24話 満ちる心、広がる雲
「煌太、忘れ物ない? パスポート、ちゃんと持った? あぁ! あんた、ちゃんと更新してるでしょうね!?」
「もー、うるさいよ。こんな直前で更新してないわけないだろー」
早朝から、母さんは玄関口で口うるさく慌てている。自分が行くわけじゃないのに、俺よりもそわそわと落ち着きがなかった。
「だってぇ、心配じゃない……パスポート、失くさないようにね」
「どんだけパスポートの心配するの!? 逆になんかやらかしそうだよ!」
「あれ? お兄ちゃんまだいたの? 早く出ないと遅れるよー。あ、お土産ヨロシク!」
ふらっとトイレから出てきた莉子は、興味無さげにあくびをこぼして部屋に戻っていった。
莉子……お前は、ぶれない奴だよ。
「はぁ、じゃあ行ってきます……」
ため息混じりにスーツケースを引いて玄関のドアを開けると、母さんがまた大きな声で呼び止める。
「煌太!」
「もー、今度は何!?」
「……しっかり頑張りなさいよ」
振り返ると、母さんは笑って手を振っていた。
「うん、行ってきます!」
やっと、那緒に会える。
この日をどれだけ待ち望んだことだろう。
1月の空気はひんやりとして体の芯まで凍えそうな程なのに、やけに気持ちが昂って、今日はほとんど寒さを感じない。
全然慌てるような時間じゃないのに、思わず走り出してしまいそうな程、俺の心は踊っていた。
――――ハーフパイプ世界大会 当日
もっと緊張するかと思っていた。
久しぶりの大会の空気感の中、待機エリアでストレッチをして体をほぐす。
周りも意外とピリピリはしておらず、リラックスするために選手たちは各々好きなことをして過ごしていた。
「緊張してんの?」
ジェームスがニヤニヤと意味ありげに笑い、見下すように上から話しかける。
「……人の心配なんかして、余裕だね」
「ふふ、療養明けでまた怪我しないか心配でさー。しっかり柔軟しときなよ?」
「はぁ、嫌味な奴だな」
ジェームスとは相変わらず仲は良くない。
でもここまで正直に嫌味をぶつけてくる奴ってのも新鮮で、逆にこっちも遠慮せずに文句を言えるのは楽で良い。
ま、ムカつく奴なのは変わりないけど。
「そっちこそ、滑走順早いんだからちゃんと準備しとけよ」
「生意気……俺よりチビのくせに」
「はぁ!? おま、背の事はイジんなって」
イラッとして言い返すと、ジェームスは子供みたいに舌を出して離れていった。
「何しに来たんだよ、あいつ」
もしかして、俺をムカつかせる作戦だったとか? 一番気にしてる身長の事をいじってくるなんて、やるな、ジェームス。
ジェームスの煽りスキルの高さに感心しつつ柔軟を再開すると、不意にポケットの中のスマホが震えた。
一件のチャットの通知。それを見た瞬間、体の熱が一気に上昇していく。
俺は人目も気にせず、バタバタと急いで外に出た。
「……なに慌ててんだ? あいつ」
――――
『今、会場にいるんだけど、少しだけ会える? 休憩スペース、かな? そこで待ってる』
少し走っただけなのに、息が切れる。
興奮して、息の仕方もわからなくなりそうだった。
煌太……煌太に会える!
チャットを見た瞬間、心臓がとび跳ねるみたいに嬉しかった。
煌太には、あれから一度も連絡はしていない。会場に来る前に連絡しようと思ったけれど、今さらなんて言えばいいのかもわからなくて、結局文字を打っては消してを繰り返しただけ。
会場に来ているのは知ってる。でも、煌太も仕事で来ているし、正直会えないかもって思っていた。
でも、やっと……会えるんだ
休憩スペースって確か……ここを曲がって……
「あ! 那緒、こっち!」
聞き覚えのある元気な声。その声のする方を見ると、太陽みたいに眩しく笑う、あいつがいた。
「……煌太!」
さらりとした黒い髪、目を細めて笑う、いつもと変わらない優しい表情。
どれも全部知っているのに、まるで一目惚れでもしたみたいに、ドキドキと鼓動が早くなる。
そのせいなのか、名前を呼んだだけで呆然として、次の言葉が出てこなかった。
あんなに一緒にいたのに、何も言わずに勝手にアメリカに行ったような奴なんだ。そんな俺が今更、どんな顔をすればいい?
俯いたまま立ち尽くしていると、煌太は駆け寄って、ふわりと包み込むように俺を抱き締めた。
「え……ちょ、ちょっと」
「……大会前だから、落ち着くおまじない」
耳元で優しく響く声。前も、こんな風に不安な俺を抱き締めて、落ち着くように心臓の音を聞かせてくれた。
そっか、俺がまた緊張してると思って……
しばらく黙っていた煌太は、突然「ふふ」っと小さく笑う。
「ごめん、嘘……本当は、ただこうしたかっただけ」
「え……」
「ずっと、会いたかった……またこうして、那緒に触れられるなんて……ほんと、夢みたいに嬉しい」
噛み締めるように話す煌太の声は、少し震えていて、ぎゅっと胸の奥が締め付けられるように痛くなった。
「ごめん……俺、どうしても言えなくて……煌太に頼って、甘えちゃうから……自分一人で、頑張らないとって、思って……」
涙で言葉がうまく出てこなくて、ただ強く煌太の体にしがみついた。
「……はぁ、どうしてそんな風に思っちゃうの?」
「ご、ごめん!」
泣きながら煌太の顔を見上げたら、あいつは困ったような顔で笑って、俺の流した涙をそっと指で拭った。
「これ以上泣いちゃダメ。インタビュー受ける時、笑われちゃうよ?」
「うぅ、うん……こ、煌太も、ちょっと、泣いてるじゃん」
「へへ、バレたか」
「ぷっ……はは」
顔を見合わせると、急に照れ臭くなった。
泣いたり笑ったり、煌太といると、いつも自分じゃないみたいに、感情が揺さぶられる。
「……まだ、時間大丈夫? 少し話したい」
「うん、大丈夫」
予選の開始時間まで、まだしばらくある。休憩スペースのテーブル席に、二人で腰を降ろした。
「煌太、仕事はいいの?」
「うん、ちょっと時間が出来たから、色々見てきていいよって、先輩が」
「そっか。どお? 色々見て回れた?」
「まだ、少しだけ。あ、さっき見た事ある選手もいたよ? 確か、オリンピックでメダルとってた人でさ!」
「まさか、サインなんて頼んでないだろーな」
「し、しないよ! あ、でも……写真くらいなら」
「いや無理だろ。写真なら、俺が撮ってやるから、それで我慢な」
「ぶー。そんなの、いつでも撮れるじゃん!」
「なっ!? 大会前のレアなシチュエーションだろ?」
「ぷ、自分で言うなって」
何気ないとぼけたような会話も、煌太とならすごく楽しい。
でもお互い、いつもよりわざとらしいような、あえて核心を避けているような、そんな空気だった。
それを示すように、突然言葉は途切れて、しばらくの沈黙が流れた。
「あの、さ」
「ん?」
煌太は俯いたまま、何か考えているようだった。
「俺……那緒のこと」
心臓が口から出そうなほど、なぜか動悸が激しくなっていく。
「……お、応援、してる! 離れていても、一番近くで。ずっと見守ってるから!」
「ぷっ……くく」
「な、なんで笑うんだよ?」
「別に、なんでもない……ありがとう、煌太」
笑い返すと、煌太は顔を赤くして頷いた。
いったい何を期待していたんだろう。久しぶりに会って、気持ちが舞い上がっていたのかな。
ただ今は、こうして会えただけで十分すぎるほど、満たされた気持ちだった。
「そ、そういえばさ、ライアンもこっちに来てるのかな?」
「ライアンは……わからない。あれから、連絡も来ないし、とってないんだ」
「そっか」
あんな別れ方をしたけれど、ライアンには今日の滑りを見て、認めてもらいたかった。
こんな風に思うのは、俺のわがままなのかもな。
「でも……きっとライアンは見に来るんじゃないかな」
「え?」
「兄弟みたいに、仲が良かったんだろ? そんな簡単に、離れるなんて出来ないよ」
「でもっ、ライアンからスノボを奪ったのは、俺だし……本当は俺のこと、恨んでる、のかも」
「那緒……暗く考えちゃだめ。前に進むって、決めたんだろ?」
「……うん。そうだな」
「ふふ、そうそう。って、俺がライアンの話したからじゃん! ごめん!」
煌太は慌てて手を合わせて謝った。
優しい顔に、焦った顔。ころころ変わる表情に、おかしくなって思わず笑いが込み上げた。
「大丈夫だよ。俺は、自分のやれることをするから」
「……うん。信じてる」
煌太は優しく笑って、右手を挙げる。
「あぁ、まかせろ」
手を合わせると、バシッと心地の良い音が響いた。
信じて応援してくれる煌太と、俺にスノボを教えてくれたライアンのためにも、今出来る精一杯の滑りを魅せるんだ。
――この時俺は、ジェームスがこの場にいたなんて、気づきもしなかった。
「ライアンからスノボを奪った?……あいつが」
――――ハーフパイプ世界大会 予選
「那緒くん、普段の調子で行けば、絶対に大丈夫だからね」
「はい!」
気合いを入れるようにコーチに背中を叩かれ、予選の第一Runが始まる。
目も眩むよな晴天。ゴーグルをはめると一転、セピアがかったような落ち着いた世界が広がった。
やろう。俺自身のスタイルを見せつけるんだ。
――――
『白瀬選手、86,25の高得点で一回目を終えました!』
点数が出た瞬間、観客の歓声はさらに大きくなる。
平常心を保てなくなりそうな中、俺は夢中でシャッターを切った。
技の名前なんかはわからなかったけれど、那緒はどの選手よりも高く飛んでいて、技の流れも自然で、完成された滑りに見えた。
やっぱり、那緒は凄い!
「白瀬くん凄いね。このまま行けば、優勝も十分考えられるよ」
「はい!」
鈴原さんも圧倒されたように感心している。
このままの勢いで、頑張って、那緒!
――――
一回目が終わり、控えで待機していると、同じくRunを終えたジェームスが戻ってきた。
「お疲れさま」
声をかけると、ジェームスはなぜか不機嫌そうな表情で睨み付ける。
「……な、なんだよ」
「お前のせいで、ライアンは引退したのか?」
いつものふざけた嫌味じゃない。完全な敵意の現れた、暗い声だった。
「さっき休憩スペースで話してるのを聞いたんだ……黙ってるって事は、事実でいいんだな?」
「……あ、あれは、俺が未熟だったから、起きた事故で」
「関係ない。一人の天才の未来を奪った。その事実は変わらないよ」
何も言い返せない。
寒いのに、嫌な汗が頬を伝っていった。
「こんなことしておいて、まだスノボを続けてるなんて、神経疑うな……やっぱりお前、嫌いだよ」
捨て台詞のように言うと、ジェームスはその場を去った。
俺が嫌われて、批判されるのは仕方ない。
でも、事故の事実が漏れて、これ以上ライアンに迷惑を掛けるなんてダメだ。
概ねあいつの言った事は事実なのに、これ以上ジェームスにどう弁解すればいいんだろう。
どうしようも無いことが、ぐるぐると頭を巡っていく。
やっぱり俺は、ここに戻るべきじゃ、なかったのかな。
その考えに辿り着くと、目の前から一気に色が無くなっていくみたいな、絶望が広がっていった。




