1話 雪の妖精
身も凍るような寒さと、一面の雪景色。そこで出会った、まるで澄み渡る青空のような髪色の少女。
十年経った今でも忘れることは出来ず、はっきりと脳内にこびりついている。
俺はきっと、彼女を一目見た瞬間から、その妖精の様な姿に、恋に落ちていたんだ。
「スッゲー! あっちもこっちも、全部真っ白じゃん! めっちゃ寒いよ父ちゃん!」
「うわっ、ほんとに絶景だな! あ、コラ煌太、走ったら危ないぞぉ」
「だって、こんな景色、見たことないもん! 俺、あっちで滑ってくるー」
「ま、はしゃぐ気持ちもわかるけど……あんまり遠くに行ったらだめだからな!」
「わかってるー」
「父さん達はこの辺で莉子と遊んでるから、お昼までには戻ってこいよー」
「はいはーい!」
12歳の冬休み、俺は中学進学の記念に、家族でカナダに旅行に来ていた。なぜカナダに来たかと言うと、父の趣味のせいと言わざる終えない。
父は若い頃からスノーボードが趣味で、幼い俺にも教えようとしていたのだが、寒いから嫌だと散々駄々をこねてやった。のらりくらりと断り続けて、どうにか寒い雪山を回避していた。
しかし今回ばかりは、父の日頃の努力と強い希望で、冬休みのカナダ旅行が遂に実現したのだ。
初めての海外にテンションも上がっていた俺は、見たこともない一面の雪景色に、寒さの事など気にせずに走り出していた。
慣れないブーツを履き、夢中でゲレンデを駆け抜け、休憩所から少し離れたなだらかな坂の上に立つ。
俺は早速教えてもらった通りにボードを装着する。教えてもらった時には感じなかったが、両足が1本の板に固定されて自由がきかない感覚に、少し恐怖心が煽られた。
「うわ、動きにく! えっと、確かこうやって……」
教わった通りに両膝を軽く曲げると、ボードは少しずつ斜面を滑り始める。
「おぉー、ほんとに滑った!」
順調に滑り出していたが、ふと周りの景色に気をとられて膝が伸びてしまった。その瞬間にバランスを崩して倒れた俺は、そのままゴロゴロと坂を下っていった。
「ひょわぁぁぁー!」
間抜けな叫び声を上げながら転がるように滑っていた体は、ようやく終点にたどり着く。
「あっはははは! めっちゃ楽しい! もっかい滑ろー」
ふわふわな雪の上なのに、転がるとやっぱり身体中が痛い。しかしそれよりも楽しさの方が勝っていた俺は、何度も坂を駆け上がり、失敗を繰り返しながらも滑り続けた。
滑り出して小一時間が経った頃、何度目かの転倒で雪の上にうつ伏せで倒れていると、不意に鳥の囀りのような笑い声が聞こえてくる。
「ふふふふふ……あっはははは!」
思わず顔を上げると、白い景色にボヤけた視界で、同じくらいの子供が腹を抱えて笑っているのが見えた。
「ふふふっ……いくらなんでも転びすぎじゃない? キミさ、もしかして雪だるまになりたいの?」
笑いを堪えながら言った後、その子はスッとゴーグルをおでこに上げた。
真ん丸で薄茶色の瞳に、肩まで伸びた空色の髪。それがチラチラと舞う雪と陽の光に照らされ、キラキラと輝く。
その光景に見惚れていた俺は、バカにされているにも関わらず、怒ることも出来ずに口を開けたまま呆けていた。
「ん? おーい、聞こえてるー?」
「……あ、うん」
「キミ、日本人でしょ。旅行できたの?」
「うん、家族旅行。春から中学行くから、その記念に……キミも、旅行なの?」
「ううん、父さんの仕事の都合で、こっちに住んでるんだ。ところでキミ、スノボ、初めてでしょ? 教えてあげよっか?」
「え?」
そう言うと、その子は手に持っていたボードを装着し、滑らかな動きで進んでいく。そばにあったジャンプ台の近くまで行くと、こっちを向いてニヤリと笑った。
「見てて」
挑戦的な笑みを浮かべ、ゴーグルをつけ直す。
そして、勢い良く滑り出すと、低い姿勢でジャンプ台から鳥のように舞い上がった。
――ジャッ!
踏み切る瞬間の雪の音、ボードを手で掴んで舞う迫力のある光景に、俺はまた口を開けたまま固まってしまった。
「どう? スゲーだろ?」
ジャンプを終え、滑りながら戻ってきたその子は、ゴーグルを外して自慢気に笑う。
「スッゲーー!! ね、今のなになに!? ボード持って、ぐいーんってなるの! どうやったらそんな飛べるの? めっちゃカッケー!」
興奮の冷めない俺は、その子にグッと近付き、鼻息荒く質問責めにした。
「うわっ、顔近いってば……」
するとその子は、あからさまに嫌そうな顔をしながら、ドン引きしたように後ずさる。
「ご、ごめん! つい、興奮しちゃって……」
恥ずかしくなりポリポリと頬を掻くと、またクスクスと小さな笑い声が聞こえる。
「ははっ、別に謝らなくていいよ。今のはエアーって言って……まぁ、見たまんま、ジャンプの事だよ」
「エアー……」
「まぁ、いきなりは出来ないけど、滑れるようには教えてあげる。さ、おいでよ!」
「う、うん!」
手を引かれた俺は、その子にスノボの乗り方を教わった。ほんの少しの時間だったが、どうにか転ばずに滑れるようになった。
「いい感じじゃん! これでもう雪だるまになることはないよ」
「へへーん。なぁ、これで俺もエアー出来る?」
「ばーか、調子乗りすぎ」
「ふがっ」
身の程知らずの発言にムカッとしたようで、その子は俺の鼻を摘まみあげる。
「あっ、そろそろ戻らなきゃ! じゃあねー、雪だるまー」
その子は急に何かを思い出したようで、慌てて別れを告げて滑り出す。
「あ、あの! 名前は!?」
俺は必死になって名前を聞いた。
「あ? あー、なお! 白瀬那緒ー!」
「なお……お、俺っ、こうた! 天宮煌太ー! 那緒ー、またなー!」
名前を聞いただけで嬉しくなって、那緒に向かって笑顔で手を振り続けた。
「おう! またなー、煌太ー!」
那緒も手を振り返すと、ボードは雪の上に滑らかな曲線を描きながら滑っていく。
時々遊ぶようにボードを弾ませる姿が、まるで妖精が舞っているように見えて、俺は無意識に両手でカメラの枠を作り、その後ろ姿が見えなくなるまで見つめ続けた。
休憩所に戻った後、家族で昼食をとりながら、俺は興奮気味に那緒の事を父に話した。
「ねぇ父ちゃん、今日めっちゃスノボ上手い子に会ってさ、滑り方教えてもらったんだ! 俺と同じくらいの女の子なんだけどさ、ジャってジャンプして、とにかく凄かったんだよ!」
「へぇー! もしかしたら、凄い選手かもしれないぞ。今は違うかもしれないが、将来プロになってるかもな!」
「お兄ちゃん、友達できたの?」
莉子はカレーを頬に付けたまま嬉しそうに話す。
「友達……うん! 俺、また会いたい!」
「ふふ、すっかり那緒ちゃんの事気に入っちゃったのね。明日まではここにいるし、もしかしたら明日も会えるかもしれないわね」
「うん!」
母の言葉に嬉しくなって、俺はバクバクとカレーを頬張った。ちょっと口は悪くて、悪戯で、優しい少女にまた会えたら……なんて、そんなロマンチックな事を考えていた。
しかし、残念ながら母の言葉通りにはいかず、初めての海外旅行は終わってしまった。
帰国してからもずっと、那緒の事が頭の片隅から離れる事は無かった。
カナダで出会った名前だけしか知らない女の子と再び出会うことなど、万が一にもあるとは思えない。
時間が経てば忘れるのだろうか……そんな事を考えながら日々をやり過ごし、気がつけばもう10年の時が経とうとしていた。
「ふぁー……兄ちゃんおはよー」
「おはよ、莉子。まだ春休みなのに、早いな」
妹の莉子は5つ離れていて、この春休みが終わると高3になる。まだまだ子供っぽくてお兄ちゃん子だが、将来の事はちゃんと考えているのか、心配になる年頃だ。
「へへーん、今日は友達とUSランドに遊び行くんだー」
「そっか、前に言ってたな」
「うん。兄ちゃんにもお土産買っ来てあげるよ、就職祝に! 仕事、今日からでしょ? 緊張して空回りしないようにねー」
「一言余計なんだよ……まぁ、ありがとな」
朝食のトーストにかじりつき、ふとテレビに目をやると、あるスポーツニュースが飛び込んでくる。
――スノーボードハーフパイプ世界選手権、銀メダルの白瀬那緒選手(23)に独占インタビュー! イケメンプロボーダーの素顔は!?――
その瞬間、俺は時が止まったように凍りつき、かじりついたパンがぼろりと口からこぼれ落ちた。
「うわ、汚なっ! 兄ちゃん、こぼれてるよ……兄ちゃん? おーい聞いてるー?」
テレビを見たまま固まる顔の前で、莉子はヒラヒラと手を振る。
「はっ!」
「あ、気がついた……」
ようやく我に返る事が出来たが、衝撃的な事実に、煌太の頭は混乱を極めていた。
「い、イケメン?……なぁ莉子、イケメン……イケメンってことは、男ってことか!?」
「はぁ? そんなの当たり前じゃん。何言ってんの?」
「お、男……白瀬那緒って、那緒!? イケメンって……男なのぉぉぉ!?」
急に突きつけられた予想外の事実に、初の出勤前だと言うのに煌太は大混乱し、気絶寸前の状態だった。
まさか、初恋の少女が男だったなんて……宝物の様なカナダ旅行の思い出が、煌太の心の中でボロボロと音をたてて崩れていった。
「もぅ、さっきからうるさいんだけど。あ、もう出る時間じゃないの?」
引いている莉子の言葉で時計を見ると、家を出る時間を過ぎていた。
「やべぇ! い、行ってくる!」
俺は混乱したまま、出勤の準備をし、慌てて家を飛び出た。
「はぁ、まったく。大丈夫かねぇ……」