15,
タバコの煙る薄暗い店内には、さまざまな身分の人間が入り混じっておりました。
文学や音楽を語る若者たちがいれば、政治や経済、はては歴史上の偉業まで論じる貴族とおぼしき紳士を囲む平民とひと目でわかる若者達・・・
なかには男装する貴婦人を囲む若い愛人たちまでも、オペラの主題について花を咲かせております。
お酒のグラスのすれあう乾いた音、心地好い低音のざわめき・・・
こんな空間がパリにあったのだと驚くわたくしの手を恭しく引くとロレンツォは店内奥の二階に通じる回廊を登っていきました。
二階は思っていたよりも蝋燭があかあかと灯り、いくつかのテーブルとソファに何人かが散りじりに座り、お互い言葉を交わすことなくもの思いに耽る様にグラスを傾けているといった様子でした。
その人影のなかに懐かしくもいとおしい人を見つける事に思いがけず時間がかかったことには自分でも意外でした。
アンリは外出着にしては軽いコートをかけ、細く長くなった精悍な顔をこちらに向けるとロレンツォに向かって一瞬微笑んだのですが、すぐにわたくしを見つけ真顔にもどるとゆっくり立ち上がりました。
ロレンツォの陰から彼を見やるわたくしの不安そうな面持ちに、アンリはふと、息を吐くと真っ直ぐにこちらに向かって来ました。
「ここには連れてきてはいけないと言ったはずだ。」
アンリはロレンツォに批難の目を向けるとそう切り出しました。
ああ・・・懐かしすぎるよく通る少しだけ低くなった声。背はいまだ伸びているかのように逞しく・・
ロレンツォは二コリともせず、アンリの横をすり抜けるようにして奥のソファに陣取ると、悪びれもせずに言いました。
「離れ離れだった恋人たちを引き合わせるなんて陳腐な趣向なぞ、もちろん引き受けたくはなかったけどね、マダム・サンドリヨンもこうして宮廷から出戻った訳だから、旧知の者が再び親交を暖めることはそう悪い考えでもなさそうだったから、そうしたまでですよ。
仮に余計なお世話と言うならば、君はわたしとほぼ2年の間、ここで酒を酌み交わすなんて事はしなかったと思うのですけれど・・・いかがですか?」
アンリは黙ってうなだれ、紅く染まった頬には恥じらいと慎みがあふれています。
わたくしはもう一言も黙っていられず、とうとう声をかけてしまいました。
「・・・お元気そうね、アンリ。本当に・・・素晴らしい青年になって・・・。」
アンリは少しだけ微笑むと、真っ直ぐにこちらに身体を向け、一歩だけわたくしに近づきました。気がつくと、アンリはもうわたくしが見上げなければいけない程、大人の様相でそこに佇んでいます。
「お久しぶりです。・・・ボクは今年で21歳になります。ア・・・。」
「アレクサンドリーヌと、以前のように呼んでくださらないの・・・?」
わたくしの恥ずかしげもない懇願に、アンリは深い抱擁のような穏やかな笑顔で答えてくれました。
「アレクサンドリーヌ。お会いできて・・・本当に嬉しいです。どうぞお座りください。」
絡み合ってほどけなくなっていた鎖が元の輪になるように、今までのしこりは彼のほころぶような笑顔に浄化され、どこまでも澱みなく続く川になって胸のつかえも宮廷での悔しさも全て、押し流されてしまいました。わたくしのアンリは静かな森のようにどこまでも深く、やさしく包み込んでくれるのでした・・・。
アンリの暖かく広い胸に戻ってこれたことを神に感謝します。
夜の黙に想いを籠め、このはちきれんばかりの瑞々しい愛は再び重なり合い、求め合い・・・・
末枯れることのない緑の季節に永遠の誓いを立てた二人の魂を、神はこの一瞬の輝きの中だけに寄り添うことを許して下さったのでしょうか・・・
わたくしの身体にいくつものバラ色の刻印を残し、熱くほとばしる愛の言葉を耳元で囁きながらこんなにもその青灰の瞳をなくして生きてはいけないと思わせてくれた悦びに胸ふるわせ、心の底から湧き起こる泉にすべてをまかせ・・・わたくしはこの時まさに人生の華を咲かすかのように激しくアンリに想い寄せて生きていたのです。
5月。
三部会が開催されると同時に、パリに異様な熱気が巻き起こるかのようにあちこちで諍いが起こりました。 テュイルリー付近のパン屋は店ごと叩き壊され、飢えた市民にパンと貯えの全てを略奪された上に惨殺されました。
宝飾品店には暴徒と化した市民が詰め掛け、店内の貴婦人から脅すだけ脅して金品を巻き上げ・・・
わたくしの両親はパリでの商売に見切りをつけると、不安定なパリの治安に恐れをなしドイツへといち早く旅立ちました。
度重なる王室側の締め出しに対し、平民議員はくじけもせずジュ・ド・ポームの誓いをたて、この混沌とした時世の荒波に向かって自らの信念と勇気を載せた船を漕ぎ出したのです。
時代は・・・すでに変わっていたのでしょうか。
そこからは何もかもが、風のように通り過ぎていき雪崩れるように新たな展開を生み続けました。
三部会から国民議会、平民議員の解散を目論んだ王室の放ったパリ市への進軍、圧倒的人気で国民の支持を受けていた財務長官・ネッケルの罷免、軍隊に対抗し、国民が編成した義勇軍による武器や食料の略奪・・・・
すべてが神のおつくりになった壮大な物語ならば、何故このような血のにおいと硝煙のくすぶる歴史の一ページなどを認められたのでしょうか・・・?
7月に起こったテュイルリー宮広場前の暴動は、わたくしがブーローニュの館で数人のお友達とイギリスからのお茶をいただいていた時に夫の側近からの急使で知りえたのでした。
ご一緒されていた貴婦人方は特に大した問題ではないと言う風に、お茶やお菓子をいただいておりましたが、わたくしはアンリの隊が出動していたら・・・と思うと気が気ではありません。
お隣に座ったマダム・エリオットはイギリスからいらした貴婦人であり、ドルレアン公の愛妾でした。
夫との繋がりから我が家にもいらしてくださるようになり、こうしてイギリス趣向の会には必ず出席して盛り上げてくださる少し年上の心強い友人でもありました。
「アレクサンドリーヌ、わたくしの愛しいお友達と貴女のご主人はすっかり反王党派の名義をいただいてしまったけれど、わたくし自身の心は常に王様のお傍にいますのよ。
わたくし自身の偽らざる気持ちは自由そのものなの。
それがいけないとおっしゃるなら、わたくしのような人間は生きてはいけませんわ。」
グレース・エリオットはもっともらしく頷きながら、実はわたくしに言い聞かせているようでした。
わたくしは彼女の身の上を聞いた上で、そのたくましくも伸びやかな生き方に感嘆のため息が出たものです。様々な恋愛を繰り返し、そのたびに大きく艶やかに羽根をひろげてゆく蝶のように生きる彼女を人は高級娼婦と呼びます。かつて少女だったわたくしがファルケンシュタイン伯をお慕いするあまり、そのお相手になったデュ・バリー夫人に対し燃やした怨念の言葉です。
大人になった今、なぜ殿方がこうした女性に心寄せているのかが判るようになりました。
燃えるような熱情を味わわせてくれ、なおかつしっとりとした森の泉のように清涼とし、余計な危惧は抱かせずにいつでも快活にふるまえる芯の強さ・・・
グレースのような強さと美しさがあれば、わたくしにもこの怒涛の世の流れに身を任せることが可能でしょうか・・・。
わたくし達のお付き合いはとても短い間でしたが、とても密にお互いの心情を交し合えたのはよき思い出です。
暴動騒ぎの翌日、バスティーユ牢獄の大砲はすでにパリ市内に向けられていたそうです。
陛下は王室に歯向かう者は国民ですら排除をするおつもりだったのでしょうか・・・?
武器を持ち、暴徒化したパリ市民の勢いはもはや留まることなぞ知らず、ついにはバスティーユも市民の手に堕ちたのです。
夫は帰宅するなり、わたくしのブドワールの扉を開き
「マダム、わたし達の勝利はもうすぐですよ。
革命が始まります。 外国に行く必要などないでしょう!」
と、珍しく興奮した様子で声高らかに言ったのです。
自由と平等をうたう「人権宣言」に続き、飢えと怒りにまかせたパリの女達によるヴェルサイユへの行進、王家のテュイルリー宮殿への移送・・・
革命は、次々に新しい事件という支流を生み増やしながら澱みのない大河のように一筋の広大な流れになりフランスを飲み込んでいくのでした。
宮廷にいた数少ない友人によると、先日王妃様に宛てられたお手紙の中にはかのサン・ジェルマン伯爵からのお手紙もあったのだそうです。
その手紙によると「海外に亡命されるよう」と強く進言されていたとか。
わたくしはサン・ジェルマン伯の言葉は今になってみて真実だと噛み締めておりましたゆえ、その友人にも早く宮廷を去るよう、忠告出来ました。
太陽はもはや沈みかけ、血の色に染められています。
王妃様や国王陛下が平民に対し圧政を行えば行うほど、両者の溝はこんなにも深く・・・涙と血にぬかるんでもはや埋めても埋めてもにじみ出る国民の叫びに抗うことは出来なくなっていたのです。
この年を境に、まるで大海に浮かぶ小船のような人生を送ることになろうとはわたくし自身、まだ気づくことが出来ずにいたのです。