第907話 ローラ
「キャス姉様」
「イエタか」
そこに教会の中からイエタが現れ、オーク達がどっと湧いた。
我先に彼女の元に群がらんとする彼らをキャスが制する。
「待て待て待て! イエタは今秘跡魔術を用いて魔力がすっからかんだ! 初級の回復呪文も使えはせんぞ! あっちの二人をこき使え!」
「ちょ…っ!?」
「キャスバス様ー!?」
「キャスバスィだ」
指さされた修道女二人が抗議の声を上げるがキャスは耳を貸さぬ。
オーク達もイエタの青ざめた表情で事情を察したのかそれ以上彼女の下に集まろうとはしなかった。
女に無理をさせない。
それがこの街のオーク流である。
今の騒ぎでようやくその樹から目を外すことができたキャスは、まだ少しふらつくイエタの横に立ち彼女の腰をそっと支える。
イエタがそんな気遣いに微笑んで、キャスがかすかに笑って返した。
「隊長×イエタ様イイヨネ」
「ナニ言ッテルイエキャスダロ」
「ナンダト」
「ヤルカ」
「ナニイッテヤガルイエタ様ニハミエノアネゴダロー」
「ナンダトー……一理アル」
「馬鹿言ウナミエアネゴコソミエ×キャスダロ」
「ナンダロキャスミエダ!」
「ヤルカ」
「ヤライデカ」
「お前ら聞こえてるぞ」
小声で体中に傷を負いながらそんな事を小声で熱く語り合っていたオーク達をキャスがぎろりと睨む。
無駄口を叩いていたオークどもがぴゅーと音を立ててその場から退散し慌てて倒れているオーク達の手当てに回った。
「連中も決して軽くはない怪我のはずなのだがな。オーク族というのは本当に頑丈だ」
もし自分があれほどの傷を負っていたらきっと立ち上がれもしないだろう。
出血多量で意識を失っているやもしれぬ。
「まあ……大きな樹!」
そしてイエタが今更ながらにそれに気づき驚きの声を上げた。
「あら、ということは先ほどの揺れはあれの…?」
「ああ。あの樹が生まれる時の震動だろうな」
イエタは目を細めその樹を見上げ、樹上に茂る青々とした巨大な葉を見つめる。
そしてほうぼうに咲いている黒い花を見てわずかに目を細めた。
「もしかして……これは世界樹なのでしょうか」
「おそらくな。私がかつて目にしたものとはいささか趣が異なるが」
「キャス姉様は見たことがおありなのですか?」
「ハハ。そうだな。私は確かに人間の街の貧民窟で育った半端にエルフと人間の血を引くだけの女だが、それでも色々功を立てればどちらの血の連中も認めざるを得ないものさ」
「…申し訳ありません。嫌な事を思い出させてしまって」
「いや、いい。気にするな。むしろ今のは私が少々自嘲が過ぎたな」
ぽり、と頭を掻いてキャスが反省する。
「…あれはサフィナの仕業か?」
「おそらくは。いえ間違いないかと」
「で、『あれ』は何者だ」
「………………………!!」
キャスの物言いに、けれどイエタは反駁しなかった。
確かにそう思われても仕方ない言動だったからだ。
「彼女は神聖語で呪文詠唱しました」
「あの小型の疑似太陽のようなものを招来した呪文か」
「はい」
圧倒的な魔力。
そしてそこから生まれたなんとも剣呑な効果の呪文。
さらになまじな術者では術者の力が足りず唱えることすら能わず、仮に唱える域に達していても詠唱時の術者への負担と苦痛から術の発動自体が困難という危険な代物。
あんなものを当たり前のように唱えられる者がそうそういるとは思えない。
そもそもサフィナはこれまであんな攻撃的な呪文は一度たりとも使ったことがないはずだ。
これまで彼女が唱えてきたのはそのほとんどが占術で、たまに補助魔術を交える程度である。
もしあんな高位の呪文を扱えたのなら、少なくとも赤竜襲撃の際に自分達に明かしているはずではないか。
「あの呪文の詠唱の中途、彼女の神聖語の中に人名らしきものが出てきました。『ローラ』という名です」
「人名……?」
ローラという名前自体はこの世界では比較的ありふれた女性名だ。
キャスもその名の女性を幾人も知っている。
だが呪文詠唱に名前が出てくるとなると話は別だ。
「魔導術の場合呪文名は魔術式を構築した魔導師が行うものだ。ゆえにどんな名でもあり得るし、人の名を冠したものも確かにある。〈魔術師ベルナデットの秘密の小箱〉などがその最たる例だな。だが呪文名称でなく呪文詠唱に人の名が唱えれるというのはついぞ聞いたことがない。神聖呪文には珍しくないことなのか?」
キャスの問いかけをイエタは静かに首を振って否定した。
「普通はありません。それに……」
「それに?」
「なんというか、その、途中から呪文の詠唱というよりは神聖語で誰かに語り掛けているような……」
「ふむ……」
神聖語は神々に祈りを捧げるためのものではあるが体系としてはあくまで『言語』である。
名詞もあれば動詞もあるし文法もきっちりある。
言ってしまえば神聖語で会話だって可能だ。
実際神の使いである天使族などは神聖語を常用語としている。
つまり神聖語で誰かに語り掛ける、というのは理屈の上では可能なのだ。
神に祈りを捧げる御言葉でそんなことをするのは不敬だからと聖職者たちが己を御しているだけである。
「つまりあの時のサフィナは、そのローラなる人物に話しかけていたと?」
「詠唱の内容だけ考えるなら、そうなります」
「………………」
顎に手を当てて考え込んだキャスは静かに片目を閉じた。
「で、そのローラとは何者だ。イエタには心当たりがあるのか?」
「私が知っている限り、神聖魔術に関わるローラという人物は一人しかおりません」
「ほう、いったい誰だ」
「太陽神エミュアの幼名です」
「!?」
ぎょっとしてイエタの方に驚愕の表情を向けるキャス。
「いえ、少し訂正します。『幼名』という言い方は聖職でない方にはピンと来ないかもしれません。私たちの間の隠語ですから。商用共通語の言い回しを借りるなら、太陽神エミュアが未だ人間族だった頃……先代の女神の後継となる前の名、いわば『人であった頃の名』です」
「いや、訂正されても驚きが変わるわけではないぞ!?」
「はい。存じております」
太陽の女神エミュアは代替わりをしている。
それくらいはキャスも知っている。
今のエミュアは元人間族だ。
それも知っている。
けれどサフィナの姿を借りてあの高位魔術を用いた存在が、その女神の人間族当時の名を呼び語り掛けたというのなら、それはまったく別次元の意味を持つ。
それはつまり太陽神の人間当時の名を単なる知識としてでなく知悉しており、語り掛けることのできる人物……
当代のエミュアが女神になる前の、ただの人間族の女性だった彼女と同世代の人物、ということになるからだ。
「どんな風に語り掛けていた」
「そうですね……対等な相手に対する、かなり砕けた口調のように聞こえました」
「神聖語で砕けた口調の会話をするイメージが湧かんな」
「わたくしも初めて聞きました」
互いに少しくすりと笑う。
「しかし……もしそれが本当に女神エミュア相手に語り掛けたとするなら……」
その人物は太陽の女神となった女性の人間当時の名を呼んだ。
そしてその人物は街の中心部に巨大な樹木……世界樹を生み出した。
かつては一介の人間族の女性だったとしても、今のエミュアは太陽の女神である。
それに対等な口を叩く以上その人物は「かつて定命の頃の彼女の知己」であり、かつ「女神となった彼女とも同等の存在」ということになる。
そしてその人物がこの街に世界樹を生み出した。
とすると……消去法からあの時サフィナの内にいた存在は一人しかありえない。
その女性の名はイリミ。
エルフ達の信仰する、森の女神に他ならぬ。




