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夫の官職就任に伴い、ヴェルサイユに伺候してきたわたくしを待っていたのは、なんとも言えず冷たい視線の渦でした。
夫の父親であるド・ラカーユ伯はヴェルサイユに与えられていた一室で、若い愛人と戯言の最中に、心不全であっけなく世を去り、宮廷人達の哀れみと同時に嘲笑をも買っており、どうやら波乱の幕開けと言った様子です。
伺候の日に王妃様への謁見は急遽中止と聞かされた事は、お言葉をいただけると思ったわたくし共にはいささかの動揺でした。
何故なら、この日謁見の間に赴く際にまず初めに国王陛下の侍従付き次官に仕えていらっしゃるお取次ぎ職の方から、
「本日陛下は狩りにお出でになられております故、謁見は後日改めて・・・」
そして王妃様の女官からは、
「王妃様は現在、お着替えの儀に入られ・・・」
「王妃様は現在、エスタハージ伯との昼食会にお出でになられ・・・」
挙句には
「王妃様は現在、離宮にて音楽会のご準備にお忙しくされ・・・」
とうとうこの日、わたくし達は謁見がかなわず終いだった、という事です。
一体、国王陛下や王后陛下は官職につく役人貴族をどうお考えになっておられるのでしょうか・・・
官職につく者にお目通りをする時間より、狩りや音楽会の準備の方が大切だという事なのでしょうか?
そんな風に煮え切らない思いを抱えながら、再度(本当は再々度でした・・・)の伺候に宮廷に赴いた時です。回廊の影から、身なりの立派な紳士がこちらに向かって微笑んでいます。
宮中では、身分の差により会話が成立いたします。また、ご紹介されていない殿方にこちらから親しく話しかける事も出来ないのでそのまま通り過ぎようとしたわたくしに、かの紳士は呼び止めてきたのでした。
「お若いマダム、何をそう急いでいらっしゃいますか?
そのように早足に行って、その先には何が待っておられるのです?」
紳士は40歳ほどの方でしょうか、しかしとてもお若く感じられる生き生きとした目つきにしっかりとした口調には知性が感じられます。身なりが立派、と感じたのは驚くことに上着の袖口飾りやボタンがまばゆいダイヤモンドだったからです。こんなきらびやかなお方は、もしかすると国王陛下・・・?
「これは失礼しました。
わたくしはサン・ジェルマン伯爵と言う大嘘つきの山師でございます。
こちらの宮廷も先代に比べ、華やかさを失いつつあり寂しいものですね。今しがた王妃様にも進言させていただいたのですが、船の舵取りは少しでも間違ってしまうと、うっかり大きな渦潮に巻き込まれてしまうと言うのに・・・
どうやら今のフランス王室の方々にはフランス語が通じないらしい。
花のようなマダムにはわたくしの言葉が、おわかりいただけているご様子ですがね。」
その語り口に何か不思議な可笑しさを感じ、ついわたくしも冗談にのるように気軽に返事を返しました。
「伯爵さまの様にご自分で嘘つきの山師だなんてことおっしゃる方は大抵、好いお方であったりするものですわ。
あなた様のフランス語は完璧ですわよ。
外国のお方、フランス王室のご心配をして下さるなんて有難う存じます。
ですがこの国の太陽が沈む事など、わたくしには到底考えられませんわ。」
わたくしがそう言うと、サン・ジェルマン伯爵は口元だけで微笑みながら回廊の窓越しに庭園に眼を向けて、ほんの少しだけ声の大きさを落として言ったのです。
「わたくしの事を少しでも信じていただけるならば、どうぞお願い致します。
1790年になる以前には、かならずこのヴェルサイユを離れてくださいますよう、切にお願い申し上げます。
あなた方の太陽が、すでに夕暮れにむかって色褪せ始めていることはもはや隠し様もない事実でございますからね。
お若いマダム、あなたにはきっとわたくしの話が伝わるよう信じております・・・。」
はた、と気が付くと回廊には既に人影一つなく、あとに残された紳士の軽い残り香がふうわりと鼻先をかすめていきました。
後に、サン・ジェルマン伯爵の数々の伝説をお聞きするまで、わたくしは白昼夢でも見たのかと思っていたのです。
無の状態からダイアモンドを作り出し、あらゆる言語をあやつり、時間と空間の壁をやぶり、見た事も聞いた事もない技術を駆使して世界中を飛び回る不老不死のサン・ジェルマン伯爵。
今思い返しても、彼が果たして本当のところ何者だったのか、判りません。
不思議なサン・ジェルマン伯との会話の直後に、わたくしはアントワネット様に謁見するはずのお部屋に向かったのですが・・・
やはり今回も謁見は中止になったのです。
わたくしの他にもそれぞれ同じように謁見を待ち望む貴族の方々は、朝早くから夕刻にせまる今まで、ずっと待っていたのです。これはあまりの仕打ちではないでしょうか?
女官のお一人は、わたくしに言いました。
「マダム・ド・ラカーユ様、王妃様は大変お忙しいお方です故、またの機会にお目通りのお申し出をされますよう。では、御機嫌よう。」
「お待ちくださいませ。わたくしは今回もきちんと手順通りにお目通りのお約束をいたしました。
何故、王妃様はお会いして下さらないのですか?
わたくしは王室にたいしての忠誠をお誓いするために、毎日・・・」
言いかけたその時に、女官室のドアを入ってきたのはあのオーロールでした。
オーロールはしずしずとパステルグリーンのタフタのドレスを引き、わたくしの隣に立つとゆっくりお辞儀をしてから、
「マダム・アシオン様、大変失礼を致しました。
連れはまだ、宮廷の作法に不慣れでございます、どうかこの場はわたくしに免じてくださいませ。
後日、きちんとしたご挨拶を致します故、何卒謁見の方、御取り成しいただけますようマダム・ド・ポリニャック様にはすでにお伝え申し上げております。
それではご機嫌よう。」
オーロールの出現にただあっけにとられていたわたくしは、彼女に引いていかれた支度部屋につくまで一言も口が聞けませんでした。
支度部屋のドアを閉めると、オーロールはふっ、と息を抜いたように笑い、わたくしに向き直って言いました。
「女官長やポリニャック夫人になんの手土産もなく、あなたったら王妃様に謁見できるとでも思っていたの? そんな事ではこのヴェルサイユでは生きていけないわよ!
さぁ、もっとシャンと背筋を伸ばしなさい!!サーモンピンクのドレスが泣いていてよ?」
相変わらずのオーロールの気勢につい気がゆるみ、ふふっと綻んだ刹那にわたくしの眼から大粒の涙がこぼれたのです。
「・・・・そんな事で泣くものではないわ。
ここでは自分だけが頼りなのよ。あなたのご主人の官職なんて関係ないわ。
ただひたすら、王妃様とそのお取り巻きに取り入って、這い上がる事だけしかないのよ・・・
泣いてはダメよ、アレクサンドリーヌ。
ただ泣く事しか出来ないのなら、パリにお帰りなさい!!
ここで生きていきたいのなら要領をつかんで、どんな小さなチャンスでも必ずモノにしていくのよ。
ここに来た以上は、もう貴女だってその道しかないことくらい、判っているのでしょう・・・?
いいこと、アレクサンドリーヌ。 わたしですら、明日はあなたの敵になるかも知れないのよ、
ヴェルサイユとは、そういう所なのよ・・・!」
本当に、オーロールの言う通りでした。
考えてみればわたくしには、もうそれしか残されてはいなかった事を・・・
あの森の中で、愛しい人の手を離したその時から、わたくしにはもうヴェルサイユでの暮らししか、残された道はなかったのですから。
そう誓ったのは、自分自身なのです。
本当に欲しかったただ一つの心を失った今、わたくしにはなにを躊躇することなどありましょう?
ひたすらにこの宮殿にあがり、華やかな世界を夢見て今日まで貴婦人としての努力を重ねたのですから、あとの人生でも不可能なことではないはずです。
王妃様に近づくために、その前に崖のような困難がそそりたつならば登りましょうとも。
宮廷に認められるために、いばらの道が続くなら棘も恐れず進んでみせましょう。
引き返す事など、もはやありえませんもの。
「今はね、王妃様がお忙しいのは無理ないのよ。
アメリカの遠征からお気に入りのフェルセン伯が戻ってこられてからね。
毎日が、プチ・トリアノンでの慰労会なの。
あなたがお気に召さない訳ではないのよ。フェルセン伯の前ではね、あのポリニャック夫人ですら、王妃様に口を挟めないのだから。
夫人と女官たちには賄賂を渡してあるから、おそらく来月あたりには謁見できるはずよ。
とにかく、ヴェルサイユへようこそ。」
この庭園の向こうにある小さな別荘に王妃様がいらっしゃるのにも関わらず、お会いできない事がとても不可解でした。
政治をなさる訳でもなく、お着替えの肌着すらご自分お一人ではされないお方にとって、わたくしのような人間一人にお会いくださる時間すらないのは、果たして何故なのでしょうか?
その時、ふと頭によぎった不吉な妄想は、自分でも耐え難いものでした。
以前、小間使いたちが拾ってきていた王妃様の中傷ビラ・・・。
贅沢におぼれ、愛欲にふける自堕落な娼婦のような王妃様を模したいやらしい挿絵・・・
もしかするとわたくしは、何かとんでもない場所に迷い込んできてはいないだろうか・・・?
「オーロール、あなたは今どういう立場にいるの?
あなたは王妃様や国王陛下にお会いしたことはあるの?」
「わたしはドルレアン公のお引き立てでこちらにいるのよ。
今、女官の侍女なの。
もうすぐこの宮殿内にお部屋もいただくはずよ。
最も、この支度部屋に毛が生えたような所だけれどね。」
パリの社交界においても輝いていた彼女はやはり、宮廷においても着実に足元を固めながら自分の進む道を歩んでいました。
引きかえ、わたくしは宮廷人の力関係に疎い、と言うことから始まり裏の社交術すら心得てはいませんでした。謁見にも段階を踏まなくては、頂上には永遠にたどりつかないようです。
あのお取次ぎの女官からしてみたらわたくしの申し出は、
明らかに、「礼儀知らずで」粗野な下町女のたわ言に過ぎなかったのです。
夕映えの大運河を背にしながら宮殿を出てくると、森につづくネプチューンの泉の奥から一台の馬車がゆっくりと入ってきました。
頭を下げ、深くお辞儀をしてから馬車のなかに眼をうつすと、そこには美しいシャンパン色のドレスに身を包んだ女性がおりました。ふちの広い白いレースと羽飾りの帽子が淡い髪の色によく合っております。その方が王妃様だと判ったのは、お取り巻きのポリニャック伯夫人が向かいの座席に座っていたからです。軽やかに談笑されているご様子にはあの中傷ビラのような不謹慎な態度は見受けられません。
しかし、やはりこのヴェルサイユで受けた洗礼にわたくしは失望に近い想いを抱いてしまったのは確かでした。
憧れていた王室の態度はあまりに冷たく、宮廷内の人間は私利私欲に追われ、美しい王妃様には近づきたくてもお傍にすらいけない・・・
謁見の間にはあれだけ大勢、伺候されてくる貴族がお目通りを希望しているにも関わらず・・・。
そんな風にして、ようやくお目通りかなった時にはわたくしの心はもはやすっかり冷めてしまっておりました。
国王陛下は「ああ、そうでしたね。では、余はこれにて・・・」
と、まるで意に介すこともなく退出され王妃様もにこやかに振舞われましたが、
「申し訳ありませんけど、わたくしお友達とお芝居のお稽古がありますの。
これからのご活躍をお祈りいたしますわ。それでは御機嫌よう。」
あまりのあっけ無さに、謁見の間を出てきたわたくしはしばらくは何事も考えられなかったのですが、
帰りがけの階段を降りるまでの間に、なにか釈然としない思いが生まれてきたのでした。
(太陽であるはずの国王陛下も・・・
王妃様もあまりにわたくし達のように忠誠心あふれる役人貴族に対して態度は軽すぎていらっしゃる。
こんな事はいままでの王室と貴族の関係にはなかったはず・・・。
国王陛下には、王妃様にはわたくし達がどうでもいいとおっしゃるようなご様子・・・
こんな事は・・・おかしいのではないのかしら。)
ふと階段下を見ると、先日のサン・ジェルマン伯がてすりに腰掛けるようにしてこちらを見上げると、
こう言ったのです。
「ね、お若いマダム。やはり太陽は色褪せてきていますでしょう?」




