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16、



アンリが神妙な面持ちでブーローニュに来たのは、バスティーユが陥落した歳の瀬でした。


いつものようにブドワールに通し、お茶を運ぶ間にもアンリは考え込むようにソファにもたれながらその青灰の瞳をわたくしに合わせるのを躊躇っているようでした。

とりとめのない会話をつなぐのも居た堪れないと言った彼の様子に、わたくしが一抹の不安を覚えるのは至極当然です。わたくし達の間に遠慮も秘密もいりません、どうぞお話しなさってと促すとアンリはその端正な横顔に益々もって憂いをふくみ、


「いいえ、本当は言わなければいけない事なのに・・・愛ゆえにそれをボクの心が拒むのです。

貴女を永遠に失うのは、堪えられない。だから言わなければいけない、それは判っているのです!!


だけど、離れたくはない気持ちといつかは離れなければいけない気持ちがどうしてもこの身体の中で相容れずに・・・苦しいのです。」


そのような言い方をされれば、誰だって「関係の終わり」に聞こえてしまいます。

わたくしは息を呑み、次の言葉を待つ間にも頭が割れそうなほどの衝撃に堪えなければなりませんでした。

しかし、アンリの続けた言葉はその時のわたくしが想像もしていなかったものでした。


「アレクサンドリーヌ。どうか・・・どうかボクが貴女を見捨てるなぞとは思わないでください。


お願いがあります。 ボクの最後の・・・お願いです。


どうか、一刻も早く亡命してください。


これから先の国民の所業は、恐らく貴女方貴族には堪えられないものになるでしょう・・・

田舎に行くのは危険です。パリでの今回の事件(バスティーユ襲撃)があってから、農村でもあちこちの貴族や領主の屋敷が襲われております。今やこのフランスでの貴族の地位は揺らぎ始めてきている・・・この波がパリに来てから逃げるのでは遅すぎるのです!!


ご家族とともに、どうか今すぐにでも国外の人脈をたどり、亡命の手はずを整えてください。


そうして下さると約束してくださらなければ・・・ボクは・・・


ボクはもう二度と、貴女にお会い出来ません・・・。」



バスティーユ襲撃があってから、全国の農民が蜂起して今まで自分たちから搾り取ってきた領主の持つ財産や借金の証文、食べ物を略奪し嬲り者にされていると言う事は既に存じておりました。


しかし、そんな暴動がすぐそばまで来ている危機だとは、愚かしくもわたくしは理解しておりませんでした。夫はドルレアン公のお傍で平民議員に肩入れしている関係上、自分たちは正義を貫いていると信じています平民から憎まれているのは王室・・・いえ、王妃様のみだと豪語している立場です。まさか自分にその憎しみの目が向けられていようとは露ほども思っていなかったでしょうが、


では、わたくしたちがヴェルサイユを退いてから夫の言う通りに田舎の領地に移っていたとしたら・・・? 

今、わたくしはこうして恋人を目の前にしてのんびりとお茶を口に出来ていたでしょうか?

 鎌とくわを持った農民たちに屋敷を襲われ、絵画も衣装も宝飾品も奪われ、そして・・・・



ああ・・・!! 我ながらなんと世間の流れに疎いのでしょうか。

もし何かがひとつ食い違えば、あのバスティーユで生首を槍先に掲げられたのは自分かも知れないのに!


では・・・

では、このフランスを捨ててたどり着いた先には安住の地があるのでしょうか。

外国に住み、慣れない環境に身をおき、恋人と離れ・・・


・・・無理ですわ。

わたくしにはこの美しい祖国を離れて暮らすなんて、絶対に無理です!!


「では、貴女は・・・

貴女の首をボクたちに刎ねろ、とおっしゃるのですか!?」


目に涙を浮かべたアンリの、哀しくも美しい表情を今こうして思い浮かべてみると切な過ぎて胸がしめつけられるのです。

そんな事を、愛しい人に言わせるつもりなどはありませんでした。

ただひたすらアンリのそばを、フランスの地を離れたくはなかっただけなのです・・・


「・・・申し訳ありません、こんな風に言うつもりではなかったのです。


今すでに父のもとには・・・何人もの革命派議員が出入りしている状態なのです。


これはあまり好ましい状況ではありません。

いつだって、血を流す前にはボク達の家には人の出入りが激しくなる・・・今はその前触れです。


亡命するのに早すぎることはありません。


お金と旅券をすぐに用意して、出国の準備を進めてください。


ボクには・・・なにも出来ないのです。」





夫に話し、理解を求めようとしましたが今の状況では無理なようです。

たかが一青年の世迷言と一笑に付され、挙句の果ては


「マダム、貴女は大体本当の貴族出身者ではないのですから大丈夫ですよ!

パリ市民の皆さんも、仮に我が家を襲ったとしても貴女が素敵なパリジェンヌだと判ってくださるはずでは?」


などと厭味ともとれる物言いをし、それを聞いたロレンツォに不快な頭痛をもたらしてしまう有様です。

ロレンツォは今度は自分の師匠もロンドンに渡るという事を聞き、わたくしにこう切り出しました。


「マダム・サンドリヨン。我々はアンリの助言に従い、来年中にはロンドンに渡りませんか?


わたくしも来年の夏にはあちらの舞台に立つつもりです。

なに、アンリはこちらが呼び寄せしてあげたらよろしいではないですか。一生会えないという訳ではございますまい。

革命とやらが終われば、また我々の平和な日々が戻りましょうとも。


ですから、あんな政治家ぶっているご貴族様のご亭主殿は置いて、ロンドン見物のつもりで行かれてはいかがですか?」



ロレンツォの後押しもあり、わたくしと子供たち、二人の侍女はロンドンに居た遠い親戚筋を頼りにするという条件のもと、1790年の秋に向けてロンドンに出発することにしたのです。


それを知ったアンリは表面上は喜んでくれましたが、やはりお互いの寂しくも苦しい気持ちを抑えることなど出来ません。

わたくし達は以前にもましてひんぱんに愛を重ね、想いを告げ雨の日は詩の蔭に唇を交わし、風の吹く夜には燭台の灯に身を寄せ合い・・・月夜の森で、春の緑の丘で、夏のきらめくせせらぎに心震わせながら互いの存在に喜びをかみしめ・・・




わたくし達のイギリス行きを知ったオーロールは、短いお手紙をくれました。


先だって、あの王妃様の寵愛を受けていたポリニャック家の人々が王妃様の命令で亡命したあおりを受け、ヴェルサイユを次々と去る貴族で今やヴェルサイユには本当の貴族はいなくなり、オーロールもフランシーヌも思い切り自由に宮廷を満喫しているとの事。

レオナールは近衛で出世し、相変わらず貴婦人方をはべらせながら今はフランシーヌの恋人だそうです。



不思議と、こういった事実を聞かされてもなんら感情も高ぶることなく受け入れられたのは、その時のわたくしの心の平安が宮廷生活にはなく、すでに身近な人間に移っていたからなのでしょう。

みな、それぞれの道でそれぞれが満足であればわたくしに口をはさむ権利などありません。


オーロールの言うように、わたくしには宮廷生活は向いていなかった。

ただ、それだけです。



あとはイギリスに渡る時をまつだけ・・・


だけど・・・

この美しい森を去り、わたくしの美しい思い出を手放し、水はなだに彩られたブドワールを離れるなどと、このわたくしに出来るのでしょうか・・・?

ましてやアンリと・・・そんなにも遠く離れて暮らすなどと・・・。






わたくし達がイギリスに発つという前日。

急使がやってきて館の扉を叩く音に侍女が応対しますと、なんと旅券が取り消されたというではありませんか。

一体、なぜかと問うと現在の夫の立場、つまり反王党派の人間に旅券の発行を中止していたのでした。

王党派とは名ばかりの貴族が自分たちの亡命手続きに忙しく、わたくし達を後回しにしておきながら権力を傘にかけるという、愚行に出てきたそうです。

ここまできて、未だに王党派の嫌がらせを甘んじて受けなければならない悔しさと理不尽さに、わたくしの心はオーロールの手紙を読むまでもなく、もはや貴族社会から遠く離れてしまったようです。






秋になる前には、一足先にロレンツォがロンドンへと発ちました。


ただそれだけで、なんだかブーローニュは一段と寂しくなった気がしてなりませんでした。

冬前にきた手紙によると、ロンドンのサロンも悪くはないそうですが、貴婦人の華やかさはやはりパリには劣るそうです。

親友は異国から気遣いをみせてくださり、恋人はわたくしを慎ましやかに見守ってくださる・・・


心のすみによどみ始めた不安を認めつつも、まだわたくしの周りには革命の怒涛は達していなかったのでした。



確実に近づいてくる、別れの時を一瞬でも先延ばしにしたくて旅券の申請を一時取りやめにしようかと思ってもアンリはそれを好しとはしませんでした。

今度は自分の父親の紹介という事にして、わたくしたちの旅券を申請しようと言い出したのです。


「アンリ、今回の申請でおりなかったのだから、またムリでしょう。

むしろわたくしは喜んでいるのです。

あなたのそばにこうして一日でも長くいられるのですから・・・。」



そういうとアンリはつとめて冷静さを保ちながらも、こう言ったのです。



「いいえ、アレクサンドリーヌ。

ボクは一日も早く、貴女方にフランスから出国してほしいのです。


来年・・・ボクは結婚するのですから。


幼馴染の女性で、マリ・ルイーズという娘で・・・ボクは・・・・・・」




その先は、何故か声が途切れ途切れにしか聞こえてきません・・・・・


アンリが結婚・・・





「・・・・・・だから、貴女に出来うる限りの事をしてさしあげたいのです。


ボクには、家の跡取りをつくる義務がある以上、この先はもう貴女と共に生きることは許されないのです・・・。」









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