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*** 40 諸悪の根源 ***



この物語はフィクションです。

登場人物、国家、団体、制度などが実在のものと似ていたとしても、それは偶然です。

また物語内の記述が事実と違っていたとしても、それはフィクションだからです。




 


 それにしても、なぜこれほどまでの武力至上主義がヒューマノイドに蔓延していたのであろうか。


 その理由はほとんど『農業』の発明から派生した害悪だと考えられる。

 ならばなぜ長閑や牧歌的、平和のイメージがある農業が諸悪の根源となっていったのか。



 まだ農業が行われていない狩猟採集生活の先史時代では、そもそも養える人口が少なかったため、武力によって勢力を維持拡大する必要はほとんど無かった。

 狩りの獲物や森の恵みが減ったならば、その一族集団は住処を移動するだけであり、人口が少ないが故に他の一族とバッティングすることもほとんど無かったのである。


 ただ、あるときごく一部の者が、せっかく森で採って来た野生の米や麦の実を集落の近くで零してしまった。

 その時は必死で集めたものの、その場所から翌年多くの米や麦が生えていたのが発見されたのである。

 こうした発見から原始農業という名の試行錯誤が始まった。

<農業の発見>


 当初はせっかく集めて来た草の実を食べずにまた地面に撒くなどとは莫迦者であるという謗りを免れなかっただろうし、水を遣らずに降雨に任せていたせいで枯れ死させてしまうという失敗も多かっただろう。


 だがこの試みが成功するにつれて、その集団には大いなる恵みが齎された。

 それは1粒の麦の実は翌年30粒から50粒の実を齎すという、採集量の飛躍的増大という恵みである。

 しかも1日中森を彷徨って野生の実を探さずとも、ごく狭い範囲で多くの採集量が得られるのだ。

 こうした食物は、保存も利くために冬に飢えずとも済むのである。


 続けて長い時間をかけて各種の発明が齎されていった。

 まずはただ種を土の上に撒くのではなく、鳥やねずみなどに食べられてしまわないよう土に浅い穴を掘って種を埋めるという発明。

 次に降雨が少ない時には水を持って来て撒いてやれば、せっかくの作物が枯れ死しないで済むという発明。

 さらには土を耕し、雑草を取り除いてやればさらに収穫が増えるという発明。

 森の落ち葉が積もった土を持って来て畑の土に混ぜてやればさらに収穫が増えるという発明。

 こうした発明を為した氏族はもはや移住の必要も無くなり、穀物蔵なども建てるようになることから徐々に定住をするようになり、人口も増やして行ったのである。

<定住生活の始まり>


 ただ、ここで問題が発生する。

 未だ農業を知らず、狩猟と採集によって暮らす他の一族からすれば、こうした定住者の作った畑の作物と、森で見られる野生の実の群生地はほとんど見分けがつかないのである。

 よって、収穫期には周辺の移動生活者たちが入り込んで、せっかくの作物が盗まれてしまうこともあっただろう。

(当人たちは盗んだという意識は無いのだろうが)


 これに対抗するために、定住者たちは自警団のようなものを組織して採集者たちに対するようになった。

 この場合に、古代の諍いではまずその人数がモノを言ったために、定住者優位の状況は続いたことだろう。

<土地所有意識と防衛意識の始まり>


 また、農業の場合には特に集団の協調性が重要になって来る。

 或る者は種を埋め、また別の者が畑を耕しているようでは農業は上手く行かないのだ。

 これによって、おそらく家長や長老といった者が作業の指図をすることが始まったものと思われる。

 こうした指図や命令系統は、畑の防衛をするときにも役立ったことだろう。

<指揮命令系統の発生>


 また、この定住集団の周囲にいた非定住狩猟採集者たちが困窮した際に、(人数(戦力)では敵わないので)、食べ物を分けてくれと懇請してくることもあっただろう。

 このとき、定住者たちに余裕があれば、食物の見返りに農作業の指揮下に入ることなどを提示することもあったと考えられる。

 こうした集団は、当然のことながら家長や長老の一族からは一段下の存在として扱われたことは想像に難くない。

<階級意識の発生>


 こうした定住集団は、やはり長い時を経て土豪や豪族と呼ばれる存在になっていった。

 その過程で、さらに畑を増やせばもっと穀物を貯蔵出来る、そうすればさらに集団の人口が増えて防衛が有利になる上に、定住集団の長の権威も高まっていくという認識も生まれた。

 この頃にはもう、長とその親族は農作業から離れて指揮のみを行う存在になっていったのだと思われる。

<特権階級の発生>


 こうした集団は、ヒューマノイドの本能として、食物がある限り人口を増やそうとする。

 その限界まで膨らんだ集団が、ひとたび冷害や連作障害、干ばつなどを原因とする不作に陥った場合にはどうするか。

 そのままに放置しておけば、集団構成員の不満が爆発し、特権階級の権威が崩壊してしまうかもしれないのだ。

(そうなれば生産が始まっていた酒ももう飲めなくなってしまうだろう!)


 ここでいくつかの集団は、周囲にあった同じような定住集団を襲撃し、その地の特権階級一族を殺害してその集団を吸収合併する手段を選んでしまったのである。

<戦争の発生>


 その時には、もちろん敵集団の末端構成員は農奴として指揮下に収められたことだろう。

<奴隷の発生>


 こうした一族氏族集団は、時代が進むにつれ、特権階級同士の婚姻政策などを通じて次第に結びつきを強めていくことも多かった。

 彼らにしてみれば、こうした繋がりが大きければ大きいほど、集団的自衛の効果も認識出来たのであろう。

 その中でも大きく有力な集団は後の世に『豪族』と呼ばれる存在になっていったのである。

<豪族の発生>


 このようにして、平和の象徴であるかのような農業は、人口を増やすという大いなる功徳プーニャを齎しつつも、同時に、土地の所有意識、防衛闘争、指揮命令系統、階級意識、特権階級、戦争、奴隷といった罪業カルマをも発生させてしまっていたのである。



 ただ、日本の場合にはやや特殊な状況下にあった。


 海に囲まれていたために、紀元前150世紀から紀元前10世紀にかけての縄文時代には、北海道のアイヌ民族を含む本州、四国、九州の狩猟採集民である縄文民族には、ほとんどY染色体ハプログループD系統(主にD1a2a)しか存在していなかったのだ。(←本当!)


 だが、大陸では紀元前30世紀ごろから農耕が始まっており、この頃に青銅器も発明されていたために、特に有力豪族同士での戦争も多く発生して国家と呼ぶべきものが誕生し始めていたのである。

(とは言っても中央集権制の王朝などは存在せず、その多くは一応王家はあるものの、実態は豪族の集団である)


 その中で、特に中国南岸部やベトナムの百越と呼ばれた地域や朝鮮半島から、日本海流や対馬海流に乗って日本に漂着する大陸人も現れ始めた。

 中には大陸内での戦に敗れた国の支配階級が、殺害や奴隷化から逃れるために決死の覚悟で海に乗り出したこともあったとみられる。


 彼らは青銅器や農耕を知ってはいたが、その人数が限られていたため、日本国内の縄文民族を支配下に置くことは出来ず、共存や混血を通じて農耕と青銅器を知る大陸系弥生民族として日本に浸透して行った。


 日本に水稲栽培をもたらしたのはこの弥生民族であり、満州や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布するY染色体ハプログループO系統(O1b2)に属している。

 また、特に古墳時代にはやはり満州や朝鮮半島などからハプログループO3a2cの古墳系と呼ばれる弥生民族も見られるようになった。



 昭和時代までは『日本は単一民族国家だから』という表現もよく見られたが、実際に分子人類学の立場からは、日本人は縄文民族と弥生民族とその混血民族として捉えられている。

 縄文民族も元々はコーカソイドやモンゴル民族と遺伝子的な繋がりは深いが、数万年前に日本列島に移動して来ていたために、遺伝子の突然変異と固定から日本縄文民族として人種も確立していたらしい。


 当時は氷期のために水が大陸上に氷として残留していたために、海水面が21世紀よりも120メートルほど下にあった。

(大陸や日本列島沿岸部の水深の浅い部分、いわゆる大陸棚は当時の海岸地帯の名残である)


 そのため、間宮海峡や宗谷海峡はほぼ干上がっており、津軽海峡も幅数キロほどの海で隔てられていただけだったのである。

 その狭い海峡も冬には完全に凍結していたために、動物やモンゴロイド系ヒューマノイドの移動も容易だったのだ。



 余談だが、日本人の新生児や乳児には背中から尻にかけて青い痣が見られ、これは日本語では『蒙古斑』、英語では『Mongolian blue』という。

 遥かな過去に於けるモンゴロイド民族との繋がりの名残である。


 さらに余談だが、欧米各国に駐在する日本人夫婦が現地のベビーシッターを雇って外出した際に、そのベビーシッターが乳児の背中から尻にかけての一面の青痣を見て『乳児虐待だ!』として警察に通報することがあるそうだ。

 警察官も蒙古斑などは知らないため、実際に親が逮捕されてしまうこともあるそうで、注意が必要である。

 筆者の友人がアメリカ駐在中に子供が生まれた時、産婦人科医が病院中の若い医師や看護師を集めてその子の尻を見せ「This is the mongorian Blue.」と教えていたそうだ。

 それでも若い看護師などにはなかなか信じてもらえず、「生まれたときからこんなに大きな痣があるなんて可哀そう!」と涙目になっている看護師も多いらしい。


 さらにさらに余談だが、筆者の友人で、大阪大学の博士課程を卒業し、日本語ペラペラのフランス人がいた。

 彼が日本語も日本の事もなんでも知っている!と豪語していたので、「日本語で未熟な奴のことを『尻が青い』というイディオムが有るのを知っているか」と聞いたところ、もちろん知っていると答えた。

 そこで、あれはmongorian Blueと言って、乳幼児の尻が実際に青いからなんだよ、と教えてやったところ「し、知らなかった……」とショックを受けていた。


 閑話休題。



 この日本土着の民族である縄文民族と、後に朝鮮半島や中国から来訪した弥生民族は、異民族の接触という状況の中では例外的なほど穏やかに融合が進んでいった。

(理由は大陸から一度に漂着した弥生民族の数が少なかったからと思われる)


 弥生民族は農耕文化を広げつつ日本海流や対馬海流に乗って到着した九州南部や北部から、混血などを通じて穏やかに東進して行ったが、おおよそ愛知、岐阜、福井を結ぶラインで止まったと見られる。

 以降は東日本の縄文民族と西日本の縄文・弥生混血民族との共存が為されていったのである。


 このことは、21世紀になっても畳(部屋)のサイズにその名残は残っている。

 京都から西の畳(部屋の広さ)は『京間』と呼ばれ、畳一畳が95.5×191センチであるのに対し、中京地方では『中京間』(91センチ×182センチ)、中部・東海地方から東では『江戸間』(88センチ×176センチ)が存在するのである。

 昭和40年代ごろまでは、愛知、岐阜、福井の旧家には、一軒の家の中に京間と江戸間の両方がある家もあったそうだ。





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