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時折、息子のアンリに会いに田舎に行き触れ合い、郊外の領地内にある別荘を周り乗馬や散歩、地方にお住まいの夫の親族のお館に呼ばれたり・・・
またパリでの喧騒を考えるとこうした田舎遊びはホッと出来る時間でもありました。
わたくしたちの日常は型で押したように単調であるのですが、この枠からはみ出す事は許されることではありません。
朝のお化粧をお集まりの殿方にもご披露し、楽器や朗読のレッスンにカード遊び、お芝居やオペラの合間に恋愛に走り美食と快楽、怠惰と浪費、恍惚と感傷、明朗と虚飾、高慢と・・・・・
ああ、こんな混乱はきっと本当の貴族に生まれていれば、なんの疑問も持たずに過ごせたのでしょうね。
毎日があまりに目まぐるしいパリでの生活に、少々の疲れがあったのは出産を経験したからでしょう、
何も不満のない暮らしの中で、ふとどうしてか不安になるのは、大きかったお腹がいきなり空っぽになってしまったからかも知りません。
わたくしは今までにもまして、お気に入りのわたくしのブドワールに篭ってしまう日々が続いたのでした。
そんなわたくしを案じてはオーロールや姉たち、両親、複数のお友達が訪ねてきてはこう繰り返すのです。
「ふせってばかりでは気も沈むから、パリに出て遊んではどうなの?」と。
産褥に負けそうになっていた時、サンソン先生のお宅に伺った時に見た、あのパリの裏町が忘れられず、わたくしは自然とパリに脚を運ぶことを避けていたのかも知れません。掃き溜めのような町の腐臭、ネズミの走る汚物だらけの石畳、セーヌから湧き上がる汚濁の霧、人々の生気のない澱んだ目・・・。
わたくしにとってそれは、悪い夢を見ているかのような恐ろしい記憶としてどうしても心の中から離れてはくれないのです。
そんな澱みの中で輝いていたあの少年。
アンリは、今頃どうしているのかしら・・・。
わたくしの事などもうすっかり忘れてしまって、同い年の女友達に恋などしているのかしら?
あれからまだ1年も経たないけど、子供というのは恐らくそのようなものですわね。
かくいう、わたくしだって久しぶりに会いに来てくださったアンリ・ブランシャール先生にお会いしたって、なんのときめきも感じませんでしたもの。あれだけ懸命に気を引こうとした方にだって時が経ってしまえば、本当に薄情になってしまえるのが女性の長所でもあり、短所でもあるのですもの。
人の想いというのは、不思議なものですわね。
いつも何かに触れていなければ、何かに感じ入らなければたちまち凍えてしまうようで・・・
まるで小さなひな鳥のようです。
そんな甘えた感情は夫には託せません。
それは貴婦人としての望ましい態度ではないのですから。
愛は常に恋人に、尊敬は常に夫に、信頼は常に「わたくし」自身に!!
それがわたくし達の正しい心の在り方なのです・・・・。
そんな中で、ある時オーロールがお土産のすずらんの籠と一緒にやって来るなり、言ったのです。
「塞ぎこんでいる貴女には申し訳ないけど、わたしは一足お先にヴェルサイユにあがらせて戴くわよ。
今度の国王陛下主催の舞踏会で、ドルレアン公のお引き立てで伺候することになったの。勿論、お友達なら喜んでくれるわよね?」
オーロールの大勢いる遊び相手の中にはかなり有力な方がいらっしゃると、お母様がおっしゃっていたのは知っていましたが、まさかそれが国王陛下のお従兄弟様だったなんて。
確かに彼女の美貌はパーティの華になり得るものでしょう、ドルレアン公に数々の「お花」がいらっしゃるのは周知の事実ですが、まさかわたくしのお友達がその「お花」の一人だったなんて!
喜ばしいのはもちろんなのですが、羨ましい、と思ったことも否定できない事実でした。
「オーロール、あなたもヴェルサイユにあがるのは夢だったものね。先を越されたのは仕方がありませんけど・・・本当におめでとう。あなたなら宮廷でも素晴らしく振舞えると判っているわ。ヴェルサイユでのお話を聞くのを楽しみにしているから、ぜひ聞かせてちょうだいね。」
オーロールはその激しく輝く瞳をまっすぐにこちらに向けると、
「一年以内にヴェルサイユ宮にお部屋をいただくのが、今の一番の目標なの。そのためだったら、わたし、何だってしてよ。本物の貴族なんて、ただのお人形さんばかり。わたしには夢をかなえるだけの能力があるわ。楽しみにしていて。」
オーロールなら本当に、夢は自分で叶えるでしょう。
わたくし達の友情がここで終わるわけではありませんが、やはり寂しいものです。
「オーロール、なにかお祝いをしなくてはね。
今の貴女には大したものではないかも知れないけれど、レースか、香水か、ボンボニエール・・・
何か欲しかった物はないかしら?」
「アレクサンドリーヌから戴く物なら何でもよくってよ。
そうね、ウビガンの香水がいいわ!それをいただけるかしら?夜のオペラ座の雰囲気に合った、ウビガンの香水をお願いするわ。」
ジャン・フランソワ・ウビガンが5年前に開いた香水店はパリのサントノレにありました。
華やかなこの通りには今やファッション大臣の名で通るローズ・ベルタンの店もあり、すぐそばにはドルレアン公のお住まい、パレ・ロワイヤルもあります。
ウビガンの香水は貴婦人ならば必ず一つは持っていたので、今さらオーロールが本当に欲しがっているなどとは思ってはいませんでしたが、ありきたりな賛辞よりもやはりオーロールの心を潤わせるのは宝石やドレス、綺麗な小物が必要でしょう。
わたくしは気が進まないながらもお付き合いの精神は捨て去ることは出来ませんでしたので(貴婦人としての使命でもありますので)シャンタルを伴い、パリのお店に赴きました。
小奇麗なガラス戸を開くと、大きな香水瓶がいくつも並ぶマホガニーの棚を店内の中央奥に据え、壁伝いに整然と並べられた様々な装飾を施した香水入れが美しく煌いています。すでに数人の先客を相手に店主や売り子がビンからビンに香水を移し変えたり、美しい香水瓶とともに贈り物用として包装紙を貼り、レースを巻き、リボンで結び可愛らしく仕立てていました。
奥に通されて店主と他愛の無い流行の香りなどの話をしながらオーロールのプレゼントを調香していただいていると、ふと、隣の客席にいた殿方がこちらに視線を投げている事に気がつきました。
わたくしはその淡い金色の縦ロールの髪に透けるような白い肌を見た時、フラスコ画のマリア様のような印象を持ちました。その方の眼はあくまで穏やかな光を帯び、アンバーの瞳の奥には深く青い泉が沈んでおりました。お互いに軽く会釈をかわし、店主ともども3人でお話に興じた時にはじめて、その方のロレンツォ・バティスティーニと言うお名前を聞き、初めて男性だと言うことに気づいたのでした。
「申し訳ございません、ムシュウ。わたくしったら貴方のような素晴らしく機知に富むお話をしてくださる殿方を、すっかり女性だと思っておりましたわ。
それにしても貴方のお声はなんて軽やかに響くのでしょう!
このような天使のような声でお話される殿方はきっとパリ中、いいえ、フランス中探してもいらっしゃらないでしょうね。」
それを聞きながら、ロレンツォは微かに微笑むと仰々しくわたくしにお辞儀をしながら、自身を誉めそやすわたくしを遮るように言いました。
「わたしはカストラートを生業とさせていただく者でございます、マダム。
わたしは当年22になりますが、わたしの声は10歳のころで成長を止めました。
いいえ、どうかわたしめに同情なぞされませぬよう!
わたしはこの職業がとても気に入っているのですからね。
わたしはこの声さえ持っていれば、天上を渡る風にも春を告げる小鳥、楽園の花々のささやきにだってなれるのですから。」
カストラートは男性歌手です。
その澄み切った声は、少年期に去勢することで永遠の若さを与えられるものなのです。
ですから彼らは男性でありながらも、男性ではありません。
水晶のような声と引き換えに、男性としての努めは果たせなくなるのです。
故に外見もとても中性的になるのです。
まるで唄うようにそう言うロレンツォの紅潮した白い頬には、確かに一部の迷いなども感じられません。
明るく話しを盛り上げ、職業上で欧州を渡り歩いてきた彼の体験談は面白く時には熱を帯び音楽を語る時の飾り気の無い情熱をわたくしは好ましく思い、彼もまたわたくしの心根を何故かお気に召されたようでした。
なんら厭味のない人懐こいロレンツォとは、その時から心休まる友人としてお付き合いが始まるのです。
美しいわたくしの新しいお友達は、オーロールのヴェルサイユ伺候をお祝いする音楽界にも快く出演してくださり、大いにわたくしの株をも上げてくれました。
最も彼の方も、わたくし以外の貴婦人や貴族のお目にとまり、大勢のパトロンに恵まれたのですからそこの辺りは「持ちつ持たれつ」でしょうね。
このように、古い友人は離れてもまた新しい出会いがあるものなのです。
ロレンツォの明るさと才能のお陰で、わたくしはまたパリに出かけ彼のオペラに通ったり、サロンを開き音楽界を主催し、とお決まりながらも忙しい「貴族の日常」に帰ってゆきました。