第762話 緊急事態
「はいはいどなたでしょう……あら?」
ガチャリ、社屋正面玄関を開けた新聞記者……まだ記事の一本も書きあげたことのない新米だが……ドールゥが目を丸くした。
「修道女様? うちの会社にどのような御用件でしょうか?」
ドールゥの声に社長のガレントと筆頭記者(消去法)のトレノモもまた顔を上げた。
「修道女? 誰だ? 天翼族か」
「このあたりじゃ見ない顔ですね」
そんなことを呟きながら二人もまたその修道女を注視する。
この近くにも教会はあり、修道女がこの会社に訪れること自体は別段珍しくはない。
近隣の家々を周り祈りを捧げて歩くのは教会の見習いたちの修行の一環でもあるからだ。
複音教会も近くあるため天翼族の修道女もちょくちょく見かけはするけれど、その扉の向こうも立っている女性には誰も見覚えがなかった。
だがそれもむべなるかな。
彼女の教会があるのは町はずれの丘の上で、彼女自身の日常の入用品などももすぐ丘下の青空市場などで済ませてしまうため街の対岸近くにあるこのあたりには滅多に訪れることがない。
彼らが見覚えのあろうはずがないのである。
またその様子もいささか奇妙だった。
神に仕える者は信者達に不安を与えぬよう常に落ち着いた態度や立ち居振る舞いで他者と接するよう己を律している。
だというのにその修道女は息を切らせ、頬を紅潮させ、胸を押さえながら扉の前に立っていたのだ。
相当な急用とみていいだろう。
ついでにその背後に不気味な容貌の猪獣人もいる。
こちらも息を切らしており、口の脇に生えた反り返った牙が正直とても怖い。
彼女の纏う厚めの修道服に荒い息、さらに紅潮した肌とくれば一部の性癖を持つ者にはだいぶ突き刺さる姿ではあるが、流石にその場にいた者は誰一人そうした劣情を抱くようなことはなかった。
この世界の者達は自分達が神の被造物であるという強い自覚を持っており、その神の使者であり時に代弁者でもある神父や修道女は尊敬の対象であって劣情などを催す相手ではないのである。
今の彼女の様子に欲情できるのは相当に肉欲が強く信仰心の薄い種族だけだろう。
オーク族とか。
「失礼します」
ともあれその修道女は息を整え、紅潮した頬のまま新聞社の中へと入ってきた。
そしてその後に猪獣人のユールディロがのっそりと続く。
「こちらクラスク新聞社さんでよろしいでしょうか」
「はい、確かにうちはその新聞社ですが…」
「魔導師の方はいらっしゃいますか? クラスク市との定時通信を担当されている方です」
「「「!!」」」
修道女の発言にその場にいた社員一同が一瞬身を固くする。
特段秘密にしているわけではないのだが、それでもクラスク市との魔導通信はこのクラスク新聞の要である。
それを突然やってきた相手にずばと言われればそれは多少なりとも警戒しようというものだ。
「その通信士とやらに何かご用件ですかな」
社長のガレント子爵が顔色一つ変えずにうそぶきカマをかける。
だがその修道女はなおも真剣な面持ちで話を続けた。
「私の名はリムムゥ。町はずれの複音教会の修道女を務めている者です。このたびクラスク市最高司教たるイエタちゃ…イエタ様から〈聖戦〉による啓示を受けこちらにまいりました。お疑いでしたら太守クラスクよりの言伝も授かっております」
「「「!?」」」
すらすらとこの新聞に関わる者達の名を挙げられて一同は瞠目した。
「これはこれは……ですが天啓とは? 天翼族が〈聖戦〉とは穏やかではないですな」
〈保存〉、〈祝福〉などのように、呪文でありながら一般人に当たり前のように知られているものがある。
あまりに有用かつよく使われるため一般名詞と化してしまった呪文たちだ。
〈聖戦〉はそれらの呪文に比べれば使用頻度が圧倒的に少なく、一般名詞というほどにはメジャーではない。
だがその使用回数の少なさの割には圧倒的な知名度を誇る呪文である。
それはこの呪文が使われる時が歴史上常に劇的かつドラマチックだからだ。
国を滅ぼした竜に亡国の王が戦いを挑む時。
圧政に苦しむ民衆が一斉に武器を手にして蜂起する時。
そして魔族たちが支配する瘴気に満ちた荒野に命を賭けて飛び込む時。
そうした時この呪文は常に人型生物達の大きな助けとなって彼らを勝利に導いてきた。
筋力や耐久力を始めとする強力な身体強化補正と、戦士としての戦闘力の向上。
これは戦いの経験が一切ない人物さえ城の兵士並の技量を与える強力なもので、それこそ安物の剣一本握ったことすらない農婦にさえ戦い抗う力を手に入れるとされる、
それだけに体制側には危険視され、王宮勤めの司教以外使用を禁じている国もあるほどだ。
そんなに強力な呪文ならかつての赤竜退治の際クラスク達も使えばよかったのでは…となるが、そうそううまい話が転がっているわけはない。
パーティーに参加しているメンバーの種族がすべて異なり、さらに信仰も皆別々で、クラスクとミエに至ってはどの神にも帰依していないという不信心者だったのである。
これでは種族の存亡を賭けた〈聖戦〉になりようがないというものだ。
実際高レベルの冒険者などでもこの呪文を目当てに信仰を揃えているパーティなどもおり、集団戦力の強さの要の一つとして重視されている呪文である。
まあ種族が異なる方がそれぞれが得意分野に特化できる分多様性に富み総合戦力が上がるというメリットもあるため一概にどちらが正とは言い切れないのだが。
ともあれそんな〈聖戦〉の呪文を受けて天翼族がやってきたと言えばそれは誰だって緊張するだろう。
天翼族はそうした争いが無縁の平和主義者であるからこそ他の種族の街に入り込み布教が許されてきたるのだから。
「誤解なさらないでください。〈聖戦〉を受けたのは私一人だけです」
「一人? たった一人で神の代行者にでもなるおつもりで?」
ガレント子爵のやや皮肉がかった質問にリムムゥは静かにかぶりを振って否定する。
「いえ……イエタさ…様は〈聖戦〉を通信としてお使いになったのです」
「通信……?!」
「一体何のためにそんなことを……?」
「はい。現在水晶球などを用いた遠隔通信は全て魔族によって監視され封じられている恐れがあるそうです」
「「「魔族!?」」」
ぎょっとして目を丸くする一同。
リムムゥと一緒に新聞社に乗り込んできたユールディロだけがきょとんとした顔である。
「まぞく……ってえと、悪いやつだ」
「はい。ユールディロさん。少なくとも私達人型生物にとって最大の天敵と言っていいでしょう」
「その魔族が……魔術通信に何か仕掛けを?」
「いやいやいや。なんで魔族がそんなことできるんですか。ドルムが落ちたとでもいうんですか」
「私も詳しくは知りませんが……とにかくクラスク市から急ぎこちらに連絡を取りたかったけれど、向こうからの通信の結果こちらの通信士が魔族の術中に落ちてしまう恐れがあるとのことで、私に指示をくださりこうして駆け付けたわけです。定時連絡は明日の夕刻と伺っておりますが、今から急ぎクラスク市へと連絡が欲しいとのことでした」
「なるほど……つまり聖職者である貴女の魔術でうちの魔導師を魔族の奸計から護ろうと、そういうおつもりで?」
ガレットの言葉に…リムムゥは静かに、だが力強く頷いた。
「はい。微力ながら全力を尽くさせていただきます」




