第860話 そして時は動き出す
剣を離せば時間停止に巻き込まれ、己の身体と密着させれば再び時を取り戻す。
相手側の攻撃は接触面が狭いためそれで剣が時を取り戻すことはない。
結果としてはクラスクの読みはすべて正しかったけれど、それは確証のない推論に過ぎなかった。
己の命を護る剣を目の前に放り捨てて、もしそれが停止しなかったら。
停止するにしてももっとタイムラグがあったなら。
仮に時間停止して剣が止まったとて、相手の攻撃でそれが再び動きを取り戻してしまったら。
そのいずれであってもクラスクの命は断たれていただろう。
そしてなんとか相手の攻撃を防いだとしても、その停止した剣を再び同じ時の流れに取り戻す事ができなかったなら、クラスクは相手の物理障壁を突破する貴重な方法を失う事になっていた。
そのどれもがリスクが高く、そしていざ発生してしまえば致命的なものばかりである。
だがクラスクは迷わず己の出した推論に身を任せ、敵の必殺の一撃を防ぎ、逆に攻撃のチャンスを生み出してのけた。
停止した時の中の戦闘という、彼にとって完全初見かつ初体験のただ中に於いて、である。
単に勘がいいというだけではない
その己の直観と判断に迷わず命を預けられる絶対の自信と決断力。
それこそがクラスク最大の強味なのだ。
グライフはクラスクの動きを警戒し、間合いの外から妖術を空中にセットしつつしなる長い長い尾で攻撃してくる。
薙ぎ払うだけでなくその尾は刺突も可能で、まともに喰らえばクラスクの胴体に大穴が…いやサイズ的には胴に空いた穴でクラスクは上下に分かれ吹き飛んでしまうだろう。
クラスクはその尾の一撃を斧で受けた。
凄まじい圧力で放たれたその尾の刺突を横に受け流すように斧の横刃で受けた。
だがそれは単なる長槍ではない。
強靭な筋肉を纏った生ける尻尾である。
クラスクの横を通過したその尻尾の先端は、宙空でぐりんとその向きを変え、未だ斧刃で通り過ぎる尻尾の腹を受け続けているクラスクの背後から、その頸椎目掛けて襲い掛かった。
が、そこでクラスクがぐるんとその身を翻す。
その剣を両手に持って自ら尻尾の先端へと向かってゆく。
巨大な質量を伴った尻尾を受け続けている限りまともに動けないはずなのに。
斧は、空中で固定されていた。
クラスクは攻撃を受ける瞬間斧を手放し、時間の流れを変える事でまた不壊の防壁としたのだ。
だが今回は前回と同じようにはゆかぬ。
鉤爪の刺突は一点を貫かんとしたがゆえに剣に接触した面積が狭かった。
それも攻撃は一瞬で、それでは静止した剣を動かすには足りなかった。
だが今回の相手は巨大な尻尾である。
それも斧の横をずっと通過し続けている。
クラスクだけでなく、グライフもまた周囲の時間を己に同調させる効果を持っている。
ゆえにその尾を受け続けている内に、クラスクの斧は固定された時間から解き放たればちんと宙を舞った。
…が、その時既にクラスクはその場にいない。
僅かに稼いだその時間で自ら尾の先端目掛けて突撃していた彼は、聖剣を一閃させ先端の角に斬りかかった。
ぶわん。
恐ろしい角度で尾の先端が上に逸れ、クラスクの攻撃を避ける。
そしてそのままぐりんと宙でねじ曲がり頭上から再びクラスクを襲う。
けれどクラスクはその一撃を首筋ギリギリでかわし、目の前を地面目掛けて落ちてゆく尻尾を剣で薙ぎ払った。
避け切れず、尾の一部が斬り払われる。
びちん、とその尻尾は大きく跳ねて勢いよく縮みグライフの下へと戻ってゆく。
フフンと得意げに鼻を鳴らしたクラスクは、尾に弾き飛ばされた後すぐに空中で停止した斧の先端から柄にかけてを己の腕に押し当てて、再び時間を戻……
…らない。
「アレ?」
ぺちぺち、と腕を押し当てるが、やはり戻らない。
力を込めて柄を掴み、ふんふん、と強引に動かそうとするもびくともしない。
まあこれは当然である。
好機と見たのかグライフが妖術を発動させ宙に浮かべ静止させながら再びその尻尾がびゅるんと蠢かせ、クラスク目掛けて解き放った。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!?」
追い詰められたクラスクは、遂にぴょんと宙を跳び斧を抱きかかえるような恰好で宙に静止した。
一瞬遅れて斧の時間がクラスクと同期され、強くつかんだがゆえにクラスクの肩が少し斧刃で傷つくも無事着地、慌ててその場を後にして距離を取る。
「アイタタタタタタタ……ソウカ斧ハ幅あルカラカ」
肩の傷をさすりながら斧を担ぎ直すクラスク。
その肩からの出血は、だが自らの斧に吸われてはいない。
もしかして主人として曲がりなりにも認められているのだろうか。
それともクラスクを生かしておいた方が結果的により多くの血が啜れるという打算の産物なのだろうか。
まあ呪われた出自の斧に主と認められるのもそれはそれで迷惑な気がしないでもないけれど。
先程の剣と同じやり方で斧の時を戻せなかったのは単純な話、斧刃の幅の問題である。
剣の刀身はまっすぐだが、斧の場合その刃が横に大きく突き出ている。
剣であれば腕を押し当てる事でその全身が時の流れを加速させクラスクと同期されたけれど、斧の場合は腕を押し当てただけでは刃の部分に接触がなく、結果時が戻らなかったわけだ。
最終的にクラスクが抱き着くことでその胴体に斧全体が押し当てられ、時が戻る契機となったわけである。
「ウン……?」
空中に制止した妖術から逃げるべく横に回り込もうとしていたクラスクは、そこで妙な違和感に気づいた。
空が少しずつ明るくなっている気がする。
そして妙に青黒かった周囲の人影……彫像が如く硬直している魔族や冒険者達に少しずつ色がついているように見えるではないか。
「これっテ、モシカシテ……」
「そうだな、時が戻りつつあるようだ」
「こんな感じカー」
悠長に会話しているのは現在彼我の距離が離れすぎているからだ。
ここから一瞬で間合いを詰める事はできないし、飛び道具は時が止まってしまう。
互いに手が出しようがないがゆえにこうした会話が成立する。
ぼんっ!
「ウン?」
遠くで、何かが弾けるような音がした。
それと同時に空がみるみる明るく(元々昼間なのだが)、そして周囲が次々と色を取り戻してゆく。
ぼん! ぼぼん! しゅぼばばばばばばばばばば……っ
「ナンダこの音……ウオッ!?」
遠くで聞こえたその音は、次々と連鎖的に響きながらみるみる近づいて、遂にクラスクの背後で大きく音を立てた。
それと同時にクラスクは背中を強く引かれるような感覚と共に思わず一歩後ずさる。
クラスクはそこでようやく気がついた。
これは空気の音に違いないと。
先刻彼は停止中の世界で行動できる者……即ちクラスクとグライフの周囲には時の流れを自分達と同調させる効果…領域のようなものがあるのではないかと推測した。
そうでなくば空気の壁が邪魔して停止した時の中を自由に動く事はできないだろうと。
その推測は正しい。
二人の周囲以外の空気もまた完全に停止しており、目に止まるレベルで動くことはない。
だが二人が移動すればその付近の空気だけは影響を受け彼らの動きに合わせ激しく流動し……
……そして、二人が離れた直後に再び硬直する。
だがそれは先刻と同じ状態ではない。
クラスクが、グライフが派手に動くのに合わせ、大気が激しく流動した後に再び固まったものだ。
それはもし時が停止していなかったとするなら、一瞬にして大気が超高速で攪拌されたようなものである。
それが、ずっと。
二人が最初に立っていた地点から、ずっとずっと続いている。
その空気の乱れが、時の流れが戻った時に一気に決壊し派手な音と共に気流を乱しているのだ。
クラスクが背を引っ張られたのもそのせいである。
超高速で動いた大気が、一瞬暴風のように吹き荒びクラスクを引き寄せたのだ。
時間停止にこうした副産物があるのなら、次からは一方的に時を止められてもある程度動きが予測できるかも……などと考えていたクラスクは、そこであることに気づき、ゾッとした。
これまでグライフが大気中に設置していた妖術……クラスクをひとつところに留めず移動を強要させていたものども……それが時の流れが元に戻るのに合わせ、一斉に動き始めていたのだ。
『今』
『クラスクがよろめいているその場所に』
『すべて』
呪文は途中で狙いは変えられぬ。
詠唱を終え、呪文を唱え終わった時点で狙い自体がつけ終わっているからだ。
妖術も同じである。
つまりグライフは……最初から全ての妖術をこの地点に向けて放っていたことになる。
そう、なんとか渡り合えっているように見えて、クラスクはまんまとここまで誘導されてしまっていたのだ。
それも初見では気づき得ぬ、時間停止解除時に発生する大気の急激な乱れによって生じる隙を狙われて。
「嘘ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!?」
数十の攻撃系妖術が一斉に……
身動きの取れぬクラスク目掛けて放たれた。