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8、



アンリの全てについて言葉を尽そうとしても、それはきっと空虚なものになってしまいます。


わたくしには「大切なアンリ」が二人いて、

その一人は可愛い天使である息子、アンリ・ジョゼフ。

もう一人がこのアンリ・サンソンです。


この世のすべてに変えてもいいと思うほどに夢中になってしまったわたくし自身の心の内を、

どうして理解していただく事ができましょう。


ロマンティックな出会い方をした訳ではありません。

甘い言葉をかけて下さるのでも無ければ、ましてや伊達男でもありません。

わたくしよりも若い、いえ幼い子供ですが彼には野生の獣の美しさがありました。

恐らくわたくしなどよりも数々の忌まわしい光景を見てきたのでしょう。

その青灰の澄んだ瞳には物憂げな光が宿り、それが余計に少年を大人に見せていたのでした。


はじめてわたくしのブドワールに連れてきた時に、彼はシャンタルが下がってからこう切り出しました。


「すっかり好くなられたみたいで嬉しいです。それと・・・あの時はわざわざ・・・

こんなに高価な懐中時計をありがとうございました。

ボク、嬉しくて・・・他人からプレゼントなんて初めてでしたから・・・。」


そう言って彼は胸の内ポケットから、あのブレゲの金製時計を出しました。


「あの時からずっと持ち歩いているんです。だって・・・。」


そこまで言うとアンリは少しだけ視線をずらし、座っていたソファから立ち上がると窓辺に向かってつぶやくように言いました。


「本当にまたお会いできるなんて。ボク、嬉しいんです。」


ほんのりと紅に染まる引き締まりかけた少年の頬に、わたくしと同じ感情が宿っていないなどとどうして思えるでしょうか。次の言葉を待つまでもなく、わたくしははしたなくも彼をその背後からいだきつつ、まるで少女のように心を震わせながら自分自身に言い聞かせるように囁いてしまいました。


「ずっと、貴方のことを想っていました。もうわたくし、待たなくてもよろしいのですね・・・?」





なにも不安ではありませんでした。


それが他人からは愚かに見えようとも、趣味のよくない遊びにしか思われなくても、

お互いの欲するものが重なり合い、美しく育み合えるのならばわたくしは躊躇することなどはひとつもなかったのです。

世界は、どこまでもわたくし達のみに作られた宝石箱のように色とりどりの光にあふれ、澱みを知らぬ風と水の調べに浮かぶ金のゴンドラに身をゆだねながら、二人は楽園の罪なき住人となり・・・・月の夜は銀色にきらめく森の小道で、雨の午後には花の香で満たしたブドワールの蝋燭シャンデルの灯りのもとで、ただひたすらに愛を求めあわずにはいられませんでした。



手練手管に長けた貴族の殿方にはないアンリの純粋さに、やがては侍女たち、館の人間も心を開いてくれ始めていました。

アンリに会う時には必ず手紙のやりとりや馬車の用意をしましたが、それを進んでやってくれたのはシャンタルでした。ノルマンディの小さな漁村から奉公に来て、レティシアと一緒に実家から付いてきてくれた彼女はほぼアンリと同年だったはずです。わたくし以外にアンリが初めて館の人間と親しくなったのは、彼女でした。もっとも、シャンタルには彼女なりの思惑がちゃんと別にあり、馬丁のシモンといい関係だったので、アンリをお迎えに行くのは口実作りにはお誂え向きだったようです。

己の野心の一欠けらもない少年の誠実なだけの愛情が、ロレンツォをはじめとする貴族仲間ではないわたくしの友人たちに受け入れてもらえる喜びは言いようもありません。

ロレンツォに言わせると、


「マダムが何故、あの麗しきアドニースに心奪われたのか、お察しいたしますよ。

まるであなた方お二人は、太陽と月のように正反対の位置にいながらお互いを静かに認め、分かち合っておられる。呼吸することが自然の振る舞いであるように、惹かれあうもの達は意識などいたしません。対極にあるものこそが、実は一番近しいものでもあるのですから。」


しかし、アンリにはすでに判っていたのでしょう。

どんなに心を通じ合わせても、背中合わせのわたくし達にとって決して交わる事の出来ない壁が、いつ二人の前に立ちはだかってきても可笑しくないことなど。



「アレクサンドリーヌ、あなたは何故ボクを愛してくださるのですか?

その事がボクにはひどく苦しい時があるんです・・・。

それはボクがあなたよりも子供だからなのですか?

・・・つらいのです。幸せは時に苦しみになるなんて知らなかったのですから・・・・。」


時々、アンリはこう嘆きました。

自分には過分な境遇だと思ったのでしょうか、それともこの愛の日々は背徳行為とでも教会の神父様に諭されているのでしょうか?

彼を子供扱いしたことなど一度もありませんが、確かに16になったばかりのアンリにわたくしの相手は負担に感じることもあったのかも知れません。

チャコールの巻き毛を指先でもてあそびながら、熱い身体を引き寄せてわたくしは思いあぐねつつ言葉をつながなくてはなりませんでした。


「あなたが後悔しているなどとは思いたくないの。

もし、あなたがそういう風に自分を呪うなら、それはわたくしに向けるべきです。


あなたにはなんら罪などありはしませんもの。

あなたを・・・穢れの無いあなたを愛してしまったわたくしにこそ罪があるのですから。


お願いだからわたくしの想いをつらいなどと思わないでちょうだい。


幸せが苦しいなんて・・・そんな哀しい事は言わないで。」



舞踏会やサロンに明け暮れる日々の中で、本当に大切と思えるのはアンリとの時間だけでした。

貴族に嫁ぎながら貴族に心から馴染むことができていないわたくしの清涼剤となってくれるアンリに、わたくしが甘えているだけなのでしょうか。

ただ同じ空間で、彼の息吹を感じていれば幸せなのに・・・

アンリにはわたくしの存在は荷が重過ぎたのでしょうか。



そんな幼い恋愛に心を揺らしていた矢先に、館の人間が支度部屋でなにやら騒ぐのを聞きとがめると原因は数枚のビラにあるのでした。

小間使いのドミニクがパリのパレ・ロワイヤル内の商店街で拾ってきたビラには、あろうことか王室を批判する不埒な中傷が、ご丁寧にも挿絵つきで書かれております。

王妃様は日がな一日、眼が飛び出すようなお金をかけて作った別荘(プチ・トリアノン宮のことです。

実際は先代ルイ15世陛下がポンパドゥール伯夫人に贈るために建てたお屋敷です。夫人は完成以前に亡くなり、そのままデュ・バリー夫人が使ったそうです。)に閉じこもっては怪しい連中と賭博や情事に耽っている!!

フランス国民が飢饉と税金に苦しんでいるのを判りつつ、「食べ物がないですって?パンが無いのでしたら、では何故、お菓子ブリオッシュをいただかないのですか?」

などとトンチンカンな、いや冷酷非情な物言いをするオーストリアの牝オオカミ!!

大砲つきの軍艦が何隻も買えるほどのお金を、愛人(!)のポリニャック夫人とその一族にばらまいている。高価なネックレスもドレスも馬車も、気に入らなければ一日も使わずにヴェルサイユの運河に投げ込んでいるから、運河にはダイヤや金銀の堰が出来てしまった!!



なんという事なのか・・・。


こんな風にあからさまに王妃様に対する侮辱が、このパリにまかり通っていただなんて・・・!!


先程までは王子誕生を祝っていた国民が、いまや公然とフランス王妃を批難しているとは。

わたくしはつとめて平静さを保つと、皆に対しこう言うのがやっとでした。


「このような下世話なつくり話に乗ってどうするのです。

あなた方のご主人は将来、ヴェルサイユでお仕事をされる方なのですよ。

王家に対して忠誠を誓わなくてはならないお立場なのですから、よくよく考えてお話しなさいな。

さぁ、もうこんな不愉快なお話はさせないでちょうだいね。お仕事に戻ってちょうだい。」


ブドワールに戻ると、アンリがその様子を察したようにこちらを見据えていました。

そんな真剣な表情の彼を見たのは初めてでしたので、居をつかれたようでわたくしは言葉にならず曖昧に微笑んでみましたが、アンリは鋭い視線を向けて言いました。


「あなたは本当にあの王室に仕えていくつもりなのですか?

あの陰険で、傲慢で、そのくせ何一つ自分たちでは生み出さない連中のもとにかしずくのですか?!」


「・・・わたくしも貴方の言う、何一つ自分では生み出さない貴族なのです。」


「もともとはあなたも平民ル・プープルだったはずです!!」


「今のわたくしには平民ル・ティエールだったと言う過去はもはや汚点なのです!」



怒りにまかせ、アンリに返した言葉の重たさにわたくし自身が呆然としたのは言うまでもありません。


アンリは、静かに頭を下げると何も言わずに邸を後にしました。



それまでのわたくしの人生には、自分の望みに対しての嘘などありませんでした。

ブルジョアの家に生まれ、なに不自由のない生活の中で自然と生まれた更なる上流階級への夢になんら疑問を抱いたことなどありません。

王族は王族としての誇りと権力が当然で、国民全ての太陽として君臨する・・・

そのために貴族は王家に仕え、平民は貴族を支え、国は繁栄をし・・・・


それが間違っていると言うのなら、わたくしは一体何を信じてここまでやってきたのでしょうか・・・



貴族の子女からは軽んじられ、身だしなみに、言葉使いに気をつけ、人間関係に気を配るために必死で名鑑とそれぞれの貴族の相関を覚え、宮廷のエチケットを覚え・・・・

そうすることが正しいのだと信じて、費やしてきた青春は一体、何だったというのでしょう。


アンリに宿る苦悩と怒りに、わたくしはもはや「見えない壁」の存在に気づかぬふりをしない訳にはいかないのでしょうか・・・。




そんな風に1782年が過ぎようとしていた矢先に、わたくしは身ごもっていたことに気づいたのです。

この子は恐らく、かわいい巻き毛に青灰の瞳を持っているはずでしょう。

アンリの子である事は確信できたのです。












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