9話 カメラマンとして
春も終わりが近づき、少し汗ばむ気候が訪れる。世間は大型連休が始まって浮かれているけれど、今日は記念すべき初撮影の日。浮かれるのはまだ早いのだ。
撮影の事が心配で昨日はなかなか寝付けなかったけれど、陸上の動画を見てイメージもしたし、今はなんとかなりそうな気がしている。
「よし、そろそろ出るか」
いつもより重いリュックを背負い玄関に降りると、妹の莉子がパジャマ姿であくびをしながらうろついていた。
「ふぁー、お兄ちゃん今日も仕事なの?」
「ああ、陸上の大会あるから、その撮影」
「連休なのに可愛そー。頑張ってねー。あ、お土産よろしくー」
自分で聞いておいて、莉子は興味なさげに手を振って部屋に戻っていった。
「適当言いやがって。土産なんてねぇよ」
呑気な妹に少しイラっとしたが、靴ひもを固く結び直して再び気合いを入れた。
電車で1時間ほどの競技場で現地集合だけど、横川さんが気にかけてくれて、駅で待ち合わせることになっている。
「すみません、お待たせしましたか?」
駅に着くと横川さんは先に待ち合わせの場所に着いていた。
「いいよー。僕も少し前に着いたとこ。そんじゃ、行こうか」
「はい!」
競技場までのバスの中、スマホを見ると那緒からのチャットが届いていた。
『撮影頑張れよ』
たった一言だけだったけど、なぜかそれで肩の力が抜けたような、リラックスした気分になれた。
スマホを見てニヤついていると、横川さんが隣でつり革を両手で持ったまま器用に体を傾けて覗き込む。
「なに笑ってんのー、彼女?」
「ち、違いますよ。友達です、友達」
慌てて否定しても、横川さんは変わらずニヤついていた。
「慌ててるところがまた怪しいねぇ」
「もう、やめてくださいって」
「いいじゃない、若いんだから楽しまないとさー」
横川さんはそれからもしつこく聞き出そうとして、隙あらばそう言う話題に持っていこうとする。正直友達と言ったものの、友達にすらなれているのかわからない。
那緒の気持ちはわからないし、俺の事、思い出してすらないのかもしれない。それでも、最初に会った時よりは心を開いてくれている感じはある。あいつの態度や言葉に、嘘があるとは思えないから。横川さんの質問をのらりくらりかわしながら、そんな事をぼんやりと考えていた。
競技場に着くと、すでに各校の選手たちが集まり、ミーティングやウォーミングアップを行っていた。いつものように機材を運んだりアシスタント業務をしていると、リーダーの鈴原さんに肩を叩かれる。
「天宮くん、今日はカメラマンなんだから。ほら、一緒に最終確認やるよ」
「あ、はい! すみません、つい癖で」
鈴原さんに促されて、急いで撮影チームのミーティングに加わる。
「じゃあ、金田さんたちはゴール前で撮影。場所取りは横川くんと天宮くんで。では、男子100mが始まり次第、撮影よろしくお願いします」
「はい!」
いよいよ始まる撮影に、また緊張が顔を覗かせる。期待と不安から、何度もカメラのチェックを行っていると、横川さんにからかう様に話しかけられた。
「天宮くん天宮くん、レンズキャップ、忘れないでよー」
「な、またそんな振りみたいな事を!? だ、大丈夫ですって!」
「そう? 期待してたのに……」
いったい何を期待しているんだ。面倒見の良い先輩には変わり無いけど、どこまで冗談なのかわからない時がある。
「新島、初試合だが緊張せず、いつも通りやれよ。普段の実力を出せば、決勝まで行ける可能性は十分にあるからな」
「はい!」
場所取りをしていると、ちょうど撮影対象の選手が準備をしていた。
(この子もデビュー戦か、緊張する気持ちはわかるなー)
1年生の選手に妙に親近感を覚えて、心の中で密かに応援する事に決めた。
各校の選手が出揃い、いよいよ男子100Mの予選が始まった。スタートの合図と同時に駆け出す選手たちは、気迫ある走りで会場を沸かせる。
予想してはいたが、あまりのスピードに思うようにシャッターが切れない。
「天宮くん、ゴールの10M前くらいで連写したら良い具合だよ。ほら、あの辺りとか」
「は、はい。ありがとうございます」
手こずっているのを察してくれたのか、横川さんがポイントを教えてくれた。本当に、横川さんのこういう所は素直に尊敬できる。
アドバイスされたポイントでシャッターを切っていくと、やっとタイミングが合うようになってきた。
撮影を繰り返し、少し現場に慣れてきた頃、例の1年の選手のレースが始まる。この新島という選手は、順調に予選を勝ち抜いて決勝に進んでいた。予選では緊張した様子はなかったけれど、今は表情が曇っているように見える。
(頑張れ……)
心の中で応援し、カメラを握る手に汗が滲む。
スタートは遅れること無く2番手に着いている。このまま行けば優勝もあるんじゃ、そう思った瞬間、あと十数メートルの所で急に足がもつれたのか、新島選手は激しく転倒した。目の前で起きた悲劇に考える間もなく体は動いて、撮影を投げ出して選手にかけよる。
「ちょ、天宮くん!?」
後ろで横川さんの呼ぶ声が聞こえたけれど、どうしても放っておけなかった。
「大丈夫!? 立てるか?」
「は、はい。すみません」
肩を貸して、ようやく歩ける状態の新島選手を介抱していると、ちょうどコーチや他の選手が駆け寄ってくる。
「新島! 大丈夫か!? すみません、ご迷惑お掛けしまして。あとは、代わります!」
「い、いえ、大丈夫です。お願いします」
選手はコーチたちに抱えられて戻っていった。安心してホッと一息ついて撮影場所に戻ると、フォトグラファーの金田さんはじめ横川さんたちが呆れた顔でこっちをみていた。
(はぁ、やっぱり、まずかった、よな……)
「申し訳ありませんでした……」
撮影終了後、鈴原さんに呼ばれて、撮影を台無しにした事に深く頭を下げた。
「……反省してるんなら、これ以上言うことは無いんだけど。天宮くんはあの時、どうして助けようと思ったの?」
「え、あの……放って置けないって思って」
「僕たちは瞬間を切り取る仕事なんだ。例え目の前で悲劇が起こっても、シャッターを押さなきゃならない。その時しか見れない表情や決定的瞬間を、残して、伝えなきゃならないからね。それは当然、嬉しい瞬間ばかりじゃない。仕事中は、その事をよく心にとどめておいて」
「……はい」
「僕は、これからも天宮くんには頑張って欲しいと思ってるから。今日はお疲れさま。また次回もよろしくね」
厳しい顔だった鈴原さんは、またいつもの柔らかい表情で優しい言葉をかけてくれた。それでもまだ、自分が情けなくて、悔しい思いは無くならなかった。
「お説教終わった?」
「……横川さん、待っててくれたんですか?」
競技場を出ると、横川さんが入り口の隅の方で座り込んで待っていた。また面白がっているのかと思ったけど、いつもと違って真面目な顔をしている。
「まぁね。どんな顔してるか見てやろうと思って。どう? 反省した?」
「本当に、すみませんでした……俺、全然プロ意識が足りてなくて」
情けなくうつむいたままでいると、下からぬっと横川さんが顔を覗かせる。
「うわっ、な、なんですか……」
「落ち込んでる顔が見たかったけど、必要以上に考え込まなくていいよ。最初から出きるヤツなんてそうはいないし、場数を踏まなきゃね」
「横川さん……ありがとう、ございます」
「それに、カメラマンとしては間違ったかもしれないけど。あの時の選手は、救われたんじゃない?」
ぼそっとかけられた言葉に、よくわからない感情が込み上げて、見つめた地面が涙でユラユラと歪んで見えた。
家に帰ってからも、今日の事が何度も頭を巡る。
あの時、考える間もなく飛び出してしまっていた。自分がカメラマンであることを意識していなかったんだ。原因は明確なのに、次も同じように動いてしまったらと思うと、不安な気持ちがなくならない。
結局、那緒にも返事を返せていないままだ。声が聞きたいのに、情けない自分を見せるのが怖い。
体を動かす気力も湧かず、ただベッドにうつ伏せになったまま、体が固まったみたいに動けずにいた。