第734話 (第十五章最終話)誤算の憧憬
複音協会の内陣…教会に入って正面一番奥にある聖職者しか立ち入れぬ聖なる領域…の手前、外陣の身廊…信者の座席のあるあたり…にて、この教会の修道女、リムムゥが新聞を読み上げる。
その新聞という名の紙面には、まず一面に大きな情報が載せられており、次のページからはアルザス王国の様々な情報が記載されていた。
そこにはリムムゥが知っているものもあれば初めて聞くものもあり、彼女以外の連中には聞いたこともない話ばかりであった。
つい先日発布された政令すら彼らはここにいる聴衆たちはよく知らず、感心の声を上げて聞き入っている。
なぜ己の街の事でありながら何も知らぬのか。
それはこの場末の教会に集まるのは少数種族および下層の労働階級ばかりであって、下層階級の彼らにはそうした知識や情報を知る機会もなければ知る意義も意味もさほどないからだ。
上から言われたことに諾々と従うくらいしか彼らにはやることがなく、そうした知識があってもなくてもあまり関係ないのである。
まあ中には後ろの方で聞き入っているノームのように高い知力はあってもその全てを己の研究に向け世間にはほとんど興味がない、といった連中もいるのだが。
そして王国についての情報の次…新聞の後半にはクラスク市に関する情報が載っていた。
これには皆瞳を輝かせ、興味深げに耳を傾ける。
その新聞の購入主、猪獣人ユールディロが身を乗り出したのもこのあたりからだ。
遠く離れた街…それもオーク族の作った街の様々な情報である。
先程までの記事と異なり彼らの日常生活とは乖離しているけれど、いやむしろその分、単純に娯楽として楽しめそうな話ではないか。
つい先日発表されたばかりの最新情報から現在の政治方針、街の工事の進捗状況、水道管の敷設率、この季節のおすすめ観光スポット、名物料理店の季節の特別メニュー…などなど。
遠く離れた街の昨日までのとびっきりの新鮮な情報がこれでもかというほど詰め込まれていた。
さらにはその先は国や街などの地域に限定されているわけではない情報…たとえば生活の知恵や季節の情報、様々な物の考え方や捉え方、そしてオーク族をはじめとする多くの種族についての情報や豆知識…などなどが載っていたのである。
「ほへー、いろんなもんが載ってんなあ」
「いや驚いた。すげーなシンブン」
そこまで聞き入った彼らは満足げに息を吐いた。
知識や情報というものに疎い彼らでも、わかりやすく解説されていれば理解できるものもある。
そうして手にした知識をもとにすれば、そこから新たな事気づけたり学べたりする。
知を得ると言う事それ自体が新たな知識を手にするための助けと手がかりになるからだ。
新聞は彼らにそうした一種の知の爆発を引き起こし、新たに己の内に入ったその力の余韻に皆どこか酔いしれていた。
後半に載っていた連載小説とやらにも彼らは興奮し胸躍らせた。
まるで吟遊詩人が語る物語ではないか。
まあすぐにぶつ切りとなって終わってしまったのだが、どうやらまた三日後に発刊されるという次の新聞に続きが載るらしい。
彼らは是非また読みたいという思いを強くし、己もこの新聞とやらを手にしたいと感じたようだ。
「あとは……あら? なんでしょう。またこの街の話題ですね」
「え? なんだなんだ?」
「何が書いてあるんですルムムゥ様」
「ええっと……」
さっきまでとは毛色の違う書き方にその修道女は少し眉根を寄せて新聞に顔を近づける。
「ああ…これ王都のお店のお話ですね『ルッケルト商店にて今日は鶏肉が安い!』 とか『アギレウス商会新規書籍入荷!』とか…ええとお値段は…」
リムムゥが読み上げる言葉とその値段の一部に彼らは目の色を変えた。
「なんてこったこりゃ急がんと!」
「その値段ホントか!? 急いで買いに行こう!」
「リムムゥ様! ありがとうございます! それじゃ!」
「ユールディロもありがとな! 今度の新聞は俺らが買うよ!」
話を聞いていた一同が我先にと教会を飛び出してゆく。
全員同じものが目的ではないかもしれないが、どうやら店側の目玉商品の情報提示は上手くいったようだ。
問題は買ってすぐ売り場の近くで読みふけっていた連中より彼らがそれを知るタイミングがだいぶ遅かった事であり、商品が未だに他のに残っているかは不明であると言う事だが。
ともあれこうして教会には静謐が戻り…
修道女リムムゥと猪獣人ユールディロだけが残された。
「…ユールディロさんは行かれないのですか?」
「すまねえリムムゥ様。もう一度読み直してもらってもいいか?」
「はい。それは構いませんけど…最初からですか?」
「うんにゃ。途中からだ。クラスク市の話とそっから先を聞きたい」
「わかりました」
言われるがままに再び新聞を読み聞かせるリムムゥ。
それを妙に真剣な面持ちで聞いているユールディロ。
まあ猪獣人である彼の表情が読み取れるものは多くはないのだが。
…彼は荷役である。
荷役とは荷物の運搬や上げ下ろしなどをするのが仕事だ。
例えば船舶に荷物を積み込み、或いは港に到着した船から荷物を下ろす。
もっともアルザス王国は盆地であり、国内に海に面した場所はない。
ゆえにここでの荷役と言えば基本荷馬車などへのそれだ。
彼は己の仕事をこれまで疑問を持ったことがなかった。
彼の獣人としての特性である怪力を活かせるし、他の街との交易が途切れることがないように彼の仕事がなくなることもない。
充実や遣り甲斐と言ったものはないかもけれど、格別不満もなかった。
もちろん彼の容貌や素行に対し陰口が叩かれることはある。
獣人の知能について口さがない噂をする者もいた。
だが彼より大荷物を運べる者は誰もおらず、それゆえ彼は大して気にも留めてこなかった。
ただ…何も悪いことをしていないのに、あからさまな差別を受けることはあった。
彼が獣人の中でも猪の獣人だからである。
例えば狼は肉食性だ。
猫や虎もそうである。
肉食獣は人型生物の肉を喰らう事で魔物に変じてしまう。
人型生物としては危険な、街の近くで見かければ即駆除すべき対象だ。
本来であれば彼ら肉食獣もまた神々…その多くは大自然と獣の神ヌオラックが作り給うたものであって、無闇に殲滅すべきものだではない。
あくまで人里近くにいる連中だけ狩ればいい話であって、わざわざ遠くに出向いてまで撃ち殺す対象ではなく、離れた場所同士であれば互いに共存してゆける。
ただ魔物に対する恐怖はそうした判断を鈍らせる。
肉食獣であればとにかく危険で駆除すべき、という誤解や偏見を持つ者も少なくない。
冒険者に対する依頼でもそうしたものが見受けられるほどだ。
ゆえに獣人の中でも肉食獣の獣人に対しては特に風当たりがきつくなることがある。
暴言などはまだいい方で、いわれのない暴力を受けることすらあるのだ。
猪は、雑食である。
畑を荒らし作物を喰らうが、必要なら肉も喰らうし、その結果魔物になる猪もいる。
例えば以前中森でオーク達に狩られ食料とされていた猪の中にもそうして魔物と化した猪がいた。
豚は猪を家畜化したものであり、そして農家の中には養豚を営むところが少なくない。
他の家畜に比べ数を増やしやすいからだ。
ただこの世界の豚は基本放し飼いで近くの林などで餌を採ることがも多く、結果そのまま逃げ出して野生化してしまう個体も稀に発生する。
そうすると彼らは一代や二代で簡単に野生へと戻ってしまい、その結果魔物となってしまう例も稀ではあるが散見された。
そうした面もあって、彼はこれまでいわれのない偏見に晒され続けてきた。
ユールディロが新聞に強い興味を示したのはそれがクラスク市について色々書かれたものだと耳に入ったからだ。
クラスク市…醜いオーク達が作った街。
醜さについては自分がどうこう言えることではない。
けれど彼らが受け続けた偏見についてはとても興味があった。
オーク族は人型生物全体の敵だ。
そのはずだ。
悪口を言われながらも、陰口を叩かれながらもまだ街中で仕事できる獣人族よりはるかに酷い扱いの種族だったはずだ。
そんな彼らが街を作った。
いったいどんなものなのか。
なにをしているのか。
それが純粋に彼の興味を惹いたのだ。
そして今日…彼は知った。
知ってしまった。
クラスク市がどういう街で、そこのオーク達がどういう暮らしをしていて、そして他の種族とどう上手くやっているのかを。
ユールディロは興奮した。
『こんな生き方もあるのか』。
それを思い知らされたからだ。
偏見に晒され、差別を受け続け、他の種族と会えば殺し合いになっていたオーク族がこれほどに文化的で、魅力的で、そして他種族と仲良くしている。
その発想自体が、彼には衝撃だったのだ。
ユールディロはきっと次の新聞も買うだろう。
そしてさらにその次も。
そうして新聞を読み続けた彼は……やがてクラスク市への猛烈な憧憬を抱くことになる。
ミエの作戦は上手くいった。
アルザス王国の者達にクラスク市の魅力を伝える…その試みは大成功だった。
ただ……これまで知られていなかったクラスク市の魅力を強く知らしめるということは、アルザス王国にいながらクラスク市に好意を抱く、という関係を得ると同時にアルザス王国からクラスク市へと移り住みたくなる層を大量に創出しかねない音を、彼女は考慮に入れていなかった。
このことが大きな問題になるのかどうか……それはまだわからない。
『そこ』に至るその前に、クラスク市は大きな存亡の危機を乗り越えなければならぬのだから。




