第802話 扇動
「きゃああああああああああああああああああああ!」
「なんだ! どうした!?」
「コルキ様が! コルキ様が突然人と襲ったんだ!!」
「そんな…そんな馬鹿な!!」
先程の放送で皆の気が立っているところにコルキのこれである。
現場な半ばパニックに陥り大いに混乱をきたした。
「だすげで! だずげでえ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛っ!!」
コルキの右前脚の下に女性がいる。
この街にやってきた観光客だ。
彼女は絶望と苦痛に顔を歪めながら涙目で助けを懇願している。
「た、助けてって言っても……」
「一体どうすれば……!」
コルキはこの街の太守夫妻が飼っている飼狼であり、おいそれと手を出していい存在ではない。
クラスクはオーク族であり、さらに言うならそんなオーク達の中でも一際強大なオークなのだから。
なにせ王国から討伐にやってきた騎士隊長を一騎打ちの末撃退し嫁にして、地底軍の襲撃を二度にわたり退け向こうの大将を討ち取り、近隣のオーク族をすべて平らげその上に立ち大オークを名乗り、かの伝説の赤竜すら討伐してのけたのである。
オークでなくとも伝説中の伝説の人物と言っても過言ではなかろう。
そんな彼が大事にしている聖獣である。
迂闊に手を出したら太守クラスクに何をされるかわからない。
なにせクラスクはこの街の絶対存在。
この街で彼に敵う者は物理的にも社会的にも存在しないのだから。
さらに言えばコルキはそんな彼と共に幾度も死線をくぐった歴戦の戦士である。
クラスクをその背に乗せ、或いは彼の横で戦って、赤竜討伐にも参戦した伝説の獣なのだ。
素人がどうにかしようと思ってできるものではないのである。
そんなコルキが……今どう見ても乱心としか思えぬ行為を働いている。
彼はこれまで一度たりともこんな行為をしたことはなく、それゆえ街の者達の混乱は著しかった。
「んまあ……コイツ、もしかして魔物なんじゃないか?」
そんな時……雑踏の中から声がそんな聞こえた。
「魔物?! お前一体何を言って……」
「だって見ろよこの大きさ! 魔物になると巨大化するって言うじゃないか。こいつはまさにそれだろ!?」
その強い口調に反駁しようとしていた相手の語調が弱くなる。
「いや……いやいやでもコルキ様はこれまでこの街を何度も……」
「でもこいつは肉食獣だ! それに魔物はとても賢いっていうじゃないか。これまでずっと俺達を騙してて、魔族が襲来してきたこのタイミングで正体を現したのかもしれない! きっとそうだ!」
ざわ……
周囲の人垣がざわめく。
コルキが周囲を見回すと、彼らは一歩後ずさった。
彼の足元から聞こえる悲鳴と呻き声と救いを求める声。
騒ぎ立てる男。
ざわめく群衆。
コルキは雑踏に紛れ己を中傷する男をじろりと睨みつける。
男はびくりと怯え震えながらさらに語気を強めた。
「見ろ! あいつには知能があるんだ! 自分の悪口を言う俺が邪魔なんだ! 魔物だ! 魔物に違いない! お前らだっていつ踏みつぶされるか分かったもんじゃないぞ!」
怯え。
畏怖。
恐怖。
コルキを取り囲んでいる者達にそんな感情がみるみる伝播してゆく。
それは決してコルキ自身が望んだことではなかった。
オークどもだけならこんなことにはならなかっただろう。
彼らはそも魔物自体を恐れていない。
肉食獣なら狩って喰えばいいだけだ。
だって魔物だろうとそうでなかろうとしょせん肉には違いないのだから。
初期からいる花のクラスク村の娘達や、この地にあった廃墟の上に誕生したクラスク村の初期の住人達もまた、こんな流言に惑わされはしなかっただろう。
彼らはコルキとの付き合いが長く愛着もあるし、コルキが何かするならきっとなにかの理由があるはずだと信じて疑わぬだろう。
けれどその後にこの街に来た者たちには彼に対するそこまでの強い信頼がない。
彼らがコルキを受け入れているのはひとえに彼の実績とその積み重ねがあるからに他ならぬ。
コルキ自身を心から信じているわけではないのである。
『あれ? なんか魔物みたいだけど人を襲わないんだ?』
そんな怯えとも疑問ともつかぬ想いを抱きながら、だが己より前からいる住人達が受け入れているから受け入れざるを得ない。
これまでそんな風に過ごしてきたのだ。
簡単に言えば彼らにはコルキとの絆がないのである。
今回の暴挙にも等しいコルキの行動。
これにはもちろん彼なりの理由がある。
あるのだが……現状彼は己に向けられる暴言に対して為すすべがなかった。
彼は事実を伏せられているだけで実際のところ魔物で間違いないのだし、知能が高いのもまた事実である。
俺に対して放たれた暴言も全て理解できている。
だが……彼はそれに反論を行うことができぬ。
彼は狼であり、その声帯では人型生物の言語を模倣することができない。
彼は共通語を理解できてはいても共通語を話すことができないのだ。
みるみる広がる忌避と差別の目、目、目。
調子に乗ってまくし立てる群衆……正確にはその一部。
けれどコルキはそれを止めることができぬ。
相手は群衆に紛れて巧みにコルキから身を隠している。
端的に言えば他の群衆たちを盾にしているのだ。
そうすればコルキが手出しできないと理解しているのである。
「石を投げろ! 追い出せ! 魔獣を街から追い出せー!」
男がそう叫んだ。
コルキを指差して。
そうして煽られ追い詰められた群衆の血走った眼がコルキに注がれようとしたその瞬間……
鐘が、鳴った。
ガラーン、ガラーンと。
街中の鐘が鳴った。
現在のクラスク市には柱時計があちこちに立っており、正確な時間を知らせてくれる。
一時間に一回街中の鐘を鳴らしてくれる。
だが今はそんなきっかりとした時間ではない。
近くの柱時計が指しているのも中途半端な時刻である。
鐘が鳴るようなタイミングではないはずなのだ。
なら……これは一体何を知らせる鐘の音だろうか。
目に見えない『何か』が、ある一点から広がった。
ちょうど不可視の壁がその地点からドーム状に周囲に広がってゆくイメージだ。
それが店を、人を、全てすり抜けて…街全体を覆ってゆく。
「やれー! やっちまえ! その化物を殺せー!」
先程の男の叫びがまだ続いている。
だがその声の主は調子に乗っていて気づかなかった。
いつの間にか彼の声に周囲が引いていたこと。
そして己の声がやけに醜く、そして薄汚く、甲高いものになっていたこと。
「お、おい、お前……」
「え? なんだよ?」
「お前の、姿……」
「あん?」
先程からコルキに対する罵詈雑言を並べ立てていた男はそこでようやく違和感に気づいた。
己の赤銅色の肌に。
そのねじくれた細い腕に。
男は……魔族だった。
小鬼と呼ばれる小型の魔族が妖術でその姿を変じていたのだ。
「ヒッ!」
ぎぬろ、とコルキに睨まれ、一瞬で立場が逆転した事に気づく小鬼。
彼は素早く己の羽を広げ尻尾を伸ばし、近くの女性の首に巻き付けた。
「きゃっ!?」
「ク、来ルナ! コイツガドウナッテモ……!」
だがそれより早く、コルキの背から次々と何かが射出される。
「キャン!」
「キャキャン!」
「キャキャキャキャン!!」
甲高く吼えたその弾丸は、次々にその牙を剥き出しにして小鬼の鉤尾に、そして羽に噛みついた。
コルキの子供、仔狼達である。
「ギャッ!?」
小鬼が叫び、尾を緩ませる。
その隙に近くの子供…先ほどコルキに怯えて逃げ出そうとしていた娘…が小鬼に巻き付かれていた女性の袖を引っ張り、小鬼の傍から引き離す。
小鬼は魔族の中でも低級の実力しかない。
だが弱いながらも物理障壁を備えており、鍛えた兵士が斬りつけたとてかすり傷程度しか追わないはずだ。
だから民間人に集団で襲われたところで蚊に刺されたほどにも感じぬだろう。
にも関わらずコルキの子供たちの牙は小鬼に痛みとダメージを与えていた。
コルキ同様魔物の属性を有する彼らの牙は小鬼の物理障壁を突破できる条件を備えていたのだ。
「貴様ラァ!」
小鬼が暴れ、その羽と鉤爪で仔犬たちを八つ裂きにせんとする。
けれど危険を察した仔犬たちはそれより一瞬早く両手両足を広げてばっと小鬼の身体から離脱していた。
ぞり、という音がした。
小鬼が暴れるより一瞬早く。
それは地面を引っ掻く音だった。
コルキが踏み潰し己の脚の下に置いていた女性を地面ごと引き裂いた音である。
鉤爪が石畳を飴のように引き裂く。
その上にいた女など物の数ではないだろう。
いや……違った。
彼の脚の下にいたのは女性ではなかった。
というかそもそも人ですらなかった。
いつの間にやら、そこには……
ぐるぐるに包帯を巻かれた魔族が引き裂かれ転がっていたのだ。
そう、仔犬……もとい仔狼達は小鬼の攻撃を避けたのではない。
もっと大きな危険から本能で離脱したのである。
そして先ほど女性を人質に取ろうとしたことで周囲の者達から距離を取られていた先刻の小鬼は……
そんなコルキの巨大な前脚に潰されへしゃげ、そのままその爪で三枚に下ろされたのだった。




