第883話 教会の中の昼
「本当に…呆れたわね」
いつもとまるで異なる口調でサフィナが己の手足を検分している。
「なんでこんな無茶を……と言いたいところだけど状況が状況だし仕方ないかあ……さてイエタさん」
「は、はいっ!」
身長差的には大人と子供ほどもあるというのに、つい敬語で受け答えしてしまうイエタ。
今のサフィナにはどうにもそうした妙な『圧』があった。
「ひとつ呪文を唱えたいのだけれど少し貴女の身体を借りてもいいいかしら。この肉体だと幼すぎて耐えられません」
「わ、わかりました! ですが一体どうすれば……」
途中まで言いかけたところで教会が揺れた。
角魔族二体の掌から電光が放たれ、一体の腕から鎖分銅が放たれてイエタを襲ったのだ。
だが二条の電光はイエタの手前3フース(約90cm)ほどで拡散し、その直後に襲った鎖棘もまたその近くで弾かれる。
何らかの結界によって守られているのだ。
それはイエタが先刻わずかに回復したばかりの魔力で張り直した結界……のはずなのだが、少々様子がおかしい。
だってこれほど強力な結界ではなかったはずだ。
(結界が……強化されている……?)
一体どういう事だろう。
結界術を強化する呪文はある。
〈魔術強化〉などと同系統の、いわゆる魔術補正呪文という奴だ。
このサフィナが気づかぬうちに唱えていたのだろうか。
「余計な事は考えない! 大怪我しますよ」
「は、はいっ!」
目の前に結界を破らんと妖術を用い呪われた武器を放ちその巨大な質量の尾を放つ魔族ども。
上級魔族三体の猛攻である。
それを防ぎ続けている結界の威力もとんでもないが、流石にいつまでも保つかはわからない。
結界が破れる前に何か打開策を見つけなければ。
イエタは視界の端、魔族達の背後で剣を構えるキャスに気づきほっと息をついた。
もう戦う力は残っていまい。
だがそれでも人質にされぬよう全力で立ち回るつもりのようだ。
「時間がありません。手短に言います。まず右腕を前に突き出して」
「こうですか?」
サフィナ(?)に言われるがままに右腕を前に伸ばすイエタ。
「では次に肘から先を真上に向けなさい。掌はちょうど上に珠を乗せて掴んでいるかのように……そう、そんな感じです」
言われた通りにするイエタ。
それを見てものものしく肯くサフィナ。
「左手で右肘を掴んで。そう。力を入れ過ぎず抜きすぎず……それでいいです」
イエタの勘所の良さに少し目を細め感心したらしきサフィナは、そこで奇妙な指示を出した。
「では……『右肘』に意識を集中しなさい」
「はい、右……肘に?」
そんな指示これまで出されたこともない。
というか呪文詠唱にこんな動作要素を要求されたことすら一度もない。
イエタは困惑するがすぐに気を取り直して己の右肘を見つめ、呼吸を沈め意識を集中する。
「よいですね。ではそのまま集中を切らさずに。決して」
サフィナはそう告げると、己の右手をそっとイエタの右肘に添え。静かに詠唱を始めた。
「あまねく大地と森を照らす者よ。空と海を輝かせる者よ」
それは神聖語であった。
つまり神聖呪文の詠唱である。
だが先ほどと同じくイエタにはそれが何の呪文かさっぱり見当がつかなかった。
音声要素も。
動作要素も。
司教であるイエタにすらまったく聞いたことのない、未知の神性呪文である。
「汝の偉大、汝の慈愛、そして汝の畏怖を我が掌中に示せ」
詠唱は続く。
未だ何の効果も表れてはいない。
神聖魔術の本質は神が造り、聖職者はあくまで索引たる聖句を読んでその効果を引き出しているだけである。
ゆえに強力な呪文でも魔導術ほどに詠唱は長くならない。
これだけ長い呪文を唱えてもまだ何も起こらないという事はかなり珍しいことだ。
「光輝と焦熱、恵みと災厄。罪には罰を、天よりの罰を」
呪文は続く。
未だ効果の片鱗は見えぬ。
ただ妙な圧迫感と切迫感がイエタの胸を掻き乱し、彼女は静かに息を吐き精神を集中させた。
「……ああ、もう面倒くさい」
「??!」
唐突に、詠唱が変わった。
いやそれは呪文の詠唱というよりはまるで会話であった。
イエタにはそれが神聖語で放つ日常会話のように聞こえたのだ。
神聖語自体は本来神の言語であって、天界に於いては日常的な会話として使用されていてもおかしくないものだけれど、少なくともイエタはそんな風に神聖語を用いる者を見たことも聞いたこともなかった。
「貴女だって見えているでしょう、ローラ! これが放っておけますか!」
それはもう明らかに口語であった。
神聖語で為される対話に他ならなかった。
イエタはさも当たり前のように神聖語で愚痴を言い放つサフィナに目を白黒させる。
「いいから……つべこべ言わずに力を貸しなさい!!」
サフィナの叫びと共に……異変が、起こった。
イエタの右肘あたりに急激に魔力が集まり、次の瞬間激痛が走る。
いや痛みというよりそれは熱だ。
とんでもない熱量がイエタの右肘に集中していた。
「あ……く……っ!?」
あまりの熱に一瞬意識が飛びそうになる。
右肘を掴む左掌の力を強め、己の意識を無理矢理繋ぎとめる。
鼻につく、異臭がした。
肉の焼け焦げる臭いである。
よく見ると、肘を掴んだイエタの左手が焼け爛れていた。
添えられているサフィナの右手も焼けている。
皮が溶け肉が燃え骨が見えている。
彼女の右肘から感じていたのは比喩ではない熱だった。
そのあまりの高熱が彼女の左手を焼いていたのだ。
だがそれと同時に肘に添えられていた二人の手が強く白い光を放っている。
見る間に白い骨の上に肉が生まれ皮が戻りそれが再び焼けている。
≪再生≫である。
自然治癒では傷口は塞がって失われた肉は勝手に生えてこないはずだ。
一方で右腕の方はなんともない。
ただ己の左手を焼いた右肘に強い魔力が集まって……突如、まばゆい光を放った。
光っている。
右肘が光っている。
眩しい、熱い、目が痛い。
目を細め激痛に耐えながら、イエタはなんとか呪文消散せぬよう精神を集中させる。
この痛みと動揺で集中を切らさずにいられる聖職者はそうはいまい。
それを見てうむうむと頷いたサフィナはさらなる指示を出した。
「いいですね……見事です。ではその光に精神を集中したままゆっくりとせり上げて。光が肘から腕を通して掌の上に出てくるイメージ。ゆっくりでいいわ……そう、その調子」
痛みが、熱が、光芒が腕の中を通ってゆく。
肘から臂、手首を抜けてやがて掌へ。
先程までせめぎ合っていた左手の熱傷と再生が収まった。
熱源が移動したことで再生が勝り、今やイエタの左手はすっかり元の姿に戻っていたのだ。
肌が完全に新規に再生されたので現代人であればむしろ肌が美しくさえなっていたかもしれないが、イエタの場合種族性からか元々手はおそろしく奇麗であったため、元より奇麗ということにはならなかったようだ。
まああの火傷の痛みで精神集中を切らしてしまえば手が焼け溶けた状態のまま呪文消散していたのだろうから、気軽に美容には使えまいだろうけれど。
光が、生えた。
イエタの上に掲げた右掌の中央付近からまばゆい光が溢れ、その光の元がどんどんせり上がりつつその面積を、体積を増してゆく。
手首あたりに控えていた光の球がゆっくりと掌から顔を出したのだ。
「そう、そのまま! ゆっくりと……そう、掌の上、宙に浮かべるイメージ! そう、上手よ……!」
サフィナに言われるがままさらに精神を集中させる。
その凄まじい光そのものと言っていい熱源は、やがて完全にその姿を現した。
ごう、と音がする。
同時に部屋全体が真っ赤に染まった。
とんでもない高熱である。
その熱だけで人体など軽く燃え散り消滅してしまいそうだった。
いやそれどころかその熱は教会の石壁すら融解しかねない温度であった。
だが実際のところそれは教会を溶かしてもいなければ気化せてもいないし、イエタやサフィナだけでなく離れた場所にいるキャスも焼き焦がしたり蒸発させていない。
なにがしかの除外条件があるのだろう。
ただ猛烈に暑い、熱い、あつい。
イエタはそこでようやく自分達に対する魔族の攻撃が止んでいる事に気が付いた。
目をやると、角魔族どもがたたらを踏むように足をわななかせ、こちらから距離を取っている。
だが魔族は火属性に完全耐性があるはず。
当然付随する高熱にもだ。
ならば一体……
一体、この光は、なんだ。
ゆっくりと浮かび上がる光の球は、やがてイエタの頭上6フース(約1.8m)のところで止まった。
白と赤に染まる球体の表面には紅炎が舞い、まるでちろちろと火蜥蜴が舌をだしているかのよう。
サフィナは……その光が完全にイエタの制御下にある事を確認し、低く、小さな声でその呪文の名を告げる。
「 〈マトーサッレ〉」
ぞくり、とイエタは背筋を凍らせた。
凄まじい熱気の中だというのに、全身が総毛だった。
サフィナの口にしたその神聖語で、イエタは唱えた呪文の名を、そして己が呼び出したものの正体を悟ったのだ。
ちいさな、おひさま。