第643話 歩廊を歩いて
「城壁を…ですか?」
「ええ! そうなの! この奇麗な街を上から一望したいなあって…ダメ?」
そう、城壁である。
街の周囲に張り巡らされている城壁である。
土地勘のない街をあちこち歩き回るよりも、高いところから見下ろせば色々気づきがあるかもしれないという発想だ。
女神像を造れるような大きな工房であればかなり幅広の建物の一階などが怪しい。
とりあえず城壁の上に登り、そこの歩廊から下街の周囲ををぐるりと回って怪しい場所を見繕おう…というのが今日のエィレの作戦である。
ただ城壁というのは街の防衛の要である。
高いところから色々見えるという事は同時に街の構造把握に繋がるし、引いては城攻めするために有効な情報を見学者に与えてしまうという事でもある。
他国の者をおいそれと登らせてはくれないだろう。
ゆえにエィレはわざわざ旧知かつ己の権威が通じそうな相手のところへ出向いてきたわけだ。
こうしたところ、王族ゆえなのかエィレはなかなか策略家である。
「姫様。いかに姫様といえども特別扱いをすることはできませぬ」
「…ですよね!」
だが流石に城を護る兵士というべきか、ゴェドゥフもそのあたりはしっかりしていたようだ。
ただ…
「ですがそもそも姫様は現在駐在の外交官であらせられます」
「…はい」
「外交官であれば申請書類さえ提出していただければ我が町の城壁は自由に登る事ができます」
「そうなの!?」
それは防衛意識的にどうなのだろうか、などと規律を強引に捻じ曲げて城壁に登らんとしていた当人すら考えてしまう。
まあ確かに戦時でないときは城壁を解放しているような街もあるにはあるけれど、そういう都市は基本国の内部にあって直接の戦火と無縁か縁遠い立地であることが殆どだ。
ここはバクラダから攻められる恐れもあれば最悪エィレの母国であるアルザス王国と矛を交える未来さえないとは言えぬ。
たまたま今戦争が起こっていないだけである。
そんな街の城壁をそんな無防備に解放していいのだろうか。
「それにそもそも姫様に関しては太守殿とミエ様から可能な限り便宜を図ってやって欲しいとの依頼を受けております。ですから私一人を篭絡せずとも姫様は堂々とこの階段を登る権利が御座います」
そう言いながらゴェドゥフは背後の扉の鍵穴に鍵を差し込み、扉を開けた。
「さ、どうぞお通り下さい」
「わ、ありがとう!」
思わぬ扱いの良さに両手を合わせて舞い上がったエィレは軽い足取りで階段を駆け上る。
クラスクとミエ的にはアルザス王国の駐在外交官であるエィレにこの街の色々な場所を見てもらい、その魅力を王国に報告してもらって交渉を有利にもってゆこうという算段があるのだろうが、憧れの二人に便宜を図ってもらって浮かれているエィレが果たしてどこまでそれを自覚しているのかはわからない。
一方クラスクとミエの方は、エィレが思った以上に自分達に懐いてくれている事もこの街を気に入ってくれたであろうことも気づいてはいるが、さすがに二人の出会いのきっかけとなった例の襲撃事件の折馬車に乗っていた美少女が彼女の正体であるとまでは思い至っていない。
「わあ…っ!」
ともあれ階段を登り切ったエィレは、目の前に広がる光景に目を奪われた。
畑だ。
視界一面に畑が広がっている。
それも彼女が知っている黄金の麦畑ではなく、黄色と緑と茶色のチェック柄に区切られた畑である。
混合農業と呼ばれる輪作の一種である。
冬に種を撒き晩夏に収穫する冬麦、春に種を撒き秋に収穫する夏麦、砂糖の材料にしつつ絞り粕を家畜の食料にして越冬させるための甜菜、そして通年で飼育される家畜とその牧草地。
さらには合間合間に畑を耕す移動鶏舎が土を耕し鶏糞を肥料として撒いて、根菜である甜菜や牧草として使われる豆類などが窒素固定で大地に栄養を還元し、結果として既存の農法より遥かに早いサイクルで再び麦を撒くことができるようになる。
なんとも夢のような農法だが、よくよく見るとその畑はあちこちでその色を変えていた。
この街では既に麦をメインとした混合農業から脱却し、より換金価値の高い作物への転作を図っているのである。
例えば食用と油が取れる菜種。
繊維として利用できる亜麻。
面積あたりどれだけの換金率となるのか、この地域の気温や湿度は育成に適しているのか。
そうした実験も込みの畑である。
元々街の中の空き地に実験農場があったのだが、人口が爆発的に増えたことで農地に回せる土地がなくなり、こうして街の近くの畑を実験用に利用しているのだ。
これも全ての耕地が市の管理であり、自由に作付け計画を変更できるこの街ならではの強みと言えるだろう。
エィレはその大規模農法に大いに感心しながらも、少々懸念を覚えないでもなかった。
現在この街の農地が上手く回っているのは街がその運営を一手に担っているからだ。
だがそれは街が運営を間違えなければ、という大前提がある。
今の街を治めているのはクラスクであり、話を聞く限りその第一夫人であるミエもまた大いに援けになっているようだ。
だがもしこの二人がこの街の運営から離れてしまったら?
例えば寿命。
さらには病死、事故死、あまり考えたくはないけれど、戦死。
この世界には確かに神の奇跡が存在するけれど、それが常に、そして確実に受けられるとは限らない。
思い出すだけで胸が高鳴るクラスクと、思う浮かべるだけで胸がときめくミエと。
そんな二人が酷い目に遭うのを想像するだに辛いけれど、もしそうなってしまった時、この街は本当に大丈夫なのだろうか。
エィレはふとそんな不安に襲われた。
「…っと、いけないいけない!」
正気に戻って慌てて首を振り、城壁の上にある歩廊を小走りに歩きはじめる。
外交官はその証である証明書持っているけれど、この街ではそれを畳んで手のひらサイズの薄手のガラスを折り返したものに挟み込めるようになっている。
そしてそのガラス板には穴が空いていて、紐で首から下げられるようになっているのだ。
いちいち証明書を取り出すことなく外交官であると立証できる工夫である。
こうした細やかなガラス細工はノーム族の技法だろうか。
エィレは城壁の上で見張りをしている兵士たちに挨拶しながら街を俯瞰する。
彼女が歩いている城壁は街の一番外側、いわゆる外城壁であり、そこから見えるのはクラスク市の外周部の街、すなわち『下街』と街の外側である広大な農地である。
彼女の足は北へと向かっていた。
南に向かえば現在自分が居住している下クラスク南地区となる。
まだこの街に来て日が浅いが、それでも近所についてはだいぶ詳しくなったつもりだ。
それならまだ歩ききっていない方角の方が新たな発見があるかもしれないとの判断である。
さてエィレが向かった先の下街は、彼女が居住しているあたりとはだいぶ趣が違っていた。
建物が全体的に『低い』。
高層建築が少ない。
さらには木造の建物が多い。
この街の上街、中街の建物には大量の石材が使われている。
なにせアルザス王国が攻め込む前に防備のための城壁を完成させてしまったほどだ。
圧倒的石材産出量と言ってもいいだろう。
だがその製造には魔導術がほぼ必須である。
石材を遠くの岩場から切り出そうとなるとその手間と運搬コストは一気に上昇する。
平城であるクラスク市の近くに適切な岩場がないからだ。
ゆえに宮廷魔導師たるネッカと一部の高弟を除き、この街で大量の石材を算出する事はできぬ。
石材の産出自体は豊富なこの街だが、それはあくまで『この街が直接建設にかかわった建物』に限られるのである。
だからエィレの目に飛び込んできたそれらの建造物は……つまり『そうでない建物』、ということになる。




