第518話 誇りの在処(ありか)
クラスクはかつて地底軍の総大将との激闘の折その斧に教わった合言葉が魔導師達の使う魔導語だと知った時、ネッカにその意味を教えてもらって小さな疑問を抱いた。
なぜ『大』解放なのだろう、と。
比較対象がないなら『大きい』とわざわざ断る必要はないではないかと。
だからその時からずっと考え試行錯誤していたのだ。
その斧が自ら告げなかった他の合言葉はないものか、と。
「小・解・放!」
クラスクの叫びと共に彼が手にした斧刃が赤血を纏う。
それは『大解放』と異なり、斧の先方に巨大な血斧が生み出されることはなく、強化されるのはあくまで手にした斧のみだ。
戦士として凡そあり得ぬ射程と長大な攻撃範囲を失った代わりに、威力自体は『大解放』に近い。
いわば単体攻撃用の合言葉と言えるだろう。
そして…この使い方にはもう一つ重要な意味がある。
ぐしゃり、と竜の前腕の鱗が砕け、深々と斧が突き刺さる。
赤竜が再びの激痛にその首をのたうたせ、咆哮した、
そしてその溢れた血がみるみるとその斧に吸い込まれ、瞬く間にその呪われ死斧に血泥が満たされた。
そう、この使い方は血の消費が少ないのだ。
『大解放』が一度にその全ての血を使い尽くしてしまうのに対し、『小解放』は凡そ三分の一ほどしか貯めこんだ血を使わずに済む。
血の消費が少ないという事はそれだけ多用しやすいという事であり、また血の再充填が早いという事だ。
「小・解・放!」
クラスクは赤竜の前腕に突き刺さった斧を自ら踊り越え、竜腕の肘辺りにずどんと着地する。
そして己の背後に突き刺さった斧を力任せに引き抜くと、そのまま己の頭上から赤竜の二の腕めがけて叩きつけた。
「小・解・放!」
そして全力で斧を振り下ろした勢いそのままに跳躍した彼は、己の斧を起点に宙空で一回転、上腕の中ほどにどずんと着地すると背後の斧をこれまた力の限り全力で引き抜いて赤竜の肩峰目掛けて叩きつける。
まるで斧と一体になったが如く。
あたかも巨大な車輪のように。
彼は次々と赤竜の腕に刃跡を刻み竜鱗を砕きながらその身体をよじ登っていった。
「貴様ァァァァァァァァ!!」
激痛に呻きながら、その不遜極まりない登攀者を註すべく赤竜が猛り吼える。
そしてクラスクの真横からその牙を剥き出しにして彼を貪り喰わんと襲い掛かった。
タイミングは完璧。
クラスクがちょうど肩に登らんと跳躍した刹那。
空中では避けようがない。
竜の口が大きく開かれて……
ぶうん、とそのまま空を切った。
「ッ!?」
クラスクは斧を片手で引き抜きながらもう片方の腕を宙に伸ばし『何か』を掴んでいた。
先ほどアーリが打ち込んだ不可視たる力場の縄である。
彼はそれを起点に鉄棒選手のようにぐるんと回転すると竜の噛みつきを避け、そのまま片腕で赤竜の額を切り裂きその斧の切っ先をめこりと角にめり込ませた。
頭部へ走った痛みに赤竜は呻き吠え、そのまま首を真上に大きく逸らす。
角に斧を突き刺してしまっていたクラスクはその勢いに抗しきれず跳ね飛ばされて大きく宙を舞った。
痛みで≪音響探査≫が働かず、一瞬クラスクの居場所を見失う赤竜。
きょろきょろと首を振る赤竜を眼下に見据え、クラスクはちょうど彼の真上を飛んでいた。
そして…その竜の背を見下ろした時、クラスクの目がくわと見開かれる。
「見つけたぞヌヴォリ。そこが、貴様の誇りか!!」
クラスクの視線の先には赤竜の背。
そこに並ぶ無数の紅蓮の鱗。
だがその一部に僅かな、そして妙な違和感がある。
鱗の一枚が……ほんの少しだけめくれあがっているのだ。
そこに…あった。
鱗の隙間にあった。
斧刃である。
柄が折れたらしき斧の先端の斧刃、それが赤竜の鱗と鱗の間に挟まっていた。
……あの日、村が焼き討ちにされたあの日。
ヌヴォリが憤怒と激情と共に無謀にもこの赤竜に挑み貪り喰われたあの時、彼が唯一赤竜に残した執念の顎である。
焼け落ちた村で、慟哭しながら村を彷徨っていたクラスクはヌヴォリの腕…肩から先の腕だけを見つけた。
その腕は強く強く斧の柄を握りしめていたけれど、その先端の斧刃は村中のどこを探しても見つからなかった。
他の者達は大して気に留めることもなく、せいぜい竜の炎で溶けたのではなどとそのまま忘れ去ってしまった。
けれどクラスクは、クラスクだけは覚えていた。
だってヌヴォリは族長だ。
オーク族の族長である。
若かりし頃は狂戦士とあだ名され、かの前族長ウッケ・ハヴシをして交渉によって懐柔せんとした『虎殺し』である。
そんな偉大なオークの長が、喩えこんな巨大な化物相手だろうと、爪痕一つ残せずに死ぬはずがない。
クラスクはそう確信していた。
だからあの時から心に決めていたのだ。
この竜を討つと。
ヌヴォリが残した斬禍をなんとしてでも見つけ出し、その傷跡に己の全力を打ち込んでみせると、その時に誓っていたのである。
「大っ!解っ!放っ!!」
クラスクの叫びと共にその斧に満ち満ちた血潮が一斉に蠢き、暴れ出す。
そして彼の頭上、その構えた斧のさらに先に、巨大な赤黒い血染めの…いや鮮血そのものの斧が生みだされた。
「なんだ、それは」
竜が己の頭上の『それ』に気づき、低く呻く。
なんという不気味さだろう。
なんという禍々しさだろう。
彼がこの戦いに於いてずっと警戒していた、決してそのオークに渡してはならぬと立ち回っていた魔性の力が、今彼の頭上で漆黒の光芒を放っていた。
その斧が数百年過ごしてきた血に塗れた戦いの歴史。
阿鼻叫喚と悲鳴を伴奏に、襲撃と蹂躙と殺戮を繰り返しながらその都度血を啜り続けてきたその斧の曰く……オーク族の負の歴史そのもの体現たる呪われし『血餓』が、今解放されたのだ。
「……………ッ!?」
だがおかしい。
斧の様子がおかしい。
クラスクは己の掴んでいる斧を凝視した。
望んだ効果は全て現出している。
ただ己が掴んでいる斧の形がおかしい。
まず見た目がゴツい。
それに何かいつもより大きいし、刃の部分がだいぶ広くなっているし、妙な機械的な部品のようなものが引っ付いているし、そもそもがなにか黄金に光り輝いている。
赤竜の台詞ではないがなんだこれは、と言いたくなる代物と化していたのだ。
ただその斧から特に嫌なものは感じなかったので、クラスクはあえて見なかったことにしてそのままそれを全力で振り抜くことにした。
クラスクの一撃を阻止せんと大口を開けた赤竜が、空中で斧を構えているクラスク目掛けて襲い掛かる。
近くにはあの目に見えぬ紐もない。
避けられる心配もない。
今度こそ逃がさぬと猛然と牙を剥き出しにした赤竜の首が一気にクラスクに肉薄した。
…が、一瞬遅い。
『大解放』によって生まれた血染めの斧刃はクラスクの斧の延長線上にある。
そしてそれは彼が振るった斧の動きをトレースする。
ゆえにたとえ空中だろうと、クラスクがぶうんと前方転回しその場で斧を振り回せば…それは眼下にある赤竜イクスク・ヴェクヲクスの背中に一瞬で叩きつけられることとなるのだ。
どごしゃ、という破砕音。
直後に響く赤竜の悲鳴はクラスクの左頬の真横で響いた。
赤竜の背が大きく裂けて、鮮血の刃が叩きつけられた一直線に鱗が砕け破片が飛び散る。
咆哮が如き叫びを上げのけぞる赤竜の顔面の横を自由落下しながら…クラスクはさらに一回転しながらその大斧を過たず目標目掛けて振り下ろした。
そう、ヌヴォリの示した鱗の隙間……
竜の剥き出しの肉へと。
鱗を砕く音は聞こえない。
ただただ肉を切り裂き血が飛沫く音のみが聞こえた。
クラスクの斧はその鱗を避け肉を断ち、遂には竜背骨へと辿り着いたのだ。