0032 - 第 1 巻 - 第 2 章 - 26
店のドアが閉まると、悠樹は大げさに息を吐いた。
「はあぁ……」
「ふふっ、お疲れ様」
悠樹が椅子に座り、萌花が彼の両肩を両手でごしごし揉みながら労った。
「猫森さんは本当に優秀な方です。頭も良いし、慎重だし、人付き合いもお上手で。私にはとてもできません」
カーリンをもてなしている間、詩織はほとんどなにもせず、ただ黙って立っていた。相手がカーリンだったこともあるが、何より詩織自身が内向的で、積極的に人と交流するのが苦手だからである。
以前はそれでもさほど問題にならなかったかもしれないが、今はアトリエの主人として、最近はちゃんと客をもてなしていないのではないかと心配している。だからこそ、有能な悠樹を見て、思わず賞賛の言葉が口をついた。
萌花はにこにこしながら「ふふふ~そんなことないよ、詩織ちゃん」と言って、詩織は「え?」と少し首をかしげ、萌花がなにを指しているのか分からなかった。
「いえ、<人付き合いが上手>なんて全然言えませんよ。おれたち、普段は外じゃ自分から話しかけることなんてまずないし、同級生の話題にも入っていかないし、店の店員さんとも必要最小限のやりとりしかしていません。周りから見たら、ちょっと変わってると思われてるかも……とにかく学校でも買い物でも、よっぽど必要に迫られない限り、社交なんて面倒で、早く家に帰ってゲームしていたいタイプの人間なんですよ、おれたちは」
悠樹が詩織に説明すると、萌花も「うん!」と大きくうなずいた。
「ただ、今がその<よっぽど必要に迫られている時>だったってだけなんです。知らない世界に来てしまって、もし普段通り振る舞っていたらまずい状況だったので、精一杯自然に振る舞ってあのお嬢様とお話ししていただけで。本当は、状況が許すなら萌花と一緒に誰かの影に隠れていたかったんですよ」
そう言いながら、悠樹は肩をすくめて少し自嘲した。
「そ…そうだったんですね……」
それでは、どうして私と一緒にいる時、お二人はこんなに自然で元気なのでしょう?
と、詩織はよく分からないまま、心の中にそんな疑問を抱いた。
それを察したように、萌花は両手を背中に組み、少し前かがみになって上目遣いで詩織を見つめ、満面の笑みを浮かべる。
「だって詩織ちゃん、とっても可愛いんだもん! 私も悠樹も自然に接しちゃうの。本当に親戚の子みたいで~」
「そうだね。おれたちには親戚いないけど、そんな感じはするよ」
詩織が大人しくて可愛らしいからか、気弱そうで守ってあげたくなるからか、あるいは二人に対して尊敬の念を持ってくれているからか。いずれにせよ、知り合ってまだ2日も経たない相手と、これほど自然に打ち解けられるのは二人の初めての経験だった。
「……うぅ……」
二人にそう言われて、詩織はまた恥ずかしそうにした。
「あ、そういえばさっき、あのお嬢様の前で令狐さんのことを“詩織“って呼び捨てにしちゃって、すみませんでした。<設定>に合わせたくて」
「あ、大丈夫ですよ。猫森さんがお嫌でなければ、これからも名前で呼んでください」
「えっと……へ? し…し…しおり……さん? ん…ンん……」
「ふふふ~」
カーリンの前ではすらっと名前を呼べた悠樹が、今は妙に照れくさそうにしている。そのギャップに萌花はクスクスと笑いをこらえた。
「他に誰もいない時はやっぱり“令狐さん”って呼びます……」
悠樹はその話題を切り上げ、立ち上がって両手を腰に当て、ふうっと息を吐いた。
「さて、雑談はこのへんにして、本題に戻りましょう。まず、金貨と銀貨の換算の仕方と価値が知りたいです」
三人は調合室に戻って座った。
詩織は腰の袋から種類の違う硬貨を4枚取り出し、テーブルに丁寧に並べて説明を始める。
「お金は、小銅貨、銅貨、銀貨、金貨、それに大金貨の五種類です。まずは小銅貨から。1枚の小銅貨が最小の単位で、皆さんはこれをたくさん持ち歩いています」
並べられた硬貨の中でひときわ小さいのが小銅貨で、直径は約1.5センチ。他の硬貨の半分ほどの大きさだ。
「換算はこのようになります。小銅貨10枚で銅貨1枚。銅貨10枚で銀貨1枚。銀貨10枚で金貨1枚になります」
「なるほど、全部十進法なんですね、覚えやすい」
「大金貨はどうなの?」
二人は硬貨を手に取って、重さや手触りを確かめている。
「えっと……申し訳ありませんが、うちでは大金貨に両替することがほとんどなくて、実物はお見せできません。大金貨は金貨10枚に相当し、大きさは金貨より一回り大きく、特別な細工が施されているので、金貨とはまた違う金色をしています」
「なるほどね、ちょっと見てみたいな~」
「それで、1枚の小銅貨の価値はどのくらいですか?」
「価値……とは?」
詩織は悠樹の言いたいことが分からなかった。悠樹の言い方では、誰もその意味を理解できないだろう。
彼が知りたかったのは、1枚の小銅貨が日本円でいくらに相当するかだった。しかし、ここは日本でも地球でもない。
この世界にはこの世界の価値観がある。財布の中の紙幣がただの紙切れ同然になったように、彼らが持つ価値の尺度はもう通用せず、新たに理解するしかなかった。
「えっと……言い方を変えます。普通に、栄養がちゃんと取れる食事を一食するのに、小銅貨はどれくらいかかりますか?」
「もし力仕事ではない人で、美味しさを求めず、普通の食事の場合は、朝食は5枚から7枚、昼食と夕食は8枚から12枚くらいです。私たちが今朝食べた朝食では、パンが1個で1枚、卵が1個で1枚、牛乳が1杯で2枚、ソーセージが1本で2枚、合計で小銅貨6枚でした」
牛乳の味が少し薄いと思った以外は、特に違和感もなく食べられたし、量も十分だったと、悠樹と萌花は朝食を思い出した。
「おお、あの朝食で6枚か」
「詩織ちゃんのいつもの朝食もそんな感じなの?」
「はい、そうです」
「じゃあ、令狐さんの普段の昼食と夕食はどれくらいかかってますか」
「私の場合は大体小銅貨8枚から10枚くらいです。お二人の食事量を考えると、昼食も夕食もそれぞれ10枚くらいあれば足りるかと思います」
「なるほど」
そう言うと悠樹と萌花は、さっと言葉を交わしながら計算を始めた。
「じゃあ、平均して朝食6枚、昼と夜がそれぞれ10枚で……それに飲み物とかおやつとかで少し足して……1日だいたい小銅貨30枚、銅貨3枚ってとこか」
「金貨1枚は小銅貨1000枚だから、食費だけなら……金貨1枚で二人が16日は食べていける計算だね」
「うん。あのお嬢様の提示額で計算すると、輪ゴムが全部で金貨1枚、それを入れる袋が銀貨2枚、ヘアゴム4個が銀貨12枚、傘が金貨10枚……これで6、7ヶ月は食べていける」
「わぁ……予想以上だね……こんな日用品でそんなにお金が手に入るなんて、私たちって悪徳商人?」
「大丈夫だよ、希少価値があるものだから」
「てあれ? 詩織ちゃん、どうしたの?」
二人の会話を聞いて、詩織は目を丸くして唖然としている。
「あっ……その、お二人とも算数の能力がお高いですね……ほとんど時間をかけずに暗算で計算できるなんて」
「「え?」」
「えっと、私が知っている限りでは、暗算がそれほど速い方は、商人さんか会計職人さん、それに経験を積まれた商売人の方くらいです」
二人は「あー」と声をそろえ、詩織が何に驚いているのかをようやく理解した。
これは教育年数からの差である。
詩織も計算ができないわけではないが、二人のように会話の流れの中で計算をこなすことはできない。仮に先ほど二人が平均3秒かけたとすれば、詩織は30秒かかるだろう。それは10倍の差であり、詩織が驚くのも無理はなかった。
そして二人は、自分たちの持つ基礎的な計算能力が、少なくともこの町では平均よりかなり高いことを認識した。
「まあ……この程度の四則演算の暗算なら、おれたちの国では小学生……えっと、12歳になる前の子供でも普通にできますよ」
「そう……なんですね……それは、すごいことです」
確かに詩織の学習能力は同期の子供たちの中では非常に優秀で、3年間で必要な知識をしっかり身につけていた。しかし、長い義務教育を受けた現代人の基礎学力の前では、小学生レベルに思える部分もあるかもしれない。その事実が、二人の世界の教育の奥深さに対する詩織の畏敬の念を一層強めた。
「それでしたら、お二人なら会計職人の資格を取って、ここやフェンスビ央国のどなたかの商会に就かれることも可能かと思いますよ」
「うん……仕事をしてお金を稼ぐつもりはないけど、参考にさせてもらいますよ。ありがとうございます」
「どういたしまして」
悠樹と萌花の目的はあくまで元の世界へ戻る方法を見つけることであり、この世界で仕事に就いて生活基盤を作ることではなかった。当面必要なのは、人探しの活動を進めるための十分な資金だけ。
それでも詩織の提案は有力な選択肢の一つであり、状況が変わればその道も悪くないと、二人は心の片隅に留めておいた。
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