第55話 月下、夜の森にて
「旦那様-っ! 旦那様っ! だんっなさっまっ!!」
「…ミエ?」
家に転びそうな勢いで飛び込んできたミエが、いやむしろ勢い余ってすっこんだミエが、激しく息を切らしながらがばっと勢いよく立ち上がる。
「ドウシタ。シバらく別々デ言葉教エルっテ話ジャナカっタカ」
「そ、そ、それなんですけど、そうなんですけどっ! 申し訳ありませんっ!!」
ぺこんっ! と勢いよく頭を下げたミエがクラスクに謝罪し、その後懇願する。
「旦那様…その、サフィナちゃんを見つけたという場所、今から行っていただけませんか…? その、私達と一緒に!」
「今カら…? ン? 私達?」
ミエの後ろには…クラスクの仲間が連れて来た女たち…ゲルダ、シャミル、そしてサフィナが立っていた。
× × ×
無言で先頭を歩くクラスク。
その後ろにミエ、ゲルダ、シャミル、そしてサフィナの女性陣四人。
さらに後ろにラオクィク、リーパグ、ワッフの三人。
そんな隊列で、彼らは夜の森を歩いていた。
奇しくも女性たちをオークが前後から挟んで守っている格好である。
まあ実際には後方のオークどもは自分たちの女を逃がさないように見張っていたのだが。
その日は雲がなく月が綺麗で、森の中は薄明かりに照らされていた。
夜目が効かないミエでも、これならそうそう道に迷うことはなさそうである。
一方で他の三人の娘は森の暗さを全く意に介していない。
それぞれ種族特性から夜や闇での視界を確保できているためである。
「いやーしかし鎖外されてすぐに村の外に出られるなんてなあ。へっへっへ。このまま逃げ出したら面白そうだよなァ」
「もう、ダメですよゲルダさん! 約束ですからねや・く・そ・く!」
「わかってるわかってるって。うぇっへっへっへ♪」
やや下品に笑いながらゲルダが肩を揺らす。
夜のせいか自由になったせいか妙にテンションが上がっているようだ。
それとも月明かりのせいだろうか。
月光は人の心を狂わせるという。
実際普段は人の姿をしていながら月の光で心を失い獣と化して暴れまわる人獣と呼ばれる化け物がこの世界には存在している。
あながちあり得ない話ではないのかもしれない。
「…アイツ絶対ロクデモナイコト考エテル。俺ニハワカル」
ラオクィクが前方を歩くゲルダの豪快な笑い声を聞きながら頭を抱えている。
「エー、ソウカナ。楽シソウニ話シテルダケジャネー? ソレヨリウチノ女チッコインダカラ森ノ中デ逃ゲテ隠レラレデモシタラサア」
リーパグが頭の後ろに手を回しながら不平を漏らす。
「アー心配ダ心配ダ! アノ子藪トカ枝デ怪我トカシナイダカァァァァ!?」
そしてワッフがサフィナの心配でおろおろと見るからに浮足立っていた。
三者三様で前方の女性陣を見守る…もとい見張るオークども。
クラスクと違って皆自分が飼っている娘が逃げ出さないか心配なのだ。
まあ今は飼っているなどと言うととクラスクが怒るのでそういう言い方は控えているようだが。
心配するのは当然だろう。
なにせ彼らは自分たちが家に連れ込んでいる女性達と信頼や愛情で結ばれているわけではない。
先日まで逃がさぬように紐や鎖で繋いでいたのだ。放し飼いにしたら逃亡するのではと危惧するのはむしろ当然だろう。
其れなりに時間をかけて信頼と親愛を築き上げてきたミエとクラスクとは違うのである。
「あの野郎絶対アタシの悪口言ってるな。アタシにゃわかるんだ」
「あははは(当たってる…)」
「しかりゲルダの弁ではないがこうして風呂上りにまともなべべを着て夜の森を歩くなぞ久方ぶりじゃのう。今日一日で随分と気分が晴れた気がするわい」
う~ん、と大きく伸びをするシャミル。
その横をとてとて、と無言で歩くサフィナ。
「そういえばワッフさんさっき旦那様に何を聞いてたのかしら…?」
先刻、村を出てすぐのあたり。
後方にいたワッフがどたどたと先頭のクラスクのところへ向かい何かを尋ねていた。
声が小さくて聞き取れなかったが、ワッフは後ろに戻ってもしばらく何かぶつぶつ呟いていたようだ。
「つイタぞ」
クラスクの声でミエは我に返る。
彼女が考えこんている間に目的地に着いたようだ。
思っていた以上に割と近い場所である。
「デナンダ。あノガキ…」
「サフィナちゃんです」
「そウそウサフィナ…? ダっタ。ソイツガ失せ物シタっテ? そンナに急グコトカ?」
「ええっとそれはですね…」
ミエがクラスクに事情を説明しようと隣に行く。
その背後でゲルダがやや剣呑そうに目を細め、僅かに腰を沈めて鼻を鳴らす。
「なんか血の臭いがすんな…」
「ここが目的地なら先刻聞いた猪と大立ち回りした場所もここじゃろ。ならば解体処理もここでしたじゃろうしな」
「ふーん、道理で」
周囲を見分しながら鼻をひくつかせたゲルダは、だが途中で意外そうな表情を浮かべ顔を上げた。
「なんだこの匂い」
「なんじゃ? 血の臭いではないのか?」
「うんにゃ血の臭いに隠れてるけどもっと甘い…くすぐったい感じのヤツ」
「甘い? …おお、言われてみれば確かに」
くんかくんかと鼻を鳴らすゲルダとシャミル。
その横を…とてとてとサフィナが通り過ぎ森の奥へと消える。
「ア、ア、兄貴ィィ! アノ子ガァァァァ!」
「わカっテル。逃ゲられやシネエよ!」
突然のサフィナの行動に虚を突かれたクラスクだが、すぐに慌てるワッフを短く制した。
万が一逃げ出されたら困ることこの上ないが、その少女…サフィナのこれまでの態度からそれはないと判断しているクラスクは、ワッフほどに心配はしていない。
とはいえ視界からいなくなられるのは困るので少女が消えた先の森の中、藪の向こうへと分け入った。
「!? コイツは…!」
「まあ、お花畑!」
クラスクが瞠目し、同様の理由で追いかけて来たミエが思わず感嘆の声を上げ手を合わせた。
後からやってきたゲルダもシャミルも驚きの声を上げる。
「ああ…匂いの正体はコイツか!」
「なんとまあ…火輪草の群生地ではないか…!」
ゲルダの呟きで、クラスクは先日ここで自分が感じた匂いの違和感の正体に今更ながら気づいた。
あの時サフィナがへたり込んでいた藪の向こうにはこの花畑が広がっていたのだ。
それは赤い花だった。
花の直径は5~6cmほどだろうか。中央部は濃い黄色で、色合いからシャミルの言葉通り炎を想起させる。
ミエの視点で見るとその花序は色を除けばアヤメ科に似て、鋭利な花びらはどこか大きなニワゼキショウを思わせた。
六枚の花弁が月光に照らされ風に揺れる様は、まるで本当に炎が燃え盛り揺らめいているかのようだ。
そしてその中央に…サフィナが立っていた。
足元には燃えるような火輪草。
だがその少女は花畑のただ中にいるというのに、奇妙なことに彼女の足元にはそこまで続く足跡や花を踏み荒らした跡がない。
月下に立つ少女の瞳はまるで翡翠のように煌めいていて、先端にややウェーブのかかった髪が微風に揺れている。
普段のあどけない表情とはまるで雰囲気の違う…森の女神のような荘厳と静謐がそこにはあった。