第919話 境(きょう)
「戦場で儀式魔術など阿呆か! 二度とやらんぞ!!」
荒鷲団の魔導師ヘルギムが抗議の声を上げるが、彼女…ネッカは反応しない。
ただギラギラした瞳でグライフを睨みつけるのみだ。
「バカ、な……!」
グライフが呆然とした表情で呻き声を上げた。
明晰な頭脳が働いてくれぬ。
連呼される忌まわしきあの女の名が思考を乱す。
だとしても、それはやはりおかしい。
なぜならネッカはこの戦いが始まってからずっとドルムの城壁の上に陣取って広範囲の攻撃魔術を放ち続けていたはずだ。
遠方からの魔族達の妖術を幾度も浴びて…無論ドルムに張られた結界でその多くは掻き消されていたけれど…それでも幾度か被弾して、傷だらけになりながらも城の聖職者たちに治療されながらずっと魔術を使い続けていたはずだ。
その目撃報告が城壁側で戦っている魔族どもから届いている。
なんなら彼女が目の前に今この時ですら届いている。
大魔導師ネカターエルは、今も城壁の上に君臨し、魔族どもからの魔術を雨のように注がれながらその魔導の力を振るっている。
それが、なぜここにいる。
「〈投幻〉、か……!」
直後のグライフの呻きは、ほぼ正解を指し示していた。
これまでそのドワーフの魔導師が得意としてきたのは物体の性質を変質させる〈変化〉系統、そして対象に魔力を込め補助したり魔具を作成する〈付与〉系統であり、幻術で相手を欺く〈幻影〉系統を得意とするという報告はない。
だがそれが必要なことなら、得意分野を曲げてでも魔術を修めるのが魔導師という生き物である。
目の前の女がそうした結論に辿り着いていてもなんらおかしくはないはずだ。
「正確には〈石幻〉でふね。ネッカが開発したオリジナル呪文でふ。効果はまあ……だいたいご想像の通りでふが」
〈投幻〉とは上位幻術のひとつであり、簡単に言うと己自身の姿を離れた場所に投射する呪文である。
術者はA地点にいるのにそこに術者の姿はなく、その姿や挙動はB地点に投影されているわけだ。
この時術者の見た目、発する音、そして臭いなどは本体ではなく幻の方から放たれて、同時に術者の視覚、聴覚、嗅覚に関しては本体のものと幻影のものを切り替えて用いることができるようになる。
簡単に言えば幻影の術者の位置から幻影の術者の目で見て、耳で聞いて、鼻で臭いをかぐ事が可能となるわけだ。
またこの幻影は基本的に術者の動きをトレースするが、精神を集中させることで幻影を術者の動きとは分けて自由に動かす事もできる。
精神集中している間術者本体の方はのろのろとしか動けないけれど、その間幻影の知覚を用いて自由に歩いたり走ったりできるようになるのである。
無論術の射程距離制限内までであるが。
これを幻と見抜く事は非常に難しい。
なぜならこの幻影の見た目や発する音、臭いなどは本人そのものなのだから。
少しわかりにくい表現だが、そういう呪文なのだ。
なぜならこの呪文が見せているのは『術者が知覚される能力』の転写だからである。
…この世界の存在には『知覚する能力』と『知覚される能力』がある。
その両者があってはじめて『対象を知覚する』ことができる。
例えば視覚で言うなら人間の目は『対象を目で知覚する』ことができる。
だがそれと同時に見られた対象には『相手の目によって知覚される』能力が備わっている。
魔導術の用語でこの前者を『根』、後者を『境』と呼ぶ。
呪文などで視覚に関する境…すなわり色境を隠した場合、『相手に見られる能力』が消失してしまうため、他人から見えなくなってしまう。
光の屈折などを利用した呪文よりさらに高度な、いわゆる透明化だ。
〈投幻〉という呪文は、言ってみれば視覚、聴覚、嗅覚に関する術者の『境』…すなわち色境、声境、香境を、自身とは離れた場所に移す呪文である、と言い換える事ができる。
本人そのものに見えるのは当たり前なのだ。
なにせ放たれている視覚情報は本人そのものなのだから。
術師と違う動きをさせているのも別におかしなことではない。
境を移している時点で術師本人は他人から見られる能力を失っている。
すなわち本人がどんな見た目や動きをしているのかは誰にも知覚できない。
ゆえに幻の方を好きに動かそうと、術師と違う動きをさせていると証明できないのだ。
証明できない部分を色々誤魔化すのは魔術の得意分野である。
ことに魔導術では真骨頂といっていい。
足りない部分を魔術式で補ってやればよい。
『解析された世界』の部分であれば数字の上で、式の上で証明できていれば、それは正しいことなのだから。
面白いのは術師が唱える術の『始点』である。
〈投幻〉の影響下にある術者は視覚・聴覚・嗅覚に於いて他者に知覚される『境』が幻影の方にある。
そして他人を知覚する三種の『根』…眼根、耳根、鼻根もまた、自由に幻影の方に移す事ができる。
この場合、指先から稲妻を放つ〈電撃〉など、起点が術者となる呪文はどこから発動されるのだろう。
実はこれ、幻影の指先から電撃が飛ぶのである。
つまり魔術式的には根と境がある程度揃っているなら幻影の方こそがその人物の本体であり、術の始点であると認識してしまうわけだ。
これを利用することで〈投幻〉は非常に優れた幻影として機能する。
なにせ見た目は完全に当人だし、喋るし、こちらの話すことを普通に聞いて応答してくるし、その上魔術まで使ってくる。
どこからどう見ても本人そのもの…というか比喩表現でなく魔術概念的にはまさに本人それ自体なのだから見間違えるのも無理からぬことなのだ。
ネッカが開発したのはこの呪文のバリエーションである。
〈投幻〉は確かに本物と見紛う、いや術の理屈的には見た目上の本物がそこにある、という優れた幻影だ。
だが触覚の『境』たる身境が移されてないため、その幻術に直接触れる事ができぬ。
どんなに見た目が本物だろうと実体がないのである。
幻影はそれを疑えない限り本物と同様に感じられる。
だから並の人間であれば〈投幻〉で生み出された幻影を殴ってその拳が空を切っても『相手にかわされたかな?』と誤認してしまう。
幻影というのはそういうものだ。
だが熟達した冒険者や魔術知識のある魔族は違う、
そういう連中は常に周囲のものが幻影ではないかと疑ってかかっているからだ。
そういう者が〈投幻〉に攻撃した場合、すぐに違和感に気づく。
違和感に気づけば疑える。
疑われてしまえば看破の危険がある。
では触れる感覚…つまり『身境』を幻影の方に移したらどうか、という話になるが、これがなかなか難しい。
技術的には不可能ではないのだが、見た目も音も臭いも触れることまで全て移動してしまったら、そこが完全な本体になってしまうからだ。
残った味覚は実体のある触覚に引きずられてしまうし、五感が『根』も『境』も揃ってしまった場合最後の感覚である意(意識)もそちらに移ってしまう。
それでは単なる短距離転移と変わらない。
幻影としての用を為さなくなってしまうのだ。
ネッカの唱えた〈石幻〉は、そんな幻術に疑似的な触覚を与える呪文である。
理屈としてはなんのことはない。
幻影の内側に自分でない実体を入れておくのだ。
彼女の呪文の場合、その触媒は得意分野の石像である。
呪文と同時に術師であるネッカの見た目や臭いがその石像に移され、同時に石像が魔術によって操り人形のように自在に動くようになる。
そうすることであたかもその幻影が攻撃されたらダメージを負ったような姿となり、また攻撃した相手側にも手ごたえが生まれる。
内側にあるのが石像であるため幻だからと自由に空を飛ばせたりはできなくなってしまうけれど、まさに本物同様の挙動をする事ができるようになるわけだ。
ただドルムにやってくる際、触媒となる石像を持ち込むことができなかった。
魔術で縮小するには些か魔力に余裕がなく、そしてそのまま運ぶには重すぎてかさばり過ぎたのである。
なのでドルムで急増で石像を造ってもらった。
現地の石工に頼み込んで急増で削り出してもらったのである。
そのためにクラスクが一肌脱いだ。
城壁の修理のため石工たちが働いている現場へ顔を出し仕事を手伝って面を通しておいたのだ。
それで間に合わせの石像の制作を快く引き受けてもらって、そしてその石像は今ドルムの城壁の上に鎮座している、というわけだ。
石像は今もそこにある。
ネッカの幻影をその身に纏って、遠方からの魔族の妖術を喰らいボロボロになりながらも、凛と仁王立ちしながら。
彼女の正体を…その真の居場所を隠すために。




