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「タンプルの大通りにクルティウスの蝋人形館が出来るそうですね。
気晴らしに覗きに行ってみてはいかがです?
盗賊の洞窟なんて言う、なにやら恐ろしげな内容ですが話のタネにはなりましょう。」
つわりで臥せっていたわたくしに、ロレンツォがお見舞いがてらそんな話をしていますが、タンプルには脚を伸ばせません。そこはアンリの住む場所の目と鼻の先です。
あんな嫌な言い争いをしても尚、彼の献身は変わることなく手紙をシャンタルに託けてはスミレの花を添えてくれます。
最近はサンソン先生の医師としてのお仕事のお手伝いが頻繁になり、なかなかブーローニュには来られないけれども自分の気持ちが変わることなど永久に在り得ない、と綴ってくれました。
それに引き換え、わたくしはなんとも子供っぽい対応しか出来ませんでした。
手紙をしたためる事をせず、ただシャンタルに伝言を頼むだけ・・・
明日はサロンです、明後日は舞踏会ですので会えません、来週はだれそれと遠乗りの予定です・・・
アンリの失望がひしひしと伝わるのを感じながらも、わたくしにはもはやどうする事も出来ません。
そうしている間にも、お腹は少しずつ目立ってきていました。
夫との間に少しの関係もなかった訳ではないので、「貴方の子です」という体裁だけは保てる、そうすれば堂々とこの子をアンリに会わせてあげることだって、いつの日かできるはず・・・
・・・アンリはいまだ知らないのです。
この身体に彼の惠みを受けた命が、息づいていることを。
会いたい、会ってあの時の失態を詫びたい気持ちと、会えないのは既にアンリの中にいるわたくしは彼の憎悪する醜くも愚かしい、貴族の女という生き物なのではないかという疑心からか、わたくしは彼から逃げまわっていたのです。
毎朝、目覚めてからいただくドリンク・チョコも、あの少年の輝く笑顔がなくては味わいなぞ判りません。白椿の香りも、森をぬける風のささやきも、すべてが色を失った煤けた絵のようです。
あの言い争いのあった時から、わたくしは自分の生きる道がどんな意味をもち、どれだけの価値があるのか考えるようになりました。そしてアンリの心に沈む、深い闇も・・・
アンリの生まれた家では、その将来を選ぶことなど出来ません。
アンリは父親の引退と共に、いづれは「死刑執行人」の称号を引き継ぎ、その手を血に染めなくてはなりません。
それはあの美しい少年の望みではなく、一部の権力が決めた運命で抗おうとすればそれは自分自身の破滅になるのです。アンリにはなにもかも判っていて、それ故将来になんの希望などは見出していませんでした。そんな境遇に耐えなければならない事はあまりに理不尽だったでしょう、どんなに生活の保障はされても、自分の未来は人の首を切り落とすためだけに存在するなんて・・・アンリは、彼の心の平安をどこに見出したらよいのでしょうか?
わたくしの胸のなかで、少年は目を閉じて言った事がありました。
「夢を見ます・・・
暗い暗い森の中を何者かに追いかけられ、うしろから大鉈で首を落とされるのです。
ボクは、でもその時やっと恐怖から解放されるのです・・・。
その瞬間から、やっとボクは息が出来るのです。」
アンリに代わってあげられる事など出来ないにしても、彼の心の平安になることならばわたくしにも可能なはずです。
わたくしは今まで、どれだけアンリに心救われてきたのでしょう。
今からでも「貴族」の生活に終止符を打ち、夫と別れて愛しいアンリと一緒に過ごしていけないだろうか、と真剣に夢想するわたくしがおりました。
この身分を捨て、自分で子供を育て、自分たちで働き・・・・
そんなお芝居のような人生が、わたくしに果たして可能なのでしょうか・・・?
思いあぐねる毎日のなかで、一体何通の手紙をアンリにあててしたためては暖炉に投じてしまった事でしょうか。
このまま何事もなかったように、少年を捨て貴婦人として一生を享楽の世界に委ねるか。
愛しい人と新しい世界に逃げ出し、生涯ただ一着のドレスで働きづめになるか。
ヴェルサイユの夢を強固に持って、貴族にふさわしい愛人をつくり足がかりにするか。
パリに戻り、アンリのそばにいて二人で蔑まれても、忌み嫌われても一生を共にするか。
考えても考えても、一番の方法などどこにも存在などしない事は初めからわかってはいたのです。
この森の向こうに見える黄金のヴェルサイユを見つめながら、わたくしは色あせたスミレの押し花に唇にあて、今までを思い返してみました。
初めての失恋は家庭教師、燃え尽きもせずただ悲しみにくれたファルケンシュタイン伯は雲の上の方、
でもアンリは・・・?
わたくしを呼ぶその声に胸が高鳴ったのは、夕暮れが雲を染め、夜の帳が降りてくるまでの間でした。
振り返った瞬間に、アンリがわたくしを両の腕で抱きしめてきたのでいまや眼には涙があふれそうでした。
すでにわたくしよりも頭一つ以上は大きくなったアンリに、すっかり身を預けてわたくしはただ安堵のため息とともに口吻を求めて泣き伏しました。
アンリは涙もため息も優しすぎる口吻と一緒に受け止めてくれました。
「何故、泣いているのですか?
ボクは貴女に失礼でしたか・・・?
会ってくださらないのはボクが何かいけない事をしたのですか?」
「・・・いいえ、違うの。違うんです。
わたくしが悪いの。何も考えていなかったわたくしの責任なんです。
貴方が何よりも大切なことは、わかりきった事だったのに・・・。」
こんなにも心締め付けられる人間に対し、わたくしは一体何を迷う必要があると言うの?
この人は一心にわたくしを愛してくれているのに、なにを迷う事があるの?!
「・・・アンリ。お願いです。
わたくしを、どうか・・・一緒に・・・・」
言いかけたわたくし達の背後で、レティシアが急を告げに割って入ってきたこの時が、二人の道を永遠に分かつものだと一体誰が知りえましょうか?
レティシアは恭しく、わたくしに肩掛けをかけると言いました。
「ご主人様がお待ち申し上げておりますよ。
先程ヴェルサイユから急使がいらして、ド・ラカーユ伯が宮中にてお亡くなりになったそうです。」
青天の霹靂とは、この事です。
「・・・お義父様がお亡くなりに?!」
「ええ、ですからご主人様は先代の後継として、出納長官の補佐として近日中にヴェルサイユにお上がりになるのですよ。奥様、おめでとうございます!」
思わずアンリを振り返ると、彼もまた呆然と、だけども落ち着いた眼差しでこちらを見てました。
咽喉まで出掛かった言葉の先も、まだこの空間のどこかに漂う気さえしているのに・・・!!
何故、それが今日なの?!
何故、ここまで決心できたのに、ヴェルサイユが向こうからやって来てしまったの!?
「奥様、お身体に障るといけませんから、さぁ。
夜風にあたりすぎるのは、お腹のお子様にもよろしくありませんよ。
早く中に入って、ご主人様に挨拶しなければ。」
「・・・子供?」
アンリの問いかけに、レティはいらいらと言い返します。
「そうよ!貴方ってば気づかなかったの?!こんなに身体を冷やしてはいけないのに・・・
もし何か問題が起きたら、貴方は責任をとれるの?
サンソン先生だって、無理なことは無理なのよ!
さぁ、もうお帰りなさいな。アンタもボヤボヤしていると辻強盗にやられるわよ!!」
ちっぽけな決心は、跡形も無く消え去り、冷たい夜風が耳元で鳴くのを聞きながら、
アンリの蒼白になった顔にはまともに視線を向けられず、震える声を抑えながら、努めて明るさを失わずにわたくしは言いました。
「今日はありがとう、アンリ。
わたくしはこれからヴェルサイユに伺候するための準備がありますから、これで失礼いたしますわ。
お手紙をかきますね。
・・・だから貴方も、わたくしにお手紙を送ってちょうだいね。きっと・・・・ね?
だってわたくし達の友情がここで終わるなんて、在り得ませんもの・・・」
立ちすくむアンリに背を向け、わたくしとレティは邸に向かって歩き出しました。
もう、振り向けません。
振り返って彼に、連れて行って欲しいとは、もう二度と言えないのです。
いえ、振り返ってはいけないのです。
もうそろそろ、自覚しなくてはなりません。
わたくしを待っているのは、パリの下町に暮らす生活ではないことを。
この邸の、わたくしのブドワールから臨むことが出来るあの黄金の宮殿にのぼる日を夢見てきたことを。
だけど。
胸がつぶされそうになるのは哀しいからではありません。
ヴェルサイユにのぼる、ただその実現が出来る喜びに耐えられないだけ・・・
アンリを手放す自分を哀れんでいるわけでは、ありません。
ただ、それだけなのに、涙が勝手に、止め処なくあふれきては枯れてくれないだけなのです・・・!!
こんな風にお別れしなければいけないのは、どうして・・・?
こんなにも激しく想い合い、求め合ったのに、もう二度と会えないなんて・・・!
では何故、出会ったの?
どうして出会わなければならなかったの?!
わたくし達の心に湧いた愛の泉の分だけ、一気に流れてしまえばいいのに!!
絶対に、もう恋愛の苦しみで涙を見せたりはできませんもの。
何故なら、それが宮廷における貴婦人の礼儀だから!
これからわたくしは、宮廷にのぼらなくてはいけないのだから・・・。
もう絶対に、愛しい人など出来ません・・・
自分の心を殿方に乱されるなぞ、今後一切ありえません。
わかりきった事です。
恋愛は人生の甘美なお酒にしか過ぎません。
振り回されて人生を棒に振るなんて、恥ずべき行為だと言うことくらい。
だから、もう、
泣く必要もないのですから・・・。
わたくしにはもう、ヴェルサイユしかないのですから。