手癖のワンちゃん
「あたしね。それでも生きようと思ったんだ」
小学4年生の小さな女の子が、泣きながらそう言った。
オレと年齢が20歳以上も離れているのに、この子はオレよりすごいな、と思った。
○
32歳で死ぬことにした。
長年務めていた会社で取り返しのつかないミスをして、オレはクビになった。
先のことも考えたくない――気付けば、森に来ていた。
「ここならいいか」
なにがいいのか、自分でもよくわからない。
買ってきたロープを持ち、木々を眺める。樹海は静かで、足元の木々を踏み割る音だけが響いていた。
やがて1本の木に決めた。オレの背丈より少し高い木だった。
自殺の準備は、一瞬で終わった。なにせ、木にロープを付けるだけだからだ。
「これで死ねる」
木に登ると、子どもの頃の記憶が蘇ったが、すぐに消した。こういう思い出は未練になることはわかっていた。
これで死ねる――木を蹴って飛び出そうとしたときだった。
「おじさん、なにしてるの?」
ぎく、と身体が固まった。こんなところで声をかけられるとは思っていなかった。
下を見ると、子どもが立っていた。小学生の女の子だ。幼い顔立ちだが、身長はやや高い。4年生ぐらいか、とオレは見込んだ。
「い、いや……なにも」
「えー? 木登りしてるんじゃないの? それに、なんで首にひも付けてるの?」
そうか、この子はオレが死のうとしていることがわかってないらしい。
オレは女の子に言う。
「実は、降りられなくなって」
「そうなの!? 大変! あたしが助けてあげる!」
女の子が木に登ってきた。さすが小学生、すぐにオレのところまで来た。
「首の、外せばいい?」
「いや……固くて外せないと思うけど」
「そっかー。じゃあ、こっちだね」
女の子はポケットからカッターを取り出すと、オレの首先のロープを切った。案外簡単にきれてしまった。これだったら首を吊っても自重で切れていたかもしれない。
「おじさん、誰かに捕まってたの?」
その物言いは、現代の子にありがちな、作り話の想像だった。
「そういうわけじゃない」
「そうなんだ。ふーん。へんなの!」
女の子がぷっと笑った。オレはなんだか身体がそわそわした。
「じゃあ、おじさんは行くよ」
「うん。またね!」
なにが「またね」なのかわからなかったが、オレは立ち上がって歩き出した。女の子はまだ木のところに立っていて、笑顔で手を振っていた。
○
不意に自殺を止められてしまったが、死にたい気持ちはちゃんとあった。
務めていた会社から自分の物品が送られてきた。それらはすべてぐちゃぐちゃに詰められていた。10万円で買ったオレの備品は壊されていた。手紙には一文。「死んでください」と。訴えることをしないオレの性格を知っての攻撃だろう。
「アットホームな職場だな」
オレは手紙を丁寧に畳んで、胸ポケットに入れた。オレが死んだ時にこれを身に着けていれば、会社から送ったやつに一矢報いることができるだろう。
今日もロープを持って、あの森に向かった。
どうしてか、死ぬ場所はあそこにしたかった。
とくにこだわりが強いわけではない。仕事はなんでもよかったし、昼飯はなんでもよかったし、それなのに、死ぬ場所だけはこだわった。
森に行く。自殺に失敗した木はすぐにわかった。結んだロープがぷらんと垂れていた。
「よし、死ぬか」
この間と同じようにロープを結ぶ。2回目だからか、すぐさま終わった。オレはちゃんと学習しているんだな、と思った。
ふたたび木に登る。
あとは飛ぶだけ。
飛べばすべてが楽になる。
死ぬ前に両親のことを思いかけたが、首を振って消した。未練はいらない。
オレは飛ぼうと、膝に力を入れた。
「あ! 犬おじさん!」
またしても、声がした。
足元には、この間の少女がいた。
「……犬おじさん?」
オレは苛立ちを隠して言った。
「首に紐付けてるでしょ? ワンちゃんみたいでかわいいなって!」
少女はにっこりと笑っていた。
オレはふと思った。「このまま女の子に気にせず、首を吊ればいいんじゃないか」と。
「あたしねー、昨日おかあさんといっしょに遊んだんだ」
「……」
「おかあさん、いつも遊んでくれないから、嬉しかったの!」
「……」
「でも、あんな変な遊びはしたくなかったなぁ」
オレは、タイミングをうかがって――飛ぶのをやめた。先ほど心の中で膨らんでいた苛立ちは、急激になくなっていった。
「そうか、よかったな」
「おじさんは、今遊んでるんでしょ?」
「そうだよ。遊んでいるんだ」
「いいなー。あたしも一緒に遊びたい!」
「じゃあまた、これを取ってくれないかな」
女の子は再び木に登り、カッターでロープを切った。ぷらん、とふたつのロープが垂れていた。女の子は「ゾウさんだー」と笑っていた。
「で、なにして遊ぶんだ?」
「それはね……こうして遊ぶの」
女の子はオレの胸元に飛び込んできた。ごつん、と女の子の頭がオレのあごに当たった。少し痛かった。女の子からは酸っぱい汗の香りがした。
女の子は動かなかった。ただ息をしているようだ。
「これは、どんな遊び?」
「もうひょっとまって!」
胸元が温かくなってくすぐったかった。
やがて女の子が顔を上げた。
「87!」
「え?」
「おじさんの胸の音。87回ってこと!」
なるほど、心拍数を測っていたのか。変な遊びだ、とオレは思った。
「最初は早かったから数えるの大変だったよ。でもあとはゆっくりになって、数えやすかった」
「そうか」
「次はおじさんがあたしの音を聞く番だよ」
そう言われて、オレは首を振った。
「オレはいいよ。きみの心拍数を測らなくていい」
「えー? だめだよ、そんなの。一緒に遊んでくれるんじゃなかったの?」
じっと顔を見つめてくる女の子。
たしかに、一度言ったことを断るのは社会人としては悪いことだと学んだ。
そしてここは誰もいない森。女の子と何をしようが、誰にもバレやしない。
「しかたない」
やったぁ、と喜んだ女の子は胸を突き出してきた。子どもの平らな胸だ。
「ちゃんと数えなきゃダメだからね?」
オレは女の子の胸に、耳を当てた。
女の子は温かかった。子どもはどうしてこんなに暖かいのだろう。
最初はあまり聞こえてこなかった心音は、やがてはっきりと聞こえてきた。どくん、どくんと脈を打っている。
1回、2回、3回……。
『あなたのこと、今でも好きなんだよ』
数えているうちに、オレは昔付き合っていた女を思い出した。
大学を入学してすぐ出会ったオレたちは、仲良くなって付き合った。恋人としていろんなところに行ったし、もちろん何度もセックスをした。「身体の相性がいいね」と笑いあったりもした。オレは多分、この子と結婚するんだろうなと思っていた。女も「結婚しようね」と言っていた。
しかし、女は浮気をしていた。オレより3歳年上の男だった。その男はラグビー部のキャプテンで、実家が裕福で、姿格好も申し分なく、大学生なのに自分の車を持っていた。つまり、オレよりもいい男だったのだ。
女は泣きながら言った。「最後にあなたと寝たい」と。オレはそれを受け入れてしまった。その日のセックスは、女と今までやったセックスの中で一番最悪だった。オレは射精できなかったし、途中から吐き気が込み上げてきた。
セックスをやめたオレたちは、ベッドで抱き合った。
『あなたのこと、今でも好きなんだよ』
『そう。いいよ、幸せになってくれ』
オレは優しく彼女を抱いた。
内心では「死んでしまえ」と思いながら、彼女の胸の鼓動を聞いていた。
1回、2回、3回、と……。
「何回だった?」
そう言われて我に返った。そこはベッドではなく、森の中だった。
見上げると、すぐそこに女の子が笑っていた。
「ああ、えっと……」
「ちょっとー!? ちゃんと測ってよー!」
「ごめん。でもどうして心拍数なんて測るんだ?」
「そりゃあ、おじさんとあたしのどっちがドキドキしているか勝負するから!」
なるほど、とオレは思った。子どもは勝負ごとが好きなのだ。
「だから、もう1回やって! ちゃんと!」
女の子に言われて、もう一度彼女の胸に耳を当てた。
1、2、3……今度は昔のことは思い出さなかった。
ふと、女の子の息を感じた。オレの頭に息がかかっている。ほんとうに温かいんだな、とオレは思った。
1分ほどして、「どう?」と女の子が言った。
「118回」
「えっ、そんなに? うそだー、あたし、そんなドキドキしてないよ!」
「歳を取るとゆっくりになるんだよ」
ずるいー、と悔しそうに言う女の子。どうやら心拍数が多いほうが負けらしい。
「今度は絶対に負けないから!」
「負けてもいいんじゃない?」
「だめ! ぜーったいに、負けないもん!」
女の子はそういうと、ぷいっと顔をそむけた。可愛らしいいじけ方だった。
オレはゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、オレは行くから」
「行けば!」
「……次もオレが勝つから」
「あたしが勝つから!!」
木の端でこちらをちらちらと見る女の子に、オレは手を振った。
○
自宅のガスと電気が止まった。光熱費を払っていなかった。
水道だけはまだ生きていたので、水を飲んだ。夏の水はぬるくてまずかった。
オレは死ぬことについて考えた。
死にたいことには死にたいのだが、あの女の子がやってくる。どうにも不思議な力で、あの子がオレの自殺を止めているようだった。まぐれだとは思う。
少し考えて、こうすることにした。
次、女の子がいれば、オレは自殺をやめる。
逆に、女の子がいなかったら、自殺をする。
自分の死を女の子に委ねる。
女の子に悪いか、と思ったが、オレはやることにした。もう、生きる活力もないのだ。
あの森に行く。あの木を見つける。ロープがふたつ。
オレはあたりを見渡した。女の子の姿はどこにも見えない。
オレは手早くロープを結び、すぐに木に登った。
女の子は、まだいない。
何かを考える余地は、まったくなかった。
女の子が来るか来ないか、それだけを考えていた。
しかしオレは眉をひそめた。女の子は来なかった。
「……そりゃ、首吊るときだけ来るなんて都合のいいこと、ないよな」
そう、たまたま女の子が来ただけだったんだ。
たまたま女の子が森に遊びに来て、たまたまオレを見つけて、たまたま自殺が止められていただけなんだ。
「天気が良いから自殺をやめよう」と言っていることは同じだ。
オレは女の子を探すのをやめた。足に力を込める。
頭の中に思い浮かんだのは、今までの思い出だった。さえない人生だったが、悪くはなかったはずだ。両親は他界し、兄妹たちはそれぞれの人生を送っている。学生時代から友達はいなかったが、恋人はできたことがある。会社はクビになったが、10年間は務めることができた。
もう、十分だ。
オレはしっかりと人生を生きた。ただちょっと人より早く死ぬだけで、結局死ぬことに変わりはないのだから――これも人生の選択だ。
「じゃあな」
誰にいうでもなくそう言って、オレは飛び出した。
グッと――首にロープが食い込んだ。息が止まった。全体重が首にかかっている。ギギギ、と頭の中で首の骨の音が鳴った。頭の血が止まっているのがはっきりと分かった。
視界がぐらんと歪む。鬱蒼とした森がぼんやりと霞んでいく。
オレは目を開け続けていた。この後に及んで、まだ女の子を探していた。ただし、自殺をやめるためではない。死ぬ様子を彼女に見られたくなかった。小学4年生に死体は見せたくないが、オレが苦しんでいる様子はもっと見せたくなかった。
しかし、その願いは叶わないようだ。女の子はどこにもいなかった。
もうじき、オレは死ぬ。
視界が暗い。耳鳴りが激しい。
意識が遠くなる。
もうじき、オレは死ぬ。
クソみたいな人生だったが、悪くはない。
そう、思っていた。
気付いたときには、オレは地面に叩きつけられていた。
「――――」
いったい、なにが起こったのか?
朦朧とする意識の中、オレは必死に息を吸った。本当に必死に息を吸った。
真上には、オレが吊っていたはずのロープが垂れていた。枝には3本目のロープ。
まさか……まさか?
「おじさん」
その声に、オレは首だけを横に向けた。
あの女の子が、泣いていた。ボロボロと頬に涙をこぼしていた。
「ごめんね。ほんとうは、止めちゃダメだとわかってたの」
彼女のこぼれた涙がオレの顔に落ちてきた。大粒の、温かい。
「でも……やっぱり、おじさんに死んでほしくなかった」
オレは言葉が出なかった。
胸の中の思いと首吊りで、声帯がイカれていた。
「……なん、で……?」
やっとの思いでひねり出した言葉に、女の子は涙で答えた。
「あたしのパパね……ここで死んだの。仕事がうまくいかなくて。ママは大変になって、あたしのことぶったりするんだ」
「…………」
「でも、あたしは生きてるの。こうして、生きてるの」
女の子がオレの横に膝をつき、オレの胸に頭を当てた。
「パパはいないし、ママは嫌いだけど――それでも、生きようと思ったんだ」
朦朧とする意識の中、ぼやける視界の中、呼吸がままならない中、そんな中で女の子の温かさだけが確かだった。暗闇の中に輝く光のようだった。
「だから、おじさんも生きようよ。おじさんの苦しさはわからないけど、あたしも生きるから、おじさんも、生きてよ」
オレはすがるように彼女を抱いた。
この子はオレよりすごいな、と思った。
○
結局、オレは生きることにした。
根本的な解決はなにひとつしていない。この先の人生がよくなるとも思えない。
だがそれでも、生きていくことにしたのだ。
オレを生かしてくれた女の子がそう言ったのだから。
「おじさん、今日も来たんだね」
「そういうキミだって」
「ふふ。もうワンちゃんじゃないんだね」
「キミがリードを切ってくれたおかげだよ。ありがとう」
森の中。木の根元で、女の子は今日も笑ってくれて。
今日もオレたちは生きていく。
ただ、生きる。