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5、



結婚して2年もする頃に、待望の子供を授かることが出来ました。



初めての事なので、わたくし自身もいささか不安ではありましたが、とても不思議な感覚ではありました。自分の中に、もう一人の(しかもまったく別の!!)人間がいるなんて!

日に日に重く、大きくせりあがってくるお腹を見ながら母になる悦びにひたったり、あるいはスタイルが崩れるのでコルセットをぎゅうぎゅうに縛り上げないとみっともないわ、などと憂鬱になってみたり鱒のパイは赤ん坊と母親によくない、と聞くと食べなかったり、小さな赤ちゃんのための産着に刺繍をさしてみたり・・・・

そんな時、侍女のシャンタルは

「奥様、きっと男の子ですよ。奥様のお腹の張り方は大きいのですもの。」


「まぁ、シャンタル。では女の子ならこんなに大きくはならないの?」


「ええ。わたしの姉はこんな大きなお腹でしたもの。お顔もお化粧なさらずとも、はっきりされているでしょう?そういう時は、きまって男の子ですよ。」


レティシアも頷きます。わたくしのお腹までひざ掛けを引き上げてくれながら、


「奥様は今、とにかくブリオッシュがお好みでしょう?お生まれになるお子様も、きっとブリオッシュが大好物なお子様ですよ。」


「あら、まぁ!では、わたくしはお腹の子の好みで食事をしているって言うことなの?」


「もちろんそうですとも。」


夫も、義父も、もちろん実家の両親も初めてのお産を気遣ってくださり、毎日のように花やお菓子や本といった贈り物をしてくださいました。

オーロールも、週に一度はきまってお使いを我が家に遣し、お手紙や花をくれました。


そうしているうちに、激しい痛みとともに、伯爵家の跡取りであるアンリ・ジョゼフが生まれました。

夫が30歳、わたくしが19歳の夏でした。




アンリは乳母のコレットのもとに預けられ、わたくしは産褥と闘わなければなりませんでした。


毎晩のように高熱が続き、悪阻のような体調不振・・・

頭が割れるようにしめつけられ、出産とはこんなにも犠牲を払うものなのかと、恐ろしくなりました。





秋の終わり、わたくしの産後の肥立は悪く、とうとう出血をするようになってしまいました。

夫よりも早く、シャンタルとレティシアはパリに評判のよい医師がいる、と聞き及んでいたので二人に従い、パリのサンソン医師を訪ねたのでした。



鬱々とした曇り空の下、何度か失神しかけながらパリの裏町長屋のある一角に馬車が止まりました。

パリで生まれ、パリに実家がありながらわたくしは今までこのような街は見たこともありませんでした。あちこちにネズミがたまり、住人は見るも無残な粗末な服装、顔は何日も洗っていないかのように土気色・・・。異臭というよりはすでに毒ガスのようなものが立ち込めているようです。わたくしは堪らずに馬車の下で嘔吐しかけました。

シャンタルとレティシアに支えられながら、街の様子が頭のなかでメリー・ゴー・ラウンドのように早まわしで回転しています・・・


そのうらぶれた街の隅に、なにかペンキのようなもので書きなぐられたような跡のある一軒の家がありました。


「奥様、お気を確かに!ここまで来ればもう大丈夫ですよ、先生がきっと助けてくださいます。」


ほとんどなだれ込むように、その家に入るとそこには40がらみの男性がおりました。

殺風景な居間から奥の部屋に通され、部屋の中央に木製の簡素な寝台が眼に入った時にわたくしは出血と共に意識を失ったのでした。



何時間、いえ、何日間経ったのか正確には覚えておりません。

気がつくとそこは小さな部屋のベッドの上でした。

どこからか、子供のはしゃぐ声と、母親がたしなめる声、食器がふれあうような音などが聞こえます。


「奥様・・・?気がつかれましたか?お加減はいかがですか?」


傍らではレティシアがわたくしを心配そうに覗いていました。彼女に応答しようとしたその時に、ふと部屋のドアをノックする音。レティシアはドア越しに誰かとお話してから、


「奥様、サンソン先生に今、お薬を処方していただいております。服用の仕方などを伺わなければいけませんので、ほんの少々ですが席を外しますわね。お待ちくださいませ。」



レティと入れ違いで入ってきたのは、まだ年の頃で12,3歳ほどの少年でした。

小奇麗なシャツを着ているので、一瞬、この街に似つかわしくないとさえ思ったほどです。

明るい青灰の眼には物憂げな光がさし、チャコールの巻き毛がかわいいその少年はそそくさとテーブル脇に水差しとコップを置き、


「マダム、他に御用はありませんか?具合は・・・いかがですか?」


いかが、と言う言葉が反射的に出てこないところが妙に可愛らしく、わたくしがついふふっ、と笑ってしまうと少年は真っ赤になってうつむいてしまいました。気の毒なことをしてしまったわたくしは、取り繕おうと思い、では、と彼に手を伸ばして言いました。


「笑ったりしてごめんなさいね。具合はだいぶ好いですわ。お水を少し、いただけるかしら?

 でもね、わたくし一人だとまるで根が生えてしまったように動けませんの。手を貸していただける?」


「ええ、マダム。」


少年はわたくしの背中に手をまわし、半身を抱えて起こしてくれました。近くで見るとまるで天使のような面立ちをした賢そうな美少年です。子供とは思えないほど、力もありました。

少年の助けでやっと水を得られたわたくしはとにかく生き永らえた事、今日のパリは晴れていること、目の前の少年の美しさにさえ、神に感謝せずにはいられない程に安堵したのです。



「お名前を伺っていませんでしたね?わたくしはアレクサンドリーヌ・ド・ラカーユ。」


「ボクは・・・アンリです。アンリ・サンソンと言います。」


「美味しいお水をありがとう、アンリ。わたくしの息子と同じ名前ね。

ところで今日は何曜日?あなた、学校はよろしいの? わたくしのせいであなたがお勉強をする時間を取られてしまったとしたらお詫び致しますわ。」


アンリは、ちょっとだけ困った表情をすると仕方無しにという風に笑顔をつくってからこう言いました。


「ボクはお父さんの仕事の手伝いがあるので・・・学校には行っていません。

これは・・・あなたのせいではなく、ボクたちの仕事なんです。」



ふとぎこちない空気が流れた時、レティがお薬を持って入ってきました。


「まぁ!奥様!!起き上がったりして!! この悪ガキったら、奥様の具合が悪くなったらどうするの? さぁ、馬車を呼んでちょうだい!!アンタみたいな人間がこの奥様とお話するなんて、本来してはいけないはずでしょ?!ほら、さっさと行きなさいな!!」


レティの剣幕に驚いたわたくしは、こう言うのがやっとでした。


「いいえ、レティ。わたくしがアンリに頼んでお水をいただいたのよ。ねえ、そんなに怒ることは何ひとつしていないわ。アンリ、ごめんなさいね。レティは疲れて気が立っているだけなのよ・・・」


そう言い終わらないうちに、アンリは顔面蒼白になりながら部屋を飛び出してしまいました。

レティシアはシャンタルと一緒になにやらブツブツ言いながら、手早く身支度を整えてくれたかと思うと、馬車(恐らくはアンリが拾ったであろう)に荷物を詰めて、わたくしの介添えをしながら乗り込み、そうして慌しくその街を後にしました。


帰路につく途中の車内で、わたくしはレティの少年に対する失礼な言動を諫めますと、あろうことか逆にこちらが咎められることになってしまいました。


「レティ、あなたのアンリに対する態度はとても立派な大人の態度とは言いがたいものでしたわよ。

あの可愛らしい少年はわたくしに何一つ嫌な思いなどさせはしませんでした。むしろ彼のお陰でとても救われた気持ちになったのですよ。あなたとわたくしはアンリに対してお詫びしなくはいけません。」


レティは大袈裟にため息をつくと暗い目つきでわたくしを見据えました。


「奥様のご容態がかんばしくないので、やむを得ずにあの医者のもとに行ったのですよ。本来なら奥様のような身分の方が行かれるような所ではございません。それは奥様にもお察ししていただいた事と思います。あのサンソン医師は・・・とても評判の、腕のある医師です。ですが、本当は医師ではございません。」


「・・・医者ではないですって?どういう事なの?」


「旦那様もあそこに奥様をお連れすることに初めは難色を示されましたが、サンソンの評判を他の貴族の方がたに聞き及んでからはご了承されました。あの男に奥様のお身体をお見せするなど、なかなかに耐え難いとお考えだったのでしょう。」


「レティ。サンソン先生は何者なの?」


「・・・あの男はムッシュウ・ド・パリです。」




シャルル・サンソンはこのフランスで死刑執行人のありがたくない称号を授かる者でした。

代々、執行人の家系でその生活は差別から逃れることは出来ません。

アンリが学校に行っていないのはそういう理由からなのでした。

同じ人間に死の制裁を加える権利(義務?)を負わされた闇の住人が、パリで医師をしているなんて・・・これほど皮肉な話はあるのでしょうか?

人間になるべく苦痛を与えずに死を与える事に長けている一族の熟練した技術から、人間の身体の機能に精通した治療法が生み出される・・・・死神の仕事を手伝いながら一方で天使のような行為に実を費やすなんて、その心の底では一体どれほどの葛藤が生まれていたのでしょうか。

アンリの寂しげな青灰の瞳には、いくつもの命のやりとりを見てきた哀しみが映っていたのでしょうか・・・。そうしてあの美しい少年も、いつか運命のままに執行人として両手を血に染めるのでしょうか・・・?


冷たい死の恐怖にそぐわないほど、少年の頬は紅く、手のぬくもりは春の陽だまりのようでした。



不思議なことに、わたくしはそんな話を聞かされてもなおアンリ・サンソンに対しての嫌悪感などはまったく生まれず、むしろ後日サンソン医師への報酬とともにアンリにあてて、手紙をしたためました。

この時すでにわたくしはアンリとの再会を心の奥で望んでいたのかも知れません。


あの牧神のような少年は、わたくしの手紙をきっと読んでくれるでしょう。


その中に入っている懐中時計はわたくしがアンリ(息子)の出産祝いで義父にいただいたブレゲの時計と対に作らせた金細工のものです。ふたの裏には銘とわたくしのイニシャルが彫ってあります。



「愛の泉は御身の心に」



少年がこの言葉をどうとらえるのかは自由です。

わたくしが男性にこのような贈り物をしたのは、生まれて初めてでした。



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