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第6話

 この社交界から十日が経ったころ、桜和は予知夢のようなものを見て目が覚めた。

 布団の上で上半身を起こすと、額に汗が滲んでいる。

 とても嫌な夢だった。両親と三人で辺りを気にしながら荷物を抱えて逃げる夢……。

 だけどそれ以上はわからない。なぜそうなったのか、どこへ逃げているのか。


 おそらくなにか嫌なことが近々起こるのだろう。

 そうなる前に食い止めねばと思っていたのだが、その日の夜、阻止できずに現実のものとなる。


 そろそろ就寝しようとしていたころ、桜和の父である江蔵が住み込みの使用人を含め全員を居間に集めた。


「夜更けにどうされたのですか?」


 桜和が呑気な声で尋ねたが、江蔵は渋い顔をしたまましばし考え込んでいた。

 隣にいる桜和の母は悲愴な顔つきになっている。


 ふたりの表情を見て、桜和は昨夜の夢のことが頭に浮かんだ。

 今からなにか起こる。夢のとおりになってしまう。そう考えたら一瞬で恐怖が押し寄せた。


「それぞれ荷物をまとめなさい。早朝にはここを出る」


 江蔵は静かな口調で全員にそう告げた。

 使用人たちは顔を見合わせて動揺している。


「皆には今まで世話になった。これは少ないが足代にでもしてくれ」


 江蔵が使用人たちひとりひとりに茶封筒を渡していく。

 みんなわけがわからずそれを受け取り、手にしたまま呆然としていた。


「お父様、いったいどういうことですか?」


 桜和があらためて問うと、江蔵はつらそうに眉間にシワを寄せた。


「どうもこうもない。この家は今日で終わりだ。皆、実家にでも帰りなさい」


 外に働きに出された使用人は、突然帰れと言われても帰る場所などない。

 それは江蔵も重々承知しているが、そうするしかなくなったのだ。


「桜和、お前も荷物をまとめるんだ。当然持ち歩ける分だけにしなさい。あとは置いていく」

「嫌です。私はここにいます」

「会社が潰れた。莫大な借金だけが残っている。明日、タチの悪い借金取りがここに来るだろう」


 伯爵の爵位を賜っている菊地家は元々資産家だった。

 明治の世になり諸外国との貿易もさかんになったことから、江蔵は先祖から受け継いだ資産を元手に輸入業の会社を営んでいた。

 しかしそれがうまくいかず、借金が増え、ついに倒産に追い込まれてしまった。


「タチの悪いって……」


 裏街道を行く怖い人たちが大勢で押し寄せてくるのを想像した桜和は、顔から血の気が引いた。

 なにか危害を加えられるかもしれない、と。


「お、お金さえ返せば免れるのですよね? それなら野宮のお義父様に話して助けを求めましょう」


 野宮家は公爵の地位にある。ほかとは比べ物にならないくらいの資産家だ。

 煌太郎と桜和は婚約しているのだから、野宮家に相談すれば力を貸してくれるのではないかと桜和は思った。

 みっともない話だが、使用人を含め一家が路頭に迷うくらいなら頼るべきだ。


「断られた」

「……え?」

「頼られても困る、沈む船には一緒に乗れない、と言われたんだ」

「そんな……」


 煌太郎の父は品がよく、どんなときでもおおらかにかまえている人だった。

 息子が気に入った娘なら、と桜和との縁談もすんなりと認め、来春の婚礼を楽しみにしてくれていた。

 そんな温厚な人物でも、自分の家が傾くかもしれないような事柄には巻き込まれたくないと判断したらしい。


 あちらは公爵だが、菊地家とて伯爵の身分。

 借金を肩代わりしてほしいだなどと頼みに行くのは、プライドの高い江蔵にはつらかっただろう。

 苦悶の表情になる父を、桜和は涙を浮かべながら思いやった。


「婚約は……煌太郎様との結婚はどうなるんですか」

「破談に決まっているだろう」


 父の言葉で、桜和は後頭部をなにかで打たれたような衝撃を受けた。

 十日前に野宮邸を訪れたときは、あんなに幸せだったのに……。


「早朝に家を出るって、どこへ行くの? 鎌倉の別荘?」

「別荘はとうの昔に抵当に入っていて、じきに競売にかけられる。……この家もだ」

「煌太郎様に一目会ってから、」

「ならん。桜和、許せ」


 これは昨日今日起こった出来事ではない、と桜和は唐突に理解した。

 心配をかけないため、江蔵は経営不振のことを家族にずっと黙っていたのだ。

 話を聞きながら震えている母にもつい先ほど伝えたのだろう。


「みんな、荷物をまとめてくれ。夜が明けるころにはここを発つ。すまないがそのあと誰かに我々のことを聞かれたら、知らないと言ってほしい」


 使用人たちが嗚咽を上げて泣き始めた。この先自分がどうなるのか不安なのだ。


「お嬢様」


 それぞれが肩を落として部屋に戻っていく中、千代が桜和のもとへやってきた。

 こらえきれずに大粒の涙をぽろぽろと流している。


「千代……」

「お世話になりました。こんなに突然のお別れになるなんて……」


 桜和は思わず両手で彼女の手をぎゅっと握った。


「別れるなんて嫌よ」

「お嬢様、気をしっかり持ってください。今はつらくても、風向きが変わる日は来るかもしれません」


 千代は泣きながらも、桜和の目をしっかりと見てそう言った。

 自分より三歳も年下で、まだまだ子どもだと思っていたのに……。

 千代のほうがよほど理解力があり、順応性が高いと桜和は感心してしまう。


「煌太郎様ともまた会えますよ。お嬢様と運命で結ばれているお方ですから。希望を持ってください」


 そう言って涙を拭う千代も、実家に帰っても居場所などなく、すぐに違うお屋敷へ使用人として出されるはずだ。


「千代、今までありがとう。あなたのことは忘れない」


 心を込めて感謝を伝えると、千代はついにしゃくりあげて泣いてしまった。


 桜和は部屋に戻って荷造りを始めたものの、持ち歩けるように小さくまとめるのはむずかしかった。

 身の回りのものを、あれもこれもカバンの中に詰め込みたくなる。

 父から、出来るだけ目立たない地味な着物を着るようにと指示が出た。庶民を装う気らしい。

 気に入っていた着物やドレス、髪飾りなどは、どれも上等だが全部は持っていけない。

 

 カバンや風呂敷に荷物をぎゅうぎゅう詰めにして、桜和はなんとか支度を終えた。

 結納のときに撮った煌太郎との写真を懐紙に挟み、紫苑の押し花と共に着物の襟元へと差し込む。

 落ち着いたら、また必ず会えると信じて――――


 江蔵は使用人たちを先に家から出し、菊地家には桜和と両親の三人になった。

 事業に失敗した代償として、先祖から受け継いだ土地や家屋を手放さなければならない。ついにそのときが来た。

 夜逃げのようなまねまでしなければいけなくなったのは自分のせいだと、江蔵は自分自身を責めていた。


「すまないな、目立つから馬は使えない」


 江蔵は所有している馬車も置いていくつもりのようだ。


「千葉に遠縁の親戚がいる。そこを頼ろうと思う」


 受け入れてもらえるかはわからないが、そうするしかないらしい。

 桜和と母はうなずき、朝日が昇りきったころに三人は住み慣れた菊地家を出た。


 朝早いので大通りは誰も歩いておらず、人目を避ける心配はなかった。

 これ幸いとばかりに、荷物を抱えて足早に街をあとにする。


 千葉へと続く街道をただひたすら歩く。

 太陽が真上に昇るころには三人とも疲労困憊になり、ついに両親は道端で座り込んでしまった。


「少し休憩しましょ。向こうに沢があったから水を汲んできます。待っていて」


 疲れている両親をその場に残し、桜和は清らかな水が流れる沢のほうへ向かった。

 もぬけの殻になっている菊地家のうわさが、そろそろ煌太郎の耳にも入ったころだろうか。

 沢の水を汲みながらも、自然と頭に思い描くのは煌太郎の綺麗な笑顔。

 このまま一生会えないなんて嫌だ、いつか必ず会いにいくと、このとき桜和は強く思った。

 そっと胸元に手を当てる。大丈夫、さみしくなったらこの写真と押し花を見よう。


 水を入れた水筒を持ち、両親が待つ場所まで戻ろうとして街道を横切ったときだった。

 疾風のごとく勢いよく駆けてくる二頭の馬が桜和の視界に入った。どうやらどこかの貴族の馬車らしい。

 急いでいるにしても飛ばし過ぎだなと心配した矢先、一頭の馬が暴れ出して桜和のいるほうへ突っ込んできてしまう。


「助けてー!」


 そう叫んだけれど、桜和はそのまま馬車と衝突して命を落としてしまった。

 


「気がついたか? レーナ?」


 レーナは見知らぬベッドの上でぼんやりと目を覚ました。

 傍らにはレーナの手を握って心配そうに顔を覗き込んでいるオスカーの姿があった。


「ここは……?」


 レーナが尋ねながら上半身を起こして辺りを見回す。

 頭さえぼうっとしていなければ今すぐ飛び起きていただろうと思うほど、広々とした豪華なベッドだった。

 使用人が軽々しく横になっていい場所ではない。


「フィンブル宮殿の中だ。いきなり倒れたけど大丈夫か?」

「はい」


 オスカーと花壇の前で話をしているときに、突然気を失ったことを思いだした。

 おそらく王太子である彼がここまで運んでくれたのだろうと考えたら、レーナは途端に申し訳なくなった。


「本当にすみません」

「気にしなくていい。君が無事ならそれで」

「前世の記憶が一気に流れ込んできたら、急にひどい眩暈がして……」


 小さな声で事情を話すレーナがいじらしくて、オスカーは無意識に彼女の頭をなでていた。


「思い出した?」

「……はい。前世の私は煌太郎様を心から愛していて、絶対にまた会いたいと強く願っていました」

「俺もだ。だからこうして会えたんだよ」


 オスカーの瞳が薄っすらと涙で潤んでいる。

 その表情を目にしたレーナの瞳にも一気に涙があふれ、ぽろぽろと頬を伝った。


「レーナ、俺と結婚してほしい。このフィンブル宮殿で暮らそう」

「殿下、でも……」

「ノーとは言わせない。俺は君じゃなきゃダメだ」


 オスカーがレーナの両肩に手を置き、力強く瞳を射貫く。

 身分違いなのは明らかだけれど、桜和がどれほど煌太郎を愛していたか知ってしまったレーナは、素直にうなずくしかなかった。


「今度こそ幸せになろう。桜和と煌太郎の分まで」


 また会えた。――――運命の人に。ふたりの胸にこの上ないよろこびが込み上げる。

 オスカーはレーナを抱きしめ、情熱的に何度もキスをした。



 一週間後、あらためてレーナはフィンブル宮殿に呼び出された。

 大きな窓の向こうに紫苑が植えられた花壇が見える部屋で待っていたのは、王太子のオスカーだ。


「殿下が私をお呼びだとうかがったのですが……」


 レーナは部屋の入口付近でかしこまって頭を下げていたのだが、それを見たオスカーは足早に近づいていき、彼女の手を引いて椅子に座らせた。


「ふたりきりなんだから楽にして」


 王太子と使用人では身分があまりにも違うので、普通なら気楽に接するどころか話すのもはばかられる。

 しかし、至近距離から愛に満ちた表情で言われると、レーナはうっとりとして頬を赤らめることしかできない。


「まだ正式な沙汰が下されていないんだが、俺に毒を盛った犯人がわかった」


 あれから王宮内は普段の落ち着きを取り戻しつつあったけれど、役人たちが調査を続けているのはみんな知っていた。

 口には出さないものの不安な毎日を送っていたのだ。


「誰だったのですか?」

「使用人のマリーザだ」

「え?!」


 マリーザは体調不良で休んでいた調理補助係だ。

 彼女の抜けた穴を埋めるためにレーナが調理場の片付けなどを手伝っていたのだが……。


「マリーザは療養するために、結局辞めてしまったと聞きましたけど……」

「宴の日、退職を伝えるために王宮に来ていた。お世話になったからと、忙しそうにしている調理場を少し手伝って帰ったそうだ」


 その日は何人もの使用人がバタバタ動いて仕事をしていたため、レーナはマリーザの姿に気がついていなかった。

 たしかに彼女が器やグラスに触れていても誰も変だと思わない。


「ですが……なぜ毒を」

「カネをもらって指示されたらしい。取り調べた結果、口を割った」


 実行犯はマリーザだが、さらに裏で誰かが糸を引いていたと知り、レーナは自然と苦悶に満ちた顔になった。

 彼女はそのせいで体調を崩していたのではないだろうか。本当はやりたくなくて、悩んでいたのかもしれない。


「俺のグラスに毒を仕込ませたのは、王弟のフョードルだ」

「……フョードル殿下はオスカー殿下の叔父に当たるお方ではありませんか」

「そうだな。血の繋がった叔父だ。だが、自分が王座に就くためには俺が邪魔だったらしい」


 フョードルにそんな野望があったことに驚いたレーナは、両手で口を覆いながらブルブルと震えた。

 まさか自分の甥を殺めようとするなんて、と。


「マリーザは王族の殺人未遂、フョードルは殺人教唆の罪で、王様が裁きを下される」

「もう心配いらないのですか?」

「ああ」


 オスカーがゆるい笑みを浮かべるのを見て、レーナはホッと胸をなでおろした。

 これで再び、王宮内に平和が戻ってくる。


「そうだ、レーナに見せたいものがある」


 そう言ってオスカーは立ち上がり、部屋に据え付けられているクローゼットの扉を開けた。


「これを君に」


 なにがあるのか気になってあとをついていったレーナに、オスカーは豪奢な宝石や装飾が施されたドレスを掲げて見せた。

 レーナにとって、上流貴族……いや、王族が公式の場で身に付けるようなドレスを間近で目にするのはもちろん初めてだ。


「この世界で君に必ずまた会えると信じていた。だからこのドレスを作らせておいたんだ」

「私の……ために?」

「そう。庭に咲いている紫苑の花に色が似ているだろう?」


 オスカーが感慨深げに中庭の花壇へ視線を移す。

 光沢のあるドレスの生地は、紫苑の花と本当によく似た薄紫色だった。


「これを着て、ふたりで王様にお目通りしよう。正式に結婚すると報告しに」


 自分のような身分の低い者が王太子妃に?

 そんなことはありえないと思う反面、オスカーから真剣な眼差しを向けられたら、レーナは迷うことさえ許されない気がした。

 彼が誠実なのはよく知っているから。

 前世で煌太郎だったときも、全身全霊で桜和を愛し、守ろうとしていた。


「もう二度と離れたくないんだ」


 オスカーが愛しそうにレーナの頬をなでる。


「私もです。この先は、ずっとそばにいます」


 レーナをぎゅっと抱きしめたオスカーは、コツンと額を合わせて微笑む。

 やっと手に入れた幸せを噛みしめていた。


「ありがとう、レーナ。心から愛している」


 互いに溢れんばかりの恋情を捧げるように、ふたりは深い口づけを交わした。


 この先どんなことがあっても、ふたりなら乗り越えていけるだろう。

 秋麗(あきうらら)に咲く紫苑と共に。



――――END.


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