わたくし、一度ダメだと思ったらもう無理なのです
相生、勝手に年末短編祭り1作品目
[日間]異世界〔恋愛〕 - すべてランキング1位(12/15夜)
12/22
人物名変更
重苦しい香油の匂いが、アウレア侯爵家の寝室を満たしていた。
今日、ラルーシェは伯爵令嬢ラルーシェ・フロラントから、侯爵夫人ラルーシェ・アウレアとなった。
この重厚な天蓋付きベッドが、今夜からラルーシェの戦場となる――。
「何をぼんやりしている。さっさと寝台へ来い。男を知らぬ訳でもあるまい」
――はずだった。
ああ、ここでも愛されることはないのか、と。
ラルーシェは心が冷えていくのを感じながらそんなことを思った。それだけ重い含みを有する言葉。
窓の外は闇。ラルーシェの心もまた、深い闇に沈んでいく。
実家であるフロラント伯爵家では、ラルーシェは伯爵令嬢として最低限の体裁を保つだけのものしか与えられなかった。それなのに仕事は誰よりも押しつけられていた。
乳母の子で侍女となってくれたレミアが支えてくれなければきっとラルーシェは絶望して命を絶っていただろう。
ラルーシェにはよくない噂があった。
それは妹のフィリカが社交界デビューを果たしてから流れたものだ。天使のような愛らしさを持つフィリカは巧妙にラルーシェに関する悪評を囁いた。
「お姉さまは、夜な夜な屋敷を抜け出して男遊びをしているようなの」
「あそこの商会の者と肉体関係を結んで宝石を手に入れたみたいだわ」
馬鹿げた噂だが、それを楽しむ者たちが社交界にいるのも事実。なんと傍迷惑なことだろうか。
噂が流れた時期から考えればフィリカが原因であることは明白だが、フロラント伯爵家で前妻の娘として虐げられていたラルーシェに打つ手はなかった。
いずれ結婚すればこの家を出ていくことができると信じていたラルーシェにとって、まるで娼婦のような女だと噂されたことは致命的だった。
王都の社交界ではラルーシェの抱き心地を語る者まで現れたという。
父は噂を流したフィリカを叱ったが、それだけ。
ラルーシェに関するよくない噂を打ち消そうとはしなかった。
そして、そんなラルーシェに唯一残された縁談が、目の前の男――リカールド・アウレア侯爵だった。
リカールドは『狂剣侯爵』と呼ばれる男だった。
その二つ名は戦場での武勲とは少し違っていた。
バルロイ伯爵家との私闘で家族を殺され、その報復として単身乗り込み、屋敷の者すべてを斬り捨てたという凄惨な事件に由来するものだ。
何よりその時の私闘で顔に七つの傷を負っていたのだ。胸ではなく、顔に、である。
血まみれの報復者。それがリカールドだった。
侯爵家唯一の生き残りとなったリカールドは侯爵という高位を継いだものの、貴族令嬢たちからは怖れられた。その結果として悪評の立ったラルーシェだけが、釣り合いの取れる相手として残った。
フロラント伯爵は、傷物のラルーシェが高く売れたと喜んだ。
その姿を偶然見てしまったラルーシェは、絶対に幸せになりたいと心に誓ったのだ。父に、妹に……いつか幸せな姿を見せつけてやるのだ、と。
それなのにリカールドは……フィリカの流した噂を信じて、ラルーシェへ侮蔑の視線を向けていた。さっきの暴言は本気ということ。
『男を知らぬ訳でもあるまい』
もはや愛されることなど金輪際ないのだろう。そんな絶望がラルーシェの胸を締め付けていた。
ラルーシェはベッドに近づこうとしなかった。ソファからゆっくりと立ち上がり、リカールドをまっすぐに見つめる。
侮辱された怒りで震えそうになる心と体を理性で必死に押さえつけ、どうにか穏やかな微笑みを浮かべる。
「わたくしの純潔をお疑いのようですね、旦那さま? 結構です。ならば今宵の床入りはなりません」
「何を……」
「当然ではございませんか。初夜において妻の純潔を疑う。そのような状況で生まれた子を誰がアウレア侯爵家の正統な跡継ぎと認めましょうか。その子の血には、常に疑いの目が向けられることになりましょう。せめて次の月の物を終えてからでなければ」
ラルーシェは意地で微笑みを崩さなかったが、この男と体を重ねることはしないと心に強く誓った。
今後は夜になったら体調を崩せばいいのだ。
ラルーシェを娼婦のような女と思いながらも抱こうとしたくらいだ。
この男ならどこの娼館であっても性欲を発散できるだろう。ラルーシェがこの男の性欲を満たす必要はない。
ラルーシェの言葉は、単なる感情論ではない。貴族社会の根幹に関わるロジックだ。
リカールドはそれを否定できなかった。失言したのはリカールドの方なのだ。
「では、失礼いたしますわ」
ラルーシェは隣室の扉を開いて夫婦用の寝室を去った。隣はラルーシェの自室となっている。
ラルーシェはすぐに扉のカギをかけて侍女のレミアとローリを呼んだ。
「レミア、こちらで寝るから準備をお願いね。ローリ。あなたは家令に伝言を。旦那さまがわたくしの純潔をお疑いなの。初夜は中止よ。急ぎ神殿へ使者を送り、高位の巫女さまをお招きして頂くように、と」
「巫女さま、ですか?」
伯爵家から連れてきた乳母の娘でもあるレミアがすぐに行動するのと違い、侯爵家で新たに侍女としてつけられたローリは疑問を口にした。
ラルーシェはそういう部分でも軽んじられていると感じた。色々と……この侯爵家ではどうにかしなければならない。
「ええ。純潔検査を執り行うため、侯爵家の家格に見合った高位の巫女様を三名、こちらへお連れするように。これは侯爵夫人としての命令よ。急ぎなさい」
そう言い捨てるとラルーシェはもうローリを視界から外した。
驚愕の表情のままのローリがラルーシェの部屋を出ていくと、ラルーシェはいそいそとベッドの準備をしているレミアの背中に声をかける。
「わたくし、いずれこの侯爵家を出て行こうと思うわ。それでもレミアはついてきてくれるかしら?」
「もちろんです、お嬢さま。どこまでもお供致しますとも」
レミアはわざと「お嬢さま」と呼んだ。
それに気づいたラルーシェは心から微笑んだ。
こうしてラルーシェとリカールドの初夜はいつかどこかへと持ち越されることになったのだった。そんなものはもはや存在しないだろうけれど。
神殿から駆けつけた三人の巫女が帰っていくのを見送り、ラルーシェは言った。
「全ての使用人を集めなさい」
家令と家政婦長は黙礼して指示に従った。
この二人は先の私闘を生き残った古株であり、侯爵夫人となったラルーシェを元から敬っていた。ただ、そういう使用人はこの屋敷では珍しい方だった。
夫人となる方を大切に慈しむようにという家令と家政婦長の当たり前の忠言を聞き流して、リカールドは初夜での暴言を吐いた。
大多数の使用人たちと同じように、噂に踊らされていたのだ。
玄関ホールに集められた使用人たちはラルーシェと目を合わせないようにしていた。
昨日まではいろいろと噂をしていたのだが、今はもうそれが完全に否定されているのだ。噂を楽しんでいた者ほどラルーシェを怖れていた。
ラルーシェの純潔検査の時、招いた巫女たちの世話役を命じられたメイドが3人いた。このメイドたちの目の前で巫女たちはラルーシェの純潔を宣言して証明書も残したのだ。
新しい奥さまはあばずれらしいというのはただの出鱈目でしかなかった。
「この屋敷には侯爵夫人を貶めようとする者が大勢働いていたようですわね?」
ラルーシェの言葉が響く。
それは断罪の瞬間だった。使用人たちは震えた。
「今、この屋敷での仕事を辞めるというのであれば紹介状も渡さずに放り出します。外でどのような噂を巻き散らしてもいいわよ? その代わり……どのような目に遭ったとしても当然だわ。侯爵夫人に対する無礼なのだもの」
身に覚えのある使用人の頭がどんどん下がる。
「この屋敷に残るというのであれば……わたくしに忠誠を誓いなさいな。二度と、わたくしに逆らうことなどないように。さて、あなたたちはどちらがいいのかしら?」
使用人に選べる選択肢は存在しなかったが、まるで選択肢が目の前にあるかのようにラルーシェは左右の手を広げてみせた。
この日、この時をもって、ラルーシェは侯爵家の使用人を掌握した。
逆らえば屋敷から紹介状もなく放り出されるのだから、真の忠誠とは呼べないものだったがそれでもないよりはマシだった。
「……すまなかった」
それは、絞り出すような声だった。
「私の不明により、そなたの名誉を著しく傷つけた。この通り、謝罪する」
ラルーシェは、リカールドの謝罪を冷ややかに見つめた。
謝罪すれば終わりではない。一度、口にした言葉が言わなかったことになる訳ではないのだ。
「旦那さま。まだ何も終わっておりません。これからが始まりでございますので」
「終わっていない……?」
「ええ、そうです。今はまだこのお屋敷の中だけのことですもの」
「中だけ……キミはいったい何を望んでいるのだ?」
リカールドが顔を上げた。その瞳には、初夜の寝室での侮蔑ではなく、戸惑いと……そして、ほんのわずかな熱が宿り始めていた。
「わたくしの悪評を利用して、わたくしと肉体関係にあるなどと口にしていた者たちがおりますもの」
「……」
「彼らを、この屋敷に呼びつけてください。できるだけ早く」
「……そいつらをどうするつもりだ?」
「侯爵夫人の名誉に関わることですもの。きっちりと賠償を求めますわ」
リカールドは、今度こそ目を見開いた。
そして、数秒の沈黙の後、リカールドはラルーシェがこの侯爵家を守ろうとしているのだと結論づけた。
それはリカールドにとっての光だった。
バルロイ伯爵の大欲から始まった私闘でアウレア侯爵家は多くのものを失った。勝利したからといって命が甦る訳ではないのだ。
崩壊しかけた侯爵家を自分一人でどうにかしなければならないと抱え込んでいたリカールドは強い味方を得た気持ちになった。
ラルーシェの冷えた視線に気づかぬままに……。
「分かった。できるだけ急いで集めよう」
リカールドも本気になった。妻の敵は俺の敵、そんな気分だった。自分が既に敵視されているというのに。
三日後の夕刻。
アウレア侯爵家の応接室には、青白い顔をした五人の貴族が震えながら立っていた。
彼らこそ、フィリカにそそのかされ、あるいは自らの虚栄心から、ラルーシェとの「関係」を吹聴した男たちだった。
「さて、皆様。先日、神殿の巫女様方により、私の純潔は公的に証明されましたの。こちらに証明書も頂いておりますわ」
男たちは立たされたままだ。リカールドがソファを勧めることなくにらみつけているので動けない。
「つきましては、皆様があちらこちらで口にしてこられた『私との肉体関係』について、その根拠をお伺いしたいのです。……もし根拠がないのであれば、それはアウレア侯爵夫人であるわたくしへの最大の侮辱。さあ、どなたからご説明を頂けるのかしら?」
男の一人、ナイゼル男爵令息が、吃りながら反論しようとした。
「そそ、そ、そのような……証拠など、とど、どうしようも……!」
「あら? 証拠がないということかしら? では、あなたは嘘を触れ回っていたと、そう認めるのですね? 侯爵夫人であるわたくしのことを……当時は伯爵令嬢であったわたくしのことをまるで娼婦であるかのように?」
ナイゼル男爵令息が言葉に詰まった瞬間、ラルーシェの横に座っていたリカールドがゆっくりと立ち上がった。
立ち上がっただけなのに、ナイゼル男爵令息はブルブルと大きく震え出した。
さすがは『狂剣侯爵』と呼ばれるだけはあるとラルーシェは感心した。これなら話は早く終わりそうだ。
リカールドは何も言わない。何も言わないようにラルーシェが頼んでいた。
そこにいるだけで威圧的なのだからとても便利だとラルーシェは思った。
男たちは室内の温度が一気に数度下がったかのように感じていた。
「ど、どうか、い、命だけは……!」
ナイゼル男爵令息のような小物には耐えられなかった。リカールドの顔の傷が怖すぎる。
「では、こちらにサインをどうぞ?」
ラルーシェは賠償の支払いを認めさせるための契約書にサインをさせる。
ナイゼル男爵令息だけでなく、イリトス子爵令息、エクセラ伯爵令息、マリオン男爵も次々とサインに応じた。
これらの賠償金は全て侯爵夫人に対するものだ。つまりラルーシェの個人資産となったのだ。ラルーシェの狙い通りだった。
しかし、一人だけ応じない者がいた。カエサル・ラーニング侯爵令息だ。
子息とはいえ家は侯爵家で同格だ。譲れないものもある。
簡単に応じないことで相手に妥協させていくのも交渉術の一つだ。
だが、今回のカエサルのやり方は失敗だった。相手を完全に見誤っていた。
「……そうか。では私闘だな。ワルド、殺さぬ程度に骨を折ってラーニング侯爵家へ送り返せ。そのまま宣戦布告もしてくるといい」
これはラルーシェが頼んだことではなかった。
しかも、執事のワルドはリカールドに言われた通りにカエサルの腕を折り、そのまま引きずって応接室から出て行った。
「旦那さま?」
「これはアウレア侯爵としての決定だ。異論は認めん」
そう言うとリカールドも応接室を出た。
想定外の動きになってしまったが、ラルーシェはリカールドを止めなかった。そのことを後悔することもなかった。自身を侮辱してきた侯爵令息を気遣う必要をラルーシェは感じなかった。
以前の私闘で、王家はバルロイ伯爵を止めなかった。そのせいでアウレア侯爵家は多くの血を流すことになった。
今回はアウレア侯爵家が仕掛ける私闘だ。リカールドは王家が止めようとしても無視するつもりだった。
当然ながら王家はアウレア侯爵の私闘を止めることはできなかった。どの面下げてそんなことを口にできるというのか。
それに王家はリカールドの強さもおそれていた。
リカールドは思う存分暴れ回った。
ラーニング侯爵は息子を差し出してでも私闘を避けようとしたが、リカールドは妥協しなかった。
リカールドという男は以前の私闘で既に壊れていたのかもしれない。
ラーニング侯爵家は崩壊寸前の上、多くのものを奪われた。幼女一人だけが生き残り、王家の後見によってその子を守り、その婿が爵位を継ぐと決められた。
いずれ王族から誰かが婿入りして公爵位でも授かるのだろう。
そういう部分にリカールドは口出しするつもりはなかった。
この時の戦果の約半分をリカールドに与えられたので、ラルーシェの資産は膨大なものになっていた。
リカールドとしては初夜での暴言の償いのつもりだったが、それ以降もラルーシェが夫婦の寝室へ来ることはなかった。
それから3年。
ラルーシェは立派に侯爵家の家政をこなした。
元々、実家のフロラント伯爵家でも、実母が亡くなった後で義母の代わりにやっていたことだった。
そして、ちょうど3年目となる結婚記念日にラルーシェはリカールドと向き合っていた。
「……なんだこれは?」
「離婚届ですが何か?」
ラルーシェは執務室でリカールドに一枚の紙を差し出しつつ、首を傾げた。
リカールドの顔から、血の気が引いた。
「……何を、言っている」
「言葉通りの意味です。子なしは3年で離縁するべし。これは貴族として当然のことですわ、旦那さま」
「馬鹿な! そもそも俺たちは……!」
「白い結婚であっても3年で離縁するのは問題ありませんので」
ラルーシェはリカールドの言葉を遮って、冷ややかに笑った。
これまでずっと体調がよろしくないという理由で、夫婦の寝室への誘いを断ってきたのだ。
家政婦長が無理強いはいけないとリカールドに釘を刺していることも知っていたが、それを遠慮なく利用させてもらっていた。絶対にこの男に肌を許さないと誓ったのだから。
「これまでキミは侯爵家の家政を……」
「侯爵夫人である限り、その責任を果たすのは当然なので」
「ならば跡継ぎを産むことも……」
「ですが、純潔を疑うような方と夜を共にすごすのはわたくしにとってはひたすら不快ですもの」
「な……」
それは……ラルーシェがいつか必ず言ってやろうと思っていたこと。
「旦那さまはあの日、わたくしの純潔を疑いながらも抱こうとしたではありませんか。要するに、どんな女でも抱くことができるのでしょう? 本当にあばずれな貴族令嬢など、探せばどこにでもおります。後妻も妾も旦那さまのお望み通りですわ。思う存分これからは夜をお楽しみ下さいませ。わたくしには無理ですので」
リカールドは口をパクパクとさせた。実に侯爵らしくないみっともない姿で。
すでにリカールドはラルーシェに惚れこんでいた。完全に堕ちていたのだ。
もちろん、ラルーシェもそのことには気づいていた。
だが、リカールドに惚れられたからといって何だというのだろうか。ラルーシェはリカールドの愛に重きを置かなかった。
「……ま、待ってくれ、ラルーシェ……」
リカールドが、ラルーシェへと手を伸ばした。まるで幼子が母を求めるように。
ラルーシェは半歩身を引いてその手を避けた。
「わたくしたちの間には何もないのです、旦那さま。残念ながら、あの日……旦那さまが噂だけを信じた。それがわたくしにとっては全てなのです」
「……」
「わたくしは行きます。個人資産は十分にあるので、これからは自分の力で生きていきますわ」
ラルーシェは執務室を出て行った。「……ラルーシェ……」というリカールドの苦し気なつぶやきが背中に届いたが、ラルーシェは一度も振り返らなかった。
ラルーシェが侍女のレミアと共にアウレア侯爵家の再建された壮麗な門をくぐり抜けた時、空は皮肉なほど青く澄み渡っていた。
「……ラルーシェさま。よろしかったのですか?」
「もちろんよ」
侍女のレミアの問いに、ラルーシェは明るく答えた。
「あんな男よりも、レミアと一緒に楽しく暮らす方が何百倍も楽しいに決まっているわ」
「お嬢さま……あまりレミアを喜ばせないでください……」
ラルーシェと侍女のレミアは手に入れた大金とともに明るい未来へとその一歩を踏み出すのだった。
ラルーシェが去った執務室で、リカールド・アウレアは離婚届を見つめていた。
リカールドはラルーシェを恨むことができなかった。
あの毅然とした態度、鮮やかな問題解決能力、そして何より、自分に一切の媚びを見せなかった誇り高さ。その全てが……リカールドがラルーシェを愛する理由となっていた。
だが、それを壊したのは、自分自身の愚かな一言だったのだ。
「……なぜだ」
リカールドの胸に、妻を失った喪失感と共に、じりじりと焼け付くような怒りがこみ上げてきた。
(ラルーシェは悪くない。俺が愚かだった。だが、俺をそうさせたのは――)
「……フィリカ」
全ての発端。天使の笑顔で姉を陥れたあの女。
フィリカがあんな悪評を流さなければ。あいつさえいなければ。
リカールドの瞳から、ラルーシェに向けていた熱が消えた。 代わりに宿ったのは、バルロイ家を滅ぼした時と同じ、冷たく、すべてを焼き尽くす報復の炎だった。
リカールドは責任転嫁しただけだ。
でも、リカールドにとってはそれでよかった。愛するラルーシェを恨むことはできないのだから。
「あの女が、俺からラルーシェを奪った」
リカールドは、離婚届をぐしゃりと握りつぶした。ラルーシェを取り戻すことはできない。だが、この怒りを鎮める方法なら、リカールドはよく知っていた。
その日のうちに、リカールドはアウレア侯爵の権力と財力の全てを使って動き始めた。
2カ月後にはフィリカの夫となった伯爵のスキャンダルが暴かれ、さらにはフィリカ自身の過去の男遊びが明るみに出た。
この時には、以前、ラルーシェに慰謝料を支払った男たちが全力でリカールドに協力したという。
フロラント伯爵家へと出戻ったフィリカは遠い北の修道院へと送られたが、その途中で盗賊に襲われて非業の死を遂げた。その亡骸はどこにも見当たらなかったらしい……。




