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0063 - 第 1 巻 - 第 4 章 - 5


 戦闘の痕が生々しい地面には、9体ものフェロジヒェーネの亡骸が無造作に転がり、辺り一面が血の海と化していた。鼻を突く強烈な血の臭気と獣の獣臭さに、萌花と詩織は思わず吐き気を覚える。


 「……悠樹っ!!!」


 悠樹の姿は無残そのものだった。


 全身は血まみれ、顔や唇は青白く変色し、服もズボンもボロボロに引き裂かれている。手足には無数の咬傷が開き、皮と肉が剥ぎ取られるように裂けている箇所も。中でも最悪だったのは左右の腹部で、肉がえぐられ内臓がのぞき、それら自体にも圧迫と牙による貫通傷が刻まれていた。


 もしアンジェリナとランラの救援があと数十秒でも遅れていたら、悠樹の腹部は完全に引き裂かれ、肉や内臓も食い散らされていたことだろう。


 「悠樹っ!!!」


 萌花は張り裂けんばかりの思いで地面に手を突き、悠樹の傍へとすがり込むように座り、再び彼の名を呼んだ。だがそれでも、悠樹の返事がない。虚空を見つめていた彼の瞳が、ゆっくりと萌花の方へ向けられただけだった。


 もはや彼には、返事をする力さえ残されていない。


 大量出血により、悠樹の体は最後の自己防衛機構を作動させていた。


 血液は酸素や生命維持に不可欠な物質を運ぶ媒体であるため、その喪失は全身の酸欠を意味する。


 悠樹の体はより多くの酸素を取り込もうと口を開け、鼻と共に荒く浅い呼吸を繰り返す。さらに血液循環を加速させ低下した血圧を補おうと心臓は激しく鼓動し、重要臓器への血流を優先するため四肢への循環はさらに制限され、手足は異様に冷たくなっていた。


 瞳孔は開き、意識はぼんやりと霞んでいる。彼の視界では周囲の色彩が褪せ、全てが単調に見えた。耳の奥で甲高い耳鳴りが響き、周囲の音は歪んで聞こえ、世界と自分との間に分厚い膜が張り巡らされたかのよう。


 彼は瀕死の状態にあり、いつショック状態に陥ってもおかしくない。


 「魔法使いの嬢ちゃん、早く治療しな! 傷が深い、ぐずぐずしてると手遅れになる!」


 『魔法』という言葉に萌花も我に返り、あわてて詩織に声をかける。


 「そうだ……っ! 魔法! 早く魔法で悠樹を治してッ!!」


 「っ…………!」


 ランラと萌花の焦る声に対し、詩織は何も答えなかった。普段なら即座に返す「はい!」の一言さえ、今は唇から零れない。


 悠樹を必ず救いきれるという確信が、彼女には持ち得なかったからだ。


 けれど、ただ茫然としていたわけではない。


 チームで唯一の癒し手として、悠樹が倒れフェロジヒェーネに囲まれる光景を目にした瞬間、彼を救えるのは自分しかいないと理解した。そのため、彼女は何とかして気持ちを落ち着け、なすべきことを必死に考えていた。


 悠樹の元に駆けつけながらすぐに魔法を唱えなかったのは、一度冷静さを取り戻し、精神を集中させる必要があったからである。


 この世界における『魔法』とは、魔法使いが自己暗示により自身の魔力と自然界の魔素を共鳴させ、現象を引き起こすものである。ただ単に呪文を唱えるだけでは何も起こらず、意味を成さない。


 そして自己暗示を成功させるには、強い集中力が必要である。


 詩織は一度目を閉じ、数秒かけて心を落ち着けると、再び瞼を開く。彼女は悠樹の右側に正座し、右手で杖の水晶玉近くを握り、その水晶玉を悠樹の腹部に向けて、詠唱を始めた。



いと慈悲深き水の女神アクア様  どうかその慈愛溢れる抱擁にて  この傷つけられし者に心身の安らぎを ——「ハイヒール」



 詩織の詠唱と共に杖の青水晶が柔らかに輝き始め、その前方に直径50センチほどの青い魔法陣が浮かび上がった。


 「…………」


 そして彼女は無言で左手を伸ばし、悠樹の腹部から引きちぎられた肉に触れ、それをそっと元の位置に戻す。すると、裂けた肉同士の傷口がみるみるうちに塞がっていった。


 「わ…わたしっ、牛車を連れてきます! アンジェリナ!」


 「アリスちゃん一人でか?」


 「ダニエルさんはここに残ってて! わたしたちは2人だから大丈夫!」


 そう言って、アリスとアンジェリナは牛車のある方向へと駆け出した。


 悠樹の右腹部の傷がほぼ癒えたのを確認すると、詩織は立ち上がり、魔法を途切れさせることなく左側に移動して同様の処置を施した。


 続いて右腕、右脚、左脚、そして他の傷口へと治療を進めていく。


 悠樹の右腕は咬まれた影響で骨折していた。元々同年代より筋肉量の少ない悠樹は、フェロジヒェーネの強力な顎の力に耐えられず、骨折は免れなかった。治療には時間がかかるものの、幸い骨折の程度は軽く、詩織のこの魔法で修復できる。


 数分後、悠樹の傷口はすべて塞がった。新しく再生した皮膚は色が淡く、無数の傷痕が斑のように残っている。


 その頃、アリスとアンジェリナが牛車を牽引して戻ってきた。


 「…………これが、私にできる精一杯の処置です……猫森さん、私のことが分かりますか?」


 詩織がようやく口を開くと、同時に魔法陣の光が消えた。


 「悠樹は助かったのっ?! ありがとう! 詩織ちゃん!」


 「…………」


 萌花は涙を浮かべながら喜びの声を上げるが、詩織は再び沈黙した。


 傷は癒えたにもかかわらず、他の者たちの表情が依然として硬いことに、萌花はまだ気づいていない。


 彼女はさらに顔を悠樹に近づけて、容態を聞く。


 「悠樹、大丈夫? 私のこと、分かる? まだ痛い?」


 詩織は左手に付いた悠樹の血を見つめ、無意識に杖を握る右手に力をこめた。彼女もまた、悠樹の状態が気が気でなかった。


 悠樹の状態は少しだけ落ち着いたものの、顔色は相変わらず青白い。彼はゆっくりと体を起こし、ゆっくりと周囲を確認した。そして咬まれた箇所に触って、そのまま体を抱きかかえるように少し体を丸める。


 「……萌花……さむい……」


 「え? どうしてっ……」


 萌花は後ろから悠樹を抱きしめて温めようとしたが、手を伸ばした瞬間、自分の手が血で汚れていることに気づく。悠樹のそばに駆け寄った時、地面に手をついた際に付着した血だった。


 彼女は、何かに気づいたようだ。


 「……ねえ、詩織ちゃん。『ヒール』って、失われた血も補えるんだよね?」


 萌花の声からは先ほどの喜びは完全に消え失せ、代わりに虚ろな響きが滲んでいた。


 「っ………………」


 詩織は答えなかった。


 そこで、アリスが一本の薬瓶のコルクを抜いた。彼女が牛車を引きながら戻る途中、荷台から取り出しておいたものだ。


 「これを飲んでください。『最上級ポーション』です……」


 悠樹はゆっくりとアリスから薬瓶を受け取り、飲んだ。


 アリスは言葉を選ぶように、言い淀むような表情で悠樹を見つめている。その横でダニエルがアリスの肩に手を置き、口を開いた。


 「……俺から話そう。猫森さん、百合園さん、落ち着いて聞いてくれ」


 その言葉に、二人の心は大きく揺さぶられた。


 「今、魔法使いのお嬢さんが使ったのは『ハイヒール』だ。広範囲の傷を素早く癒し、ある程度の活力も回復させる。だが、失われた血液までは補えないんだ。だから、猫森さんの状態とこの地面に流れた血の量を見るに、もう……」


 「……もう、なに? どういう意味?」


 萌花は目を大きく見開き、皆の顔をひとりずつ見つめた。


 「ねえ、なんで皆んな黙ってるの? どういうこと?」


 誰一人として、萌花と視線を合わせようとしない。


 その時、悠樹は悟ってしまった。


 体は冷えきっているのに、目の奥が熱く滲むのを感じた。


 「…………ぐっ……」


 彼は歯を食いしばり、嗚咽を漏らす。それは涙を堪えるためなのか、それとも無念さの表れなのか。


 悠樹のその様子に、萌花も理解した。


 人は大量の血液を失うと、その量に応じて様々な致命的な問題が生じる。


 凶暴なフェロジヒェーネに包囲され襲われた悠樹は、全身に無数の傷を負い、出血が続いていた。中には比較的大きな血管が傷ついた箇所もあり、ほんの数分間で大量の血液を失い、その量は重度、あるいは極度の域に達していた。すなわち、30〜40%以上である。


 詩織の回復魔法で傷口は塞がれ出血は止まったが、失われた血液そのものが補充されたわけではなかった。そのため、大量失血がもたらした身体へのダメージは回復できていない。


 ここまでの失血量では、体内の臓器は血液不足により機能不全を起こし始める。そして、その過程はもう逆転できない。



 悠樹は間もなく死を迎える。



 萌花の涙が無自覚に頬を伝い落ちた。


 「悠樹ッ!!」


 彼女はひざまずくと、悠樹の背後から強く抱きしめ、自らの頬を彼の頬にすり寄せた。


 「……悠樹……冷たい……」


 彼女はかつてない悠樹の冷たい体温を感じながら、二人の涙が混じり合う。


 すると、萌花は涙で滲む視界の隅で、悠樹の手に握られたガラス瓶が目に留まった。


 「アリスさん、さっき悠樹に飲ませたの、なに……?」


 「『最上級ポーション』です。このポーションは、魔法のアトリエで買える一番いいものです。失った血を回復させ、骨の損傷も修復できますが……その……」


 アリスは言葉を続けられなかった。


 そしてダニエルは再び彼女の言葉を繋いだ。


 「魔法薬を飲んでから効果が現れるまで、通常30分以上はかかる。それに魔法に比べて治りも遅い。戦闘中とか、命の危険がある時はそんな時間は待てない。これが町から出る時に水の魔法使いが絶対条件の原因だ。だから……猫森さんが『最上級ポーション』を飲んだとしても、効果が出るまでには時間がかかるんだ。残念だが、猫森さんには多分もう……その時間が残されていない」


 「………………詩織ちゃん。そんな魔法薬があるなら、それに対応する魔法もあるんじゃない? 使える?」


 「……ごめんなさい…………私には……使えません…………本当に……ごめんなさい…………」


 詩織は杖を両手で強く握りしめ、嗚咽を漏らし始めた。


 「気持ちはわかるが、責めないでやってくれ。この状況を治療できる魔法は最上級の回復魔法だけだ。それが使える魔法使いも多くはない。彼女は下級魔法使いだ。『ハイヒール』を使えるだけでも十分立派なもんだよ」


 「……そう……なんだね…………詩織ちゃん、今はランラさんを治療してあげて」


 「……は…はい……」


 そう言って詩織はランラの方へ向き直った。萌花と悠樹の姿に心を乱された彼女は、再び目を閉じて集中力を取り戻す必要がある。


 ランラは悠樹の治療を優先させたため、ずっと左腕を押さえて出血を抑制していた。


 ランラは詩織に感謝を述べた。しばらくして、詩織はランラの負傷した箇所に『ヒール』を使い、ランラの傷はすぐに癒えた。


 彼女は咬まれた箇所を握ったり、拳を握ったり開いたりして異常がないか確認したが、特に問題ないようだ。


 萌花はかすかに残った理性で冷静さを取り戻し、悠樹を救う方法を必死に探ろうと、素早く思考を巡らせる。




 読んでくれてありがとうございます。

 もしよかったら、文章のおかしなところを教えてください。すぐに直して、次に生かしたいと思います。(´・ω・`)

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