第49話 言葉の壁に阻まれて
「よくやっタぞワッフ。オ前ノ獲物ダ」
倒木の陰からぬっと現れたクラスクがワッフをねぎらう。
「イヤイヤイヤ兄貴ガ手伝ッテクレタカラ…!」
「ダガ仕留めタノオ前ダ。もっト自信持テ」
「イヤイヤイヤイヤ」
恐縮するワッフの肩を叩き、近くの葉っぱで血を拭きとって身だしなみを整えさせてやるクラスク。
「それより早く起こシテやレ。猪ニ襲われテ怖かっタロウカらナ」
「アアアアアソウダッタダアアアアアア!!!」
飛び上がらんばかりに驚き慌ててエルフの少女の元に駆け寄るワッフ。
クラスクはその背中を見ながら静かに後ずさり、木陰に身を潜めた。
(サテ脅えルカ、逃げ出すカ、それトモ…?)
どんな反応をしても対処できるよう準備だけはしておく。
逃走したら即座に後を追い強引に確保できるように姿勢を低く、いつでも駆け出せるように。
ただその上で倒れた巨猪、単身助けに来たワッフ、という構図はなるべく崩さないようにして様子を窺う。
「ダダダダダ大丈夫ダッタカァァァァァァァッ!?」
ワッフが娘の元に辿り着き、腰を落とし膝立ちとなって声をかける。
だが少女はぴくりとも動かず、ワッフは真っ青になった。
「モモモモモシカシテモウ…ッ! ウワアアアアアアアアアアアンイヤダアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
泣き出すワッフの情けない声を聴きながらクラスクは頭を抱えた。
(肌ノ色見りゃ生きテルカドウカくらイわカルダロ!? せイぜイ気ヲ失っテルダケダ、馬鹿!!)
せっかくワッフの雄姿を見せたかったのにこれでは台無しである。
クラスクは横を向いて深く深くため息をついた。
だがワッフの騒音に近い大音声の泣き声が響いたのか、少女はぴくん、とその身を震わせ、うっすらと目を開いた。
「ア…………」
「ヨヨヨヨガッダアアアアアアアアアアア!!! 生ギデダダアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
再び泣き出すワッフにこれまた額を押さえるクラスク。
少しでも少女に格好のつくところを見せたくてわざわざ御膳立てしてまで彼に猪を倒させたというのに、あんな情けない様では逆効果ではないか、と。
だがエルフの少女は特にその泣き声にも情けない泣きっ面にも反応することなくゆっくりと上体を起こす。
「オークさん?」
「ン? ナンダベ?」
エルフの少女は自分と同じように地べたに座ったワッフを見つめながら、鈴を転がすような可憐な言葉を紡ぐ。
ワッフは意味が分からぬまま、だが彼女の美しい声に気を取られ泣き止んだ。
「どうしてあなたがここに?」
「? ? イツモノまじないカナニカダべカ?」
ぽりぽり、と頭を掻くワッフには少女の言葉の意味はさっぱり伝わっていない。
「わたしを探していたの?」
「ヘヘ、エヘヘヘヘヘヘヘ…」
少女の口から囁くような、どこか誰何するような声音が響く。
その単語のひとつさえワッフには理解できなかったけれど、彼女の声の麗しさに知らず聞き入って、自然と笑顔になる。
そして…そんな彼を前に怯えもせず逃げ出しもしないエルフの少女。
(それガまじないナわけネエダロ馬鹿! ダガアリャア一体…!?)
少女の言葉の意味はクラスクにもさっぱりわからなかった。
エルフなのだからおそらくエルフ語なのだろう。
ただ…意味は分からなくともその少女の態度が示すものはすぐに理解できた。
対話だ。
彼女はワッフに話し掛けているのだ。
意思の疎通を試みているのである。
その少女がワッフの大のお気に入りだというのは普段から散々聞かされていた。
けれどその少女の方がワッフをどう思っているかなどと今まで考えたこともなかった。
オーク族に攫われて嫌がらぬ女などいるはずも…
(…イタナ)
そういえば自分の嫁がそうだった、とクラスクは思い出す。
だがそれは互いに言葉が通じる前提あってこそだ。
会話もできないのにあの態度は一体どういうことなのだろう。
わけもわからぬまま、だがこのままワッフには任せておけぬと、クラスクは小さく深呼吸してゆっくりと木陰から出た。
「俺ノ言っテルコト、わカルカ」
そして最近ミエから習っている商用共通語を用い、ややたどたどしい口調で話しかける。
「ア、兄貴ィ、ドコ行ッテタンダベェ! ホラコノ子無事ダッタ! ヨカッタダヨー!」
嬉しげに振り向くワッフ。
そして彼の気配に気づきびくん、とその身を一瞬震わせるエルフの少女。
どうやらオーク族そのものに気を許しているのではないようだ。
だがそれでもやや脅えた上目遣いでクラスクの方を見つめた少女は、こくん、と小さく首を縦に傾けた。
自らの予想が的中し、クラスクは内心「イヨッシャァァァァァァ!!」とガッツポーズを取る。
その少女は賢いエルフ族の娘だ。
エルフ語だけでなく共通語も喋れるのではないかと踏んだのだがどうやら賭けが当たったようである。
「コノ森、今、危険。わカルダロ」
こくん。
再び頷くエルフの少女。
その横で目を丸くしているワッフ。
「ア、アアアア兄貴コノ娘トシャベレルダカァァァッァ!!?」
「少シ黙っテロ」
「ハイッ!」
言葉短くワッフを制したクラスクは、腰を落として少女と目線を合わせる。
ワッフはその横で直立し彫像のようにびしりとその動きを止めていた。
「一度、村、帰ルゾ。イイナ?」
「…わかりました」
小さく、だがはっきりと同意の言葉を紡ぐ少女。
クラスクは当初の目的がやっと果たされたことに内心ほっと息をつき肩の力を抜いた。
と同時に何か鼻腔をくすぐる甘い匂いを感じて眉を顰める。
周囲に満ちている猪の血の臭いに紛れて、確かに何か甘い香りが漂っているのだ。
ただその正体まではわからない。
(オット、少シワッフノ印象よくシトかネエトナ……)
ただその匂いを嗅いだことで頭がすっきりとして、エルフの少女相手にワッフの株を上げておく必要があったことを思い出す。
クラスクは膝を曲げたまま少女の前で振り返り、顎先でワッフを指し示し会話を続けた。
「ワッフ、オ前、すゴく、心配、シテタ」
多少たどたどしいクラスクの商用共通語。
ぱちくり、と目を瞬かせた少女は…けれど数瞬遅れてその言葉の意味を解し、ぱっとワッフの方に顔を向けた。
「お前のためすごくすごく急いだ」
彼の言葉に注意深く耳を傾けた少女は…クラスクと目を合わせ、小首を傾げて問う。
「あの方の名前はワッフーさんと仰るのですか?」
「アン? ワッフガ…ナンダっテ?」
だが通じない。
今少女が用いたのはエルフ語である。
最初にワッフに語りかけた言葉だ。
クラスクは商用共通語ならなんとか話せるようになったがエルフ語はさっぱりわからず、怪訝そうに眉を顰めた。
彼に聞き取れたのはせいぜいワッフの名前くらいである。
「アー…彼の名前は、ワッフーさんですか?」
少し戸惑った少女は、だがすぐに事情を察して再び同じ問いを繰り返した。
だが今度はクラスクにも意味が分かった。
少女が用いたのが商用共通語だったからだ。
「アア! アイツ、名前、ワッフ!」
「ワッフー!」
クラスクは大きく頷き、ワッフを指差す。
彼の言葉に少女は瞳を輝かせ、両手を合わせてワッフの方を見つめた。
「ワッフー…」
クラスクの弟分の名を呟いた少女は、己の胸に手を当てこくこく、と小さく二回肯く。
まるでその名を決して忘れまいとするかのように。
そして…宵闇の迫る森の中、自らが覚えたその名を呟きながら…
エルフの少女は、その小太りのオークを見上げ呟いた。
「貴方は…また私を助けてくださったのですね…ワッフーさん」
「「??」」
その言葉はエルフ語で…結局オーク達に伝わることはなかったけれど。
村へ戻る道行き。
少女のはワッフの後ろから大人しくついてきた。
その小さく細い指先は…道に迷わないためなのか、ワッフの腰布をそっと、そしてずっとつまんだままだった。