第43話(第一章最終話) 俺の嫁
やんややんやと喝采が響き、まるで足並みの揃わぬ称賛の声がそれに続く。
「クラスクさぁぁぁぁぁぁぁん!!」
だがオークどもがクラスクの元に群がるより早く…ミエが矢の如く彼に駆け寄った。
上背のあるクラスクの顔にはそのままでは届かないので助走をつけて跳びついて、彼の首っ玉に腕を巻き付けてぶら下がり、その頬に勝利のキスをする。
どよめく周囲のオークども。
「…好き」
「ンン?!」
唇を離し、潤んだ瞳でミエが呟く。
そして今度は逆の頬に唇を押し付けた。
「好き」
「好キ…俺ガ?」
こくり。
クラスクの胸元で小さく肯くミエ。
「俺ガ美味イノカ? ミエハ俺ガ好物カ」
「あいえそっちの好きじゃなくて…ええっと」
まあ表現法によってはそれはそれで間違ってないのだが…ともあれミエはクラスクの首に巻き付けていた腕を離し、とん、と地面に降り立つ。
そして彼を見上げ頬を染め、己の胸に手を当てた。
「その人の事を想うと胸がドキドキして、キュンってなって、切なく…ええと色々心配してそばにいないと寂しくなっちゃったりとかしちゃう…好きって言うのは、そんな気持ちです」
「スキ…好キ」
クラスクは雷霆に打たれたように衝撃を受ける。
そして彼もまた自分の胸に手を当ててミエをじっと見た。
「それガ好キ…? 好キ、好キ…好キカ! ハハハ! ハハハハ! そウカ! これガ好キカ!」
「旦那様…? きゃっ!?」
両手でミエの腋に手を入れて、彼女を空高く掲げたクラスクは、そのままミエを頭上でくるくると回す。
「ハハハ、ハハハ、ハハハハハハハハ!」
「きゃんっ!? やんっ! もぉ…ふふ、あははははははっ!」
最初は驚いたミエだったが、クラスクがとても嬉しそうに笑うので釣られて一緒に笑い出す。
唖然として見守るオーク一同。
しばらく笑っていたクラスクはやがて回るのを止め、肘を曲げて己の前にミエの顔を寄せ歯を剥き出しにして笑った。
「ナら俺モ『好き』ダ。ミエ。『これ』ガ『好キ』なら、俺モオ前ガ好キダ」
「~~~~~~~~~~…はいっ!」
感極まって頬に涙を伝わせながら、ミエがくしゃくしゃの顔で破顔する。
そして互いに抱き合って、今度は唇同士で熱い接吻を交わした。
「?!」
「ナンダアレナンダアレ」
「サッキモヤッテタヨナ…?」
「イヤサッキトハ違ウゾ…アレ夜ニヤルヤツジャナイノカ…?」
オーク共が指をさしながらざわつく。
先刻決闘の前にも二人は同じようなことをしていた。
無論彼らも口吸いは知っている。
夜の営みの時に女とするものだ。
だがあれは己の気分を昂らせて行為を捗らせるためのものであって、こんな日が出ている人前でするものではなかったはずである。
それに…違う。
二人の表情が明らかに違う。
自分たちが知っているものと、これは別物だ。
彼らの知らぬ不可思議な儀式。
だが二人の嬉しそうな、そして幸せそうな表情と言ったら!
饐えていない極上の酒を飲んだ時ですら、自分にこんな表情ができるだろうか。
オークどもはそれぞれに奇妙な気持ちとなって自問した。
「…耳、塞イデロ」
「ふぇ? …は、はい」
クラスクは腰を落とすと、ゆっくりとミエを地上に降ろし、彼女の頭に手を置いた。
ミエには彼の真意はわからなかったが、言われるがままに己の耳を指で塞ぐ。
クラスクは…すぐ近くで倒れていいる兄貴分と、周囲のオーク共をぐるりと見渡すと…
すぅぅ、と大きく息を吸った後に大喝した。
「オ前ラァァァァァァァァッ!!!!!」
あまりの大声にびりびり、と空気が震える。
その声に込められた裂帛は辺りで囃し立てていたオーク共から全ての雑音を消し去った。
「今後こノ女…ミエニ手ヲ出すコトハ許サン! イクフィクダけジャナイ! 他ノ全テノオークモダ!!」
ぎろり、と見開いた眼で周囲を睨みつけるクラスク。
震えあがるオークども。
彼の眼光は若造とは到底思えぬほどに激烈であった。
もし眼力でオークが殺せるのなら、この村には屍山血河が築かれていた事だろう。
「モシドうシテモミエ欲シイナらまず俺ニ挑め! 俺倒セ!! 俺ニ勝テ!!! それガデきナイ卑怯者ナら俺ガ殺ス!!!」
ふぅぅぅぅぅ…と息を吐いたクラスクは…
耳を塞いですらなお響く大音声を間近で聞いてびりびりと震えているミエを抱き寄せて、再び大きく大きく息を吸うと…
その言葉を、叫んだ。
「ミエハ…俺ノ嫁ダ!!!!!!!」
「ヨメ…」
「ヨメ?」
「アアイウノガ…ヨメ?」
オーク達が小声で囁きあう。
以前に述べた通り男尊女卑の激しいオーク族には婚姻や夫婦の概念がない。
夫婦の概念がないのだから嫁や夫の概念もない。
それらの概念がないのだから当然それらを表す言葉もない。
けれど彼らは知った。
今日知った。
嫁と言う言葉を。
嫁と言う存在を。
若造の一人に過ぎなかったクラスクをこれほどに強くしてのけたのは…きっとこの放し飼いの女の力なのだと。
そしてそれを…そんな女を『嫁』と呼ぶのだと。
その日…初めてオーク達は知ったのだ。
そしてそんなオーク達に囲まれて、衆人環視の中、互いに互いを抱き締めて幸せそうに笑い合うミエとクラスクは…
その日、初めて本当の夫婦となったのだ。
× × ×
じゃらり、と音がする。
床を擦る鎖の音だ。
それは…薄暗い石壁に囲まれた部屋の中から響いていた。
クラスクとイクフィクが戦っていたちょうどその頃…
村の、家の一軒から漏れ出た音だった。
とはいえそれは外の喧騒に比べたらあまりに小さな音で、決闘に熱狂しているオークども耳に入ることもなかったが。
「盛り上がってるねえ…決闘でもやってンのか?」
響く声音は女のものだ。
その女には鉄の首輪、鉄の腕輪を嵌められていて、そこから鎖が壁に伸びている。
その外見は人間のそれによく似ていた。
というよりほぼ人間だ。
ただ少々背が高い。
2m前後はあるだろうか…この世界でも人間族でこれほどの高さの女性はまずいないはずだ。
…精悍な声、そして顔つきである。
その表情は虜囚であるにも関わらず不敵で、むしろ囚人と言うより戦士のそれに近い。
大きな…だがふくよかというよりは筋肉質すぎる胸。
その胸と腰回りには破れかけの布切れのようなものを巻いている。
どうやらそれが彼女の間に合わせの衣服のようだ。
髪は燃えるような赤毛。
手入れされておらずぼさぼさで、生来の癖毛らしくほうぼうに跳ね上がっている。
そして布切れを纏っていない部分の肢体には、驚くほどたくさんの傷痕が刻まれていた。
彼女を飼っているオークに付けられたものだろうか…だがそれにしては傷の多くは随分と古いもののように見える。
「へぇ~…嫁、ねえ…オークがそんな言葉口にすンの初めて聞いたよ」
先刻のクラスクの叫びが石壁にこだまして耳に届き、その巨躯の女性は小さく感嘆の声を上げた。
彼女にはオーク語がよくわからない。
せいぜい飼っているオークがよく使う罵倒の言葉を幾つか覚えている程度だ。
だがその言葉は違った。
そもそもオーク語には『嫁』の概念がなく、ミエはクラスクに説明する際この世界の商用共通語の単語で伝えていた。
商用共通語は普遍的な単語に関しては人語をベースにしているものが多い。
嫁という単語もまた、この地の主要な人間語であるところの北方語と同じ発音で通じるのだ。
つまり…先刻のクラスクの宣言の中で『嫁』という言葉だけがオーク以外の種族にも通じていたのである。
「珍しいオークがいるみたいじゃないか。で、そいつに嫁って言われてる女がいるわけか…ふうん…一度会ってみたいもんだねえ」
ニタリ、と凄みのある笑みを浮かべる女。
剥き出しになったその歯には…牙が如き犬歯が生えていた。