過ぎていく。声を掛けようとその後を追った時、侍女の足がぴたりと止まった。
「恐れながらトリスタン様は何も見ておられません。宜しいですね?」
「いや、でもコレットともう少し話を……」
「後で幾らでも会えますから! 宜しいですね!?」
「ルネ! トリスタン様に失礼よ」
怒っているコレットも可愛いが、侍女の剣幕に負けたトリスタンは頷くと、大股で過ぎていく侍女とコレットの背を見送った。
そして誕生日会始まりの時刻。この中にいるのは婚約者候補の令嬢だけ。でも庭に出る前よりは気分は回復していた。何人何十人いたっていい。この部屋のどこかにいるコレットを見つければいいだけの話なのだ。しかし使用人が開けた部屋の中に足を踏み入れた瞬間、トリスタンは全身から力が抜けてしまっていた。
部屋の中央には大きな垂れ幕が掛けられている。
――祝、トリスタン様。お誕生日、並びにご婚約おめでとうございます!
「ご婚約?」
もはやそちらの情報しか視界に入って来ない。何が起きたのか分からないでいると、テーブルの横にあった大きな箱の上部が開き、コレットが現れた。
「トリスタン様さきほど振りね!」
コレットは驚かせる事に成功し、満足した様子で頬を紅潮させている。トリスタンは上に掛かっている垂れ幕と、部屋の中に唯一いるコレットを見比べると無言のまま歩き出し、放心したままコレットを抱きしめようと……抱きしめようとした所で、身体は物凄い力で後ろに引かれた。思わずグエッと声が出てしまう。そして後ろから入れ違うようにコレットに近付いていったのはロシニョール侯爵だった。コレットを箱の中から抱き上げて取り出すと、降ろす訳でもなく自分の腕に乗せた。髪を後ろで撫で付け、侯爵というよりは完璧な執事のような雰囲気のロシニョール侯爵は、初めて見るような冷たい視線でトリスタンを見下ろしていた。こうして並んでいるとそっくりな二人の顔を交互に見つめていると、ロシニョール侯爵は小さく溜息をついた。
「断り続けるのも疲れてしまったので取り敢えずは承諾しましたが、いいですかトリスタン様、お触りは禁止です。コレットが学園を卒業し、正式な夫婦となるまではお待ち下さい。破ればこの婚約は破談です。宜しいですね?」
お触りという言葉に時間差で恥ずかしくなったトリスタンは、何を約束されているのかも分からないまま、半ば夢の中のような事態にコクコクと頷いてしまった。
「子供のうちに言質を取るとはロシニョール侯爵は恐ろしいな」
苦笑いを浮かべながら部屋に入ってきたのは、デュボワ公爵だった。どうだ、と言わんばかりの笑みを浮かべながらトリスタンを見下ろしている。そして今日この日を迎えるまで、どれだけ父親が奔走してくれたのかが分かり、思わず目が熱くなってしまった。ちょいちょいとロシニョール侯爵の袖を引いたコレットが降りる合図を送る。コレットはトリスタンの前に行くと、小さな手でぎゅっとトリスタンの手を握った。
「私トリスタン様が大好き! だって格好いいんだもの」
そう言うと、ちゅっと頬に口づけをした。
男達の無言の悲鳴が上がる中、トリスタンは惚けたまま立ち尽くしていた。そしてこの日から数ヶ月、理由は分からないがコレットに会う事は出来なくなってしまった。




