第92話 情報価値
(し、してやられたニャ…!!)
完全に嵌められた。
術中に陥れられた。
アーリはにこにこ笑うその無害そうな人間族の娘の手によって、己の命運が完全に掌握されてしまった事をその獣毛の生えた肌で感じた。
もし先程の問いに対し己の命には莫大な価値がある、或いは計り知れない価値があるなどと答えたら、今のアーリのように命を対価に莫大な借金を背負わされてしまう。
けれど逆に己の命なんてろくに価値なんてない、あるいは些少しかないなどと答えれば、きっと彼女はきっとその対価を支払ってこちらの人生を買い上げてしまっていただろう。
そして質に入れられるのは己の発言に対する商人としての信用である。
現在アーリが最も失ってはならぬものだ。
向こうに生殺与奪権が握られている以上、逃れようのない嵌め手と言える。
クラスクはにこにこと笑っているミエと、愕然とした顔のアーリを幾度か見比べ、その後妻の発言を思い返し、腕を組んでしばし黙考して…
最後に頭の上に蝋燭の灯火を浮かべようやく事情を理解した。
「ミエお前怖イコト考えルナ!」
驚愕の表情を浮かべだいぶ遅れてミエにツッコミを放つ。
「まあ怖いだなんてそんな…うふふ♪」
口元に手を当て微笑むミエに背筋を凍らせるクラスクとアーリ。
アーリは彼に顔を寄せて小声で尋ねる。
「…お嫁さん怖くないかニャ?」
「ダガ愛しテル(キリッ」
「このタイミングでのろけられたニャー?!」
真顔で答えるクラスクと、隣でポッと頬を染めて恥じらうミエ。
そこだけ見ればただの新婚夫婦に見えなくもないのだけれど。
ないのだけれど。
「ともかく、貴女の人生分の金額は私達が握っているということで…よろしいですか?」
「ふふ、ふふふふふ…! ふにゃー! …確かに! 確かにアーリの命にはそれだけの価値があるニャ! しっかーし! 残念ニャがらアーリは今手持ちがないニャ! ニャいものはビタ一文払えないニャ! ニャ~残念だニャ~…アーリには間違いなく莫大な価値があるんだけどニャ~」
ミエの畳みかけるような言葉にいっそ開き直って文無しを堂々と告白するアーリ。
商人としてのプライドが色々傷つくが背に腹は代えられぬ
「それなら心配いりません。すぐに全額金銭で支払ってほしいわけではありませんから」
「え…そニャの?」
「はい、ええっとこう…分割と言いますか」
ミエの言葉に暫し黙り込んだアーリは…あることに思い当たり顔面蒼白となる。
「ま…まさかアーリの体をバラバラに切り分けて魔導師に売るつもりなのかニャ!? 確かに獣人の体には魔術の触媒になるかも的な希少部位が含まれてるって話ニャけども…!?」
「ああ分割払いってそういう…」
「やっぱり分割バラ売りされちゃうんだニャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
「ナンダソレ怖イ」
勝手にテンパって勝手に錯乱して勝手に絶叫するアーリ。
獣人としての性質か彼女自身の性格なのか、どうにも少々早とちりなところとそそっかしいところがあるようだ。
「ええっと…ここはそもそもオークの村ですから魔導師の知り合いとかそういうのは…」
「あ、ああ…そういえばそうだったニャ…」
「でもそっかー…分割で売ればお金になるんですねえ…」
「さらっと怖いこと言わないで欲しいニャン!?」
んー、と顎に指を当て少し考え込む体のミエを真っ青になったアーリが慌てて止める。
「まあ冗談は置いておいて」
「どっからどこまでが冗談なのニャ…?」
「置いておいて」
「ハイニャ」
「アーリさんには莫大な借財の見返りとして、三つほど用立てていただきたいものがあります」
「三つ…?」
「はい!」
ミエは嬉しそうに破顔して説明を始める。
「まず一つ。私達に村の外の様子を教えてください」
「様子ニャ…?」
完全に想定外の単語が聞こえて来てアーリは一瞬混乱した。
言葉の意味は理解できているはずなのだがどうにも頭の中で綺麗に繋がってくれなかったのだ。
「白状致しますとオーク族は他種族とあまり仲がよくありません」
「それは知ってるニャ」
「はい。それで外の世界の情報に少々疎いのです。書物を嗜み知識が豊富な方には心当たりがあるのですが、それでは刻一刻と変わる外の情勢がわかりません。その点商人ならお詳しいのではないかと思いまして」
「………………」
ミエの言葉に、アーリは居住まいを正した。
やや気を楽に猫背にしていたものをぴんと背筋を伸ばし、両手を膝の上に乗せ口元を引き結ぶ。
そして無言のまま視線で続きを促した。
「二つ目に教えていただきたいのは相場の情報です」
「相場…? なんの相場ニャ」
「ひととおり。ご存じのものを。この世界の…いえできればこの辺りの街ごとの様々な商品の物価を教えていただければ」
「…それが、なんでアーリの身代金と関わりあるニャ」
「あら、だって…情報にはお金がかかりますでしょう?」
ミエの言葉にアーリは片眉を吊り上げ、少し口を開く。
必死に自制しようとして、それでも隠し切れなかった驚愕が、その口元に滲んでいた。
「自分の命を対価に支払うものであれば商人は嘘をつかないと信用して…どうでしょう? 教えていただけませんか?」
一息ついたミエの前、アーリは一見すると不機嫌そうな表情で腕を組み、さらに脚を組んだ。
「いま『情報が金』と言ったニャ?」
先程までの様子と打って変わってすっかり真顔である。
「はい。商人に教えを乞うのですから、だいぶお高いものと認識しておりますが、そこをなんとか…」
ミエの返答にアーリはしばらく押し黙った後…椅子に大きく背もたれて深く息を吐いた。
「同業者と盗族と冒険者以外で…情報に金銭的価値があるなんて言う奴を初めて見たニャ」
「まあ、そうなんですか?」
そう、いやしない。
世の中に情報に金を払う価値があるだなんて考えている輩はまず存在しない。
特に貴族王族連中にそれが著しい。
奴らは商人達が情報を持っているのを当然、持ってくるのも当然として要求してくる。
その情報を手に入れるのにこちらがどれほど苦労しているのかも知らずに、である。
かつての苦い経験を思い出し鼻息を荒くするアーリ。
元手がなくて大きな商売を手がけられていない、いわば弱小商人に過ぎぬ彼女がなぜ貴族王族とのやりとりなんぞを記憶しているのかについてはひとまず置いておいて、ともかくアーリは目の前の人間族の娘をまじまじと見つめた。
ぴくぴく、とその猫ひげを揺らし、猫耳を立てる。
口元が抑えきれずニマニマと綻んでしまう。
明らかにミエの事を気に入った風である。
「しょうがないニャア…いいニャ。教えてやるニャ」
「まあ! 本当ですか!? ありがとうございます!」
肩を竦めいかにも面倒そうな素振りで許諾するアーリの手をミエがわっしと掴み顔を綻ばせる。
だがアーリはアーリで椅子の後ろで尻尾をピピンと立てご機嫌なのを隠せていない。
彼女の尻尾をおもちゃと勘違いしたのかコルキが前脚を上げ…椅子から飛び降りそれを引っ掴もうと跳ね回っていた。