メイルの密告書
『いくら手紙に想いをしたためても、相手には顔が見えない。だからこそ、手紙は手渡しに限る』
田舎の代筆屋兼郵便配達員から名誉宮廷書記官まで上り詰めた祖母の口癖だ。
本人に成り代わって手紙や重要文書を書くことを生業としている代筆屋の一族・イーグレット家の生まれで、自身も代筆士として働くメイルは、王宮で開かれている華やかな夜会の席でそんなことを思い出した。
つい先ほどまで壇上に上がっていた国王陛下の話の中に祖母の名前が出たことで、懐かしい気持ちになった。
夜会が始まってすぐに多くの参列者の中に紛れてしまったメイルは、ホールを抜け出して一息ついた。
普段は辺境伯領で過ごすメイルにとって、この夜会はあまりにも煌びやかすぎた。なにより人が多くて、酔いそうになってしまう。
水の入ったグラスを片手に涼んでいると、廊下の先が騒がしくなった。
こちらへ向かってくるのは美青年と美女。
艶のある金髪と王妃によく似た中性的な美貌。誰もが足を止めて見入ってしまうほどの容姿をしているのは王太子殿下だった。
その後ろでは彼の婚約者が姿勢を正している。
メイルは小動物のように廊下の隅っこにそそくさと移動して、頭を下げた。
(うわぁ……。本物の王族だ)
メイルは真っ赤なカーペットを凝視しながら、足音が遠くなるのをじっと待つ。
「ん? あなたは」
軽やかな足音に続いて、地響きのような重苦しい足音が近づき、目の前で停まった。
王太子たちがホールに入り、王宮で働く父の知り合いが自分に声をかけてくれたのかしら、と頭を上げる。
その瞬間、メイルは呼吸の仕方を忘れた。
国王陛下によく似た強面。武人を思わせる背中、腕、太ももの筋肉が発達した体。ひと睨みされたら、王太子とは違った意味で硬直してしまう容姿をしている好青年だった。
「グエル、殿下」
声に出して、その方の名前を呼び、勢いよく頭を下げる。
王都の街並みにも、王宮での夜会にも慣れていないメイルは、まさか王族に声をかけられるとは夢にも思わなかった。
グエル第二王子は文芸よりも武芸に秀でていると有名で、『熊のような男』と評されるお方だ。
「驚かせて、すまない」
低く野太くも、心地良い優しい声をかけられ、メイルは閉じていた目を開けた。
しかし、目線はカーペットに釘付けのままだ。
「よく顔を見せてくれないか」
「……はい」
おそるおそる顔を上げると、グエル第二王子の彫りの深い顔が目の前にあった。
第一王子のような貴公子面ではないが、とにかく男らしさが全面に出ている。
「もしかしてメイカ殿のご令孫か?」
「はい」
「やはりそうか! その澄み切った空のような瞳の色はメイカ殿にそっくりだ。メイカ殿には大変世話になった」
メイカ・イーグレット。メイルの祖母にあたる彼女は田舎で代筆屋を始め、その能力を認められて唯一の女性宮廷書記官として活躍した。
彼女の功績は大きく、メイルの父も兄も宮廷書記官として現在も召し抱えられている。
「きょ、恐縮です。グエル殿下にそのように思っていただけるなら、天国へ旅立った祖母も喜んでいることでしょう」
何と答えればよいのか分からず、声が裏返る。
メイルは祖母がどのような仕事をしていたのか見たことがない。
周囲の人から「イーグレット家のメイカ殿はすごかった」と聞かされても、メイルにとってはただの優しいおばあちゃんでしかなかった。
しかし、王族にまで評価され、初めて王都に出てきた孫である自分にまでわざわざ声をかけたくなるほど人望が厚かったのだと知り、メイルの心は温かくなった。
「ねぇ、その子だれ? 早く行きましょうよ」
そんな心を一気に冷めさせた一言。
ついさっきまでグエル王子の背後をつまらなさそうに歩いていた女性は、メイルに見せつけるように王子の腕に自分の腕を絡めた。
「こら、ルイズ。こちらは宮廷書記官、イーグレット家のご息女だ。無礼だぞ」
ぶ、ぶぶぶ、無礼!?
滅相もない、とメイルは再び頭を下げる。
こっちは田舎から出てきたしがない文字書き。そちらは王子の婚約者で公爵家のご令嬢。身分は天と地の差だ。それなのに、身分の低いメイルを庇ってくれるグエル王子は好印象だった。
反対にルイズは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「気を悪くしないでくれ。では、私たちはこれで失礼する」
エスコートして進むグエル王子に気づかれないように、ルイズはメイルに勝ち誇った笑みを向け、舌を出した。
(感じの悪い人。こんな場所で生きていける気がしないわ)
宮廷書記官である父が「せっかくだから参加しなさい」と招待状を用意してくれたのはいいが、メイルには苦い思い出となってしまった。
いわれもなくグエル王子の婚約者にあっかんべーをされたのだ。
もう二度と王都になど、ましてや王宮になんて行くものか! と心に決めた出来事だった。
◇◆◇◆◇◆
あの夜会から数週間後。
メイルが仕事を終えて帰宅していると、茂みの方からくぐもった話し声が聞こえてきて、足を止めた。
押し殺しても漏れてしまっている女性の呻くような声と男性の荒い鼻息。
これ以上、踏み込んではいけない。そう思いながらも足音を立てないように顔を近づける。掠れた声で「こんな所で」などという甘い声が何とも卑猥だった。
メイルがこのような場面に遭遇するのは初めてではない。
彼女が住むスール領は王都から程よく距離があり、気候にも恵まれて、バカンスには最高と言われている土地だ。別荘を建てる貴族も少なくない。
その結果、このような逢瀬の現場が目撃されることが度々あった。
どこぞの男女が密かに楽しんでいようが自分には関係ない。気づかれないうちに立ち去ってしまおう。
そう思って足を踏み出したとき、「グエルには秘密よ」というじゃれつくような声が聞こえた。
まさか、グエル王子の婚約者であるルイズ嬢が!?
心臓が飛び跳ね、思わず声を出しそうになったメイルは両手で口を押えて息を殺した。
(うそでしょ。あんなに見せつけてきたのに。信じられない)
目を凝らして見ると、間違いなくメイルにあっかんべーをした魅惑的な唇の持ち主だった。
気づかれないように一歩ずつ後退っていたが、服が草木を揺らしてしまい、男性の警戒する声が聞こえた。
メイルはそのままの姿勢で硬直する。
息を止めているせいで指先が痺れ始め、体中が酸素を求めているのが分かった。
「大丈夫よ。こんな場所に人なんて通らないわ」
「それもそうだな」
男女の怪しむ声が聞こえなくなったことを確認したメイルは素早く移動し、何度も深呼吸した。
限界まで息を止めたせいか、信じられないものを見てしまったせいか、ひどく頭痛がする。
(こんな現場を見せられて、わたしにどうしろというのよ)
ふらふらと歩き出したメイルの脳裏に浮かんだのは、グエル第二王子の笑った顔だった。
平民である自分に声をかけて、横柄な態度を取るルイズから庇ってくれた人。
「伝えた方がいいよね。でもなぁー、絶対にこじれるよなー」
深いため息をつくメイルは自室に籠もり、何度も何度も自問自答を繰り返した。
「よし!」
ルイズの逢瀬を目撃してから二日後。意気込んだメイルは手紙に筆を走らせた。
重要書類に見えるような重厚な封筒に入れて、イーグレット家の家紋が入っていない封蝋印を押す。
差出人の名前は記載しなかったが、受取人の名前はグエル王子にしておいた。
そして手紙は直接父に送りつけるようにして、父にだけ分かるように小さく点を書いておいた。
メイルが父親に手紙を書くことは滅多にない。きっと、こちらの意図に気づいてくれるはずだ。
本当は差出人に自分の名前を書くのが常識だが、良からぬ噂を流されて嫌な思いをしたくなった。
幼い頃から一緒に育った鷹に封筒を咥えさせ、「王都のお父様までお願い」と囁きながら、頭を撫でる。
調教された伝書鳩ならぬ、伝書鷹は巨大な翼で大空へ舞い上がった。
この日、メイルは初めて祖母の教えに背いて手紙を手渡ししなかった。
◇◆◇◆◇◆
落ち着かない日々を過ごしていたメイルの元に一通の手紙が届いた。
持って来てくれたのはイーグレット家の伝書鳩だ。
イーグレット家が築き上げた伝書鳩システムはこの国の中心部に鳩の巣箱を置き、そこから各地に鳩たちが手紙を運んでいけるようになっている。
考案したのは祖母で、陸路では数日から十数日かかる郵便配達を最短で可能にしたのだ。
現在、メイルは鷹を用いた伝書鷹システムの構築に力を入れている。
今はまだ相棒の鷹で試験中だが、いずれは最短一日、場所次第で半日で郵便配達が可能になるだろう。更に鳩よりも力の強い鷹であれば軽い荷物も運搬が可能になると踏んでいた。
これらを用いて、メイルは送り主を特定できないように敢えて匿名での密告書を王都へ送りつけた。
深呼吸してから封筒の表裏を確認する。
そこにはグエル王子のサインが書かれ、王家の封蝋印が押されていた。
『きみは何者だ』
至極真っ当な問いかけで終わるかと思ったが、改行されて文章が続いていた。
『名乗らない者の報告を受け付けられない。ルイズは私の婚約者だ。名誉毀損で処罰することもできるのだから、面白半分の悪戯はやめろ。いつでもきみの居場所を調べて拘束できるぞ』
最後は脅迫されてしまった。
しかし、怖がるわけでもなく、メイルはむっとして筆と紙を取り出した。
(なにを呑気なことを)
メイルは更に強い言葉で注意喚起を促す文章を書いた。
目撃情報が信じられないならと、日付や時間、場所やシチュエーション、相手の男性の背格好まで詳細に記載した。
メイルは一通目の手紙で『あなたの婚約者、浮気していますよ』としか書かなかったことを思い出した。
「王子に伝えないと!」という焦りと、「差出人がわたしだってバレないよね」という不安で頭の中がぐちゃぐちゃだったとしても酷すぎる。
もっと説明文を加えるべきだった、と反省して三枚の手紙を封筒に入れた。
返信を書き終えたメイルは再び、グエル王子からの手紙に目を落とした。
決して綺麗とは言えない字だ。
インクの扱いにも慣れていないのだろう。滲んでいる箇所がある。意図的に滲ませて誤字を隠している部分も見つけた。
インクが乾かないうちに腕が触れてしまったのか、所々が霞んでいる箇所もあった。
「イライラが伝わってくる。何度も書き直したのかな」
後半の脅迫文へと向かうにつれて、文字が雑になっていく。
そして、最後のピリオドでペン先が潰れたのだろう。
「ルイズ様を想ってのことね。優しい人。グエル殿下には幸せになっていただきたいわ」
手紙に鼻先を近づけて、肺一杯に空気を吸い込む。
「いい匂い。さすが王族ね。高級なインクを使っている」
メイルは机の引き出しの中にそっと封筒をしまった。
それから更に数日後。メイルの元に手紙が届いた。
蝋封印が解かれていないことを確認してから、封を切って中身を取り出す。
『きみの情報は間違っていたぞ。ルイズはその日、スール領には行っていない。友人たちと一緒だったそうで証人も多くいた。きみは嘘つきだ』
この人、ただ優しいだけじゃない。
不敬なことを思うメイルは決してそれを口には出さず、そっと心の奥にしまった。
汚い文字と頭の悪い文章にだんだんとグエル王子が可愛らしく思えてきた。
なんなら、ちゃんとペンを持てているのかもあやしい。
熊のようだと言われる成人男性が一生懸命にペンを握りしめて、机に向かっている姿を想像すると可愛くて仕方がなかった。
『それに相手の男性の特徴についてだが、男なんて誰もが背が高くてガタイが良いだろう』
子供の相手でもしているように目を細めていたメイルは堪えきれずに吹き出した。
「あなたのお兄様は華奢な男性ですよ? あなたを基準にするのはあまりにも他の男性が可哀想です」
いちいち、コメントを入れながら手紙を読み終えたメイルは便箋に筆を走らせた。
「顔も名前も性別も分からない相手に返信を書くなんて律儀な人」
ご機嫌なメイルはベランダから顔を覗かせる鷹のくちばしに手紙を咥えさせて、羽を優しく撫でた。
それからしばらくの間、グエル王子からの返信はなかった。
彼らの行く末を気にするメイルだったが、代筆屋としての仕事が忙しく、郵便受けを見る機会も減ってしまった。
グエル王子がルイズ嬢のことを信じているのであれば、あの密告書は余計なお世話だったかもしれない。
そんな風に思うようになった頃、返信が届いた。
『こんにちは。お元気ですか。私は元気です。肌寒い日が続くようになり、冷え性の私は我慢しながら日々の訓練に耐えています』
きょとんとしたメイルは何度も冒頭部分を読み返した。
代筆かな?
そう思ってしまうほどに丁寧な文章に目をしばたかせる。
『さて、以前いただいたお手紙の内容ですが、私はルイズ公爵令嬢との婚約を破棄する運びとなりました』
思わず声が漏れてしまい、手紙を握り締めて食い入るように続きを読む。
『恥を晒すようですが、浮気相手は我が一族の者でした。このような形になってしまい言葉もありません』
手紙の内容が衝撃的すぎて口を閉じることができなかった。
『国王陛下により、ルイズ嬢の逢瀬相手は国外へ住まいを移す手筈となりました。ルイズ嬢の処罰も慎重に検討しています。貴殿のおかげで王室の危機は去りました。心より感謝申し上げます』
最後までなんて丁寧な文章なのだろう。
そして、字が上達している。
癖は抜け切れていないから、代筆を頼んだのではなく直筆だとすぐに分かった。
「こんなことを書いてしまってよかったのかしら」
イーグレット家の伝書鳩は優秀だが、万が一にも手紙を紛失してしまえば一大事だ。それを承知で手紙にしたためるなんて、度胸があるというか、無謀というか。
『つきましては、直接お礼をさせていただきたく存じます』
それはつまり密告書の送り主を特定しているということだった。
◇◆◇◆◇◆
手紙の返事は書かなかった。
自分はただ、婚約者が浮気していますよ。という事実を伝えたかっただけで、王子と文通がしたかったわけではないのだ。
メイルはふとした瞬間に筆を持ってしまう自分に何度もそう言い聞かせた。
これまで通り、仕事の日々に戻ったある日、家人に呼ばれて出迎えてみれば想像通りの相手が玄関にいた。
晴れ晴れとした表情の屈強な男性――グエル王子が丁寧に頭を下げた。
「会いに来た。少し話せるだろうか」
グエル王子が持つとティーカップも小さく見えてしまう。
筆ならなおさらだろう。
「どうして、わたしだと? 父に聞いたのですか?」
「夜会の参加者名簿から炙り出した。この手紙はメイル嬢の筆跡で間違いない」
懐から取り出した数々の手紙を取り出しながらそう告げる。
な、なんて気の遠くなる作業を!
絶対に見つけ出すという執念を感じてしまった。
「メイル嬢のおかげだ。ありがとう」
「いえ。余計なことをしてしまったのではないかと後悔していました。そう言っていただけると、心が安らぎます」
「正しいことをしたのだ。胸を張っていいだろう」
「殿下が大切に思ってらっしゃるルイズ様と引き離すような結果となってしまいました」
王子はあっけらかんとして告げる。
「婚約者として粗末に扱ったことはないが、愛情を抱いたことはない。特に今回の件で幻滅した。縁が切れて清々しているくらいだ」
大口を開けて笑うグエル王子の姿に拍子抜けのメイルはやがて強ばらせていた表情を緩めた。
「そ、そうでしたか。それに密告するような形で心苦しかったので」
メイルは「おばあさまの教えにも背いてしまいました」と目を伏せた。
「それは私も同じだ。手紙は手渡しに限る、だったな」
照れ臭そうにするグエル王子は懐から取り出したもう一通の手紙を渡した。
メイルは折り畳まれた手紙を取り、王子の目を見つめる。
「開けても?」
「も、もちろんだ」
確かに許可を得たはずなのに、手紙を開きかけた手を止められた。
真っ赤に染まった顔を大きな片手で覆い隠しながら、「待ってくれ」と懇願されてはどうすることもできない。
「こ、こんなに緊張するとは知らなかった。メイカ殿やメイル嬢はこれを平然とやってのけていたのか」
「本来であれば、わたしもそうするべきでした。一生の恥です」
グエル王子は何度か深呼吸をして、ふんすっと鼻息を荒くしてから椅子に座り直した。
「読んでくれ。そこに私の気持ちを書き綴った」
メイルも唾を飲み込み、真剣に向き合って手紙を開く。
その内容は恋文だった。
確かにこれを目の前で読まれるのは恥ずかしいだろう。と思えるほどに情熱的な文章だった。
なにもそこまでしなくても……。
そう思ったが、これがグエル王子というお方なのだろう。
綺麗な字で紡がれる愛の言葉が、目を通してメイルの心へ澄み渡っていく。
「不躾ですが、とても字がお上手になられて驚きました」
「これからは代筆を頼まなくていいように、と練習したのだ」
「本当ですか? 殿下は滅多に代筆を頼まないと聞いていますが」
しばしの沈黙の後にグエル王子がぱんっと頬を叩いた。
「うそだ。本当はメイル嬢への返事を書くために練習した。きみのように綺麗な字で自分の気持ちを伝えたかった」
口にしなくても、その努力は十分に伝わってきていた。
それこそ、どんな顔で書いているのかも想像できてしまうほどに。
グエル王子は「あ、あと!」と慌てながら付け足す。
「より速く郵便配達が可能になった伝書鷹の考案者として、メイル嬢の叙爵も考慮されるだろう。そうなれば王宮に来ることになる。それにメイル嬢は私と秘密を共有している。それも国家機密を、だ」
笑ってはいけないのだろうけど、言われた内容を真剣に考えれば考えるほど、言い訳に聞こえてしまって、我慢できなかった。
「もう手紙を手渡ししたくない。自分の気持ちは直接口頭で伝えたい」
「では、わたしの気持ちをしたためた密告書は不要ですね」
メイルは取り出した手紙を裏向きにして机の上にそっと置いた。
「それは、是非とも読んでみたいものだ」
愛らしい熊のような大きな手がメイルの華奢な手を包み込んだ。
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