第628話 上水道・下水道
貧しい者達に井戸掘りを頼むお金などあるはずがない。
だから作るとしたら公共事業として、国がお金を出すしかない。
けれど王家の者達は、貴族の者達は、魔術により整えられた清浄と栄養のある食事によって病気にかかりにくい。
自分達だけは病にならないのである。
ならそんな彼らが追加の井戸に金を出すはずがない。
だって人は必要に駆られるほど、危急が迫るほど物事に真剣に取り組むものだ。
エィレは王都の城下街を歩き廻った経験からそれをよく知っていた。
だが為政者には庶民の為に井戸を作らねばならぬ切迫感がない。
そんなことをしなくとも自分達だけは無事だからだ。
だから仮に原因がはっきりわかっていたとしても、理解したとしても、彼らはきっと対策を取らないだろう。
もちろん疫病などが大流行して街の者が殆ど死に絶えたりしたら困る。
そうならぬような対策はするだろう。
税金を納める者がいなくなったら困るからだ。
だが極論すれば、そうした事態でもない限り…庶民がいくら生きようが死のうが、税収に影響のない範囲であれば為政者にとってどうでもいいのである。
エィレは震えた。
己が導き出した結論に震えた。
だってそれはあまりに残酷ではないか。
酷薄ではないか。
けれどいったいどうすればいいのだろう。
いつか誰か知らぬ貴族の妻となって、一生王宮から出られぬ身となってしまうであろう自分には、一体何ができるのだろう。
貴族の男性は強い特権意識と同時に結構な頻度で男女の差別意識を持つ者が多い。
政治は男の役割で、女は子を産み血を繋いでゆくのが仕事だ、と考える者も少なくないし、政治に余計な口出しをすれば勘気に触れるかもしれない。
暴力を受けるかもしれない。
自分が身分に護られのうのうと生きている間にも、街の人たちが苦しんでいるかもしれないのに。
その原因と対策を知ってしまったがゆえに、エィレは懊悩した。
「…で、話を戻します。そのための『水道』なんです」
「え……?」
唐突に話題が切り替わって、エィレは一瞬混乱した。
「お城の外を流れている川がありますよね? オーク川って言うんですけど…ここから水を取って浄水します。まず人口の池で泥なんかを沈殿させて、次に砂と砂利に活性炭を使って水を濃し取り奇麗にします。水の精霊の力も借りてますね。さらに〈浄水〉の魔術を付与した魔具をフィルターとして使って…ずっと効果が続く分聖職者さんが唱えるものよりだいぶ精度は落ちるそうですのでまあ気休め程度ですが…そうして奇麗になった水を先ほどの上水道に通します。それがここまで運ばれて蛇口をひねると出てくるお水の正体です」
「ああ……!」
ぱあああああと顔を輝かせたエィレが蛇口をひねり水を出す。
まさかにここから流れ落ちる水にそこまで手間がかけられているとは思ってもいなかったのだ。
「奇麗な水なのでこれで手を洗っても食べ物を洗っても感染の心配はありません。まあ病気の方が病原菌のついた手で蛇口とかをべたべた触ったら結局感染源になっちゃいますからこれでも万全ってわけじゃないですけど」
「でもすごい…すごいです!」
「はい! 苦労しましたから! まあ実際に苦労したのは職人と敷設工事に携わった皆さんであって、私はただのアイデア出しですけどね」
アイデア…この発想を彼女がしたのだろうか。
だとしたら目の前にいる女性がとんでもなく優秀な人物なのではないだろうか。
エィレは瞳を輝かせて彼女をみつめた。
「で、下水道です。この流し台の下に空いている穴やお手洗いの下には先ほど言ったパイプが繋がっていて、それが地下の下水道に続いています。下水道に流れた生活排水や生ごみ、排泄物なんかはこれまた外の浄水施設に送られます」
「浄水施設…?」
「はい。まず沈殿池で排泄物なんかを沈めます。高速化するためにこっちも水の精霊の力を借りてますけどね。ほんとに専門の方が捕まってくれて助かりました! でこちらの沈殿物には定期的に取り出して蓄熱池で熱を加え発酵を促し肥料に変えて畑に撒きます。残った水は水中微生物…川の浄化作用を受け持つ子たちですね、を魔術…これまた魔具にした時点で効果が落ちてるので気休め程度ですが…により活性化したものの中を通してできる限り奇麗にして、これまた〈浄水〉フィルターを通して川に放流します。これで下流の方も川の水を安全に使えるわけです」
「おおおおおお~~~~~!」
すごい。
それはとてもすごい。
川の水をきれいに利用して感染のリスクを下げる。
そして家庭から出た排泄物などの感染源も肥料などに活用して水から取り除き、奇麗な水に戻してから川に返す。
それなら確かに病気にかかる危険が相当下がるはずだ。
「べ、勉強になります……!」
「まあとは言っても上下水道が完備してるのはまだこの居館と一部の上街の半分ほどと・下街の一部だけ。上街の住宅は順次敷設工事中ですけど中街は全然進んでませんし、街の全体に水道網を行き渡らせるにはだいぶ時間がかかりそうなんですよねえ。なので現状では街の各所に掘った井戸と広場なんかに設置した蛇口式の水道とかで賄ってもらってます」
「おお~~~~」
ミエの言葉にいちいち感心するエィレ。
けれどまあ相当なカルチャーショックをこれでもかと受ければそうした心持ちになっても仕方ないかもしれないが。
ただ…ミエの話を聞いている内に、エィレにはどうしても確認したいことができてしまった。
その質問をしなければ先に進めない、そんな問いである。
「あのー…差し出がましいようで申し訳ないのですけど、もうひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ! 子供が持った疑問に答えるのも大人のお仕事です! それに外交官と太守夫人だとしてもお互いの理解を深めるの大事な事だとおもいますので! ささ、どうぞ遠慮なさらずに!」
「はい。それではお言葉に甘えまして…」
小さく息を吸って問いかける。
先ほど自分が出した結論に関わる問いを。
「あの…何故なんですか?」
「なんで? なんでって何がですか?」
要領を得ない質問にミエは首を傾げる。
会ったばかりの相手だけれど、王家の教育だからか彼女自身の資質だからかこのエィレという少女はだいぶ頭の回転が早いようだ。
それだけに質問するならもう少しわかいりゃすい表現をするものだと思っていたのだけれど。
「ええっと、街の人たちのために井戸を掘ったりとか、公共の水道を用意したりとか、なんでそんなことをするんですか? だってこのお城にはもう水道がある。自分達は病気にかからないじゃないですか」
「あー…そういう話ですか。理由って言うなら…費用対効果ですかね」
「ヒヨータイコーカ?」
聞き慣れぬ言葉にエィレが首を傾げる。
「はい。街の人が病気になったらその間仕事ができませんよね? 仕事ができないとお金が稼げません。うちの街は人頭税やら通行税やら関税やらを取ってない分所得税が大きな税収の柱になってますから、街の住人が仕事できない期間が長いと困るわけです。税収に直結しちゃいますからね。それに病気になったら病状によっては教会にお布施をして〈病除染〉をかけてもらわないとならないじゃないですか。これまた金貨数百枚とかかかっちゃいますよね? うちの街は住民が怪我や病気などで教会に助けを請うとき健康保険…じゃなかったお布施の額を税金で補助する制度がありますけど…この金額も馬鹿になりません。それなら最初っから病気してもらわない方が経済的じゃないですか」
ミエが滔々と述べる説明にエィレはますます混乱をきたす。
人頭税も通行税も関税もない?
庶民のお布施に街が補助金を出す?
情報量が、情報量が多い。
「なんで、じゃあそもそもなんでそこまで補助をするんですか」
その核心に迫った質問に対し……ミエは不思議そうに小首を傾げた。
「ええっと…人頭税も通行税も関税も取ってなくって、住民税や所得税や家賃なんかで街の税収を賄ってるってことは、つまりうちの街はここを通過する人たちでなくこの街の住人からのみ税金を集めてるってことになりますよね」
「…そうですね。言われてみれば確かに」
「街の方から集めた税金なんですから、この街とこの街に住む人のために使うのは当たり前のことじゃないです?」
エィレは愕然とした。
ミエは、目の前にいる女性はそもそもの発想の『根本』が違う。
普通は彼女のような考え方には決して至らない。
だって庶民からかき集めたのは王国の『財源』である。
それはすなわち王室の『財産』である。
もちろん庶民のために振るまったり施設を作ったりすることはある。
けれどそれはあくまで王族や貴族の厚情によるものであって、庶民の為の施策ではない。
この街は…何か違う。
王族でもなく貴族でもない者に造られた街というのはこういうものなのだろうか。
もしかしたら…
もしかしたら、自分だけでなく王家の者達も、アルザス王国という国全体も、この街に大いに学ぶべきことがあるのではないだろうか。
その小さな台所で、エィレはそんな想いを痛烈に感じた。




