第421話 そして当初の目的へ
「旦那様旦那様だーんなーさーまー!」
「ミエか。ドうシタ」
突然扉がばたんと開かれミエが飛び込んできた。
「…ってあら? イエタさん」
「はい、ミエ様。お邪魔しております」
ミエは窓辺でにこやかにほほ笑むイエタと夫へ交互に目をやって。
「あら? もしかしてあと一鐘楼お待ちした方がよかったやつですか? お茶でも飲んできます?」
「お待ちしなくテイイ方ダ」
「いい方ですか」
「方ダ」
「?」
ミエとクラスクの軽いやり取りが理解できずイエタは首を捻る。
要はクラスクとイエタが密会していて肉体関係に及ぼうとしているのかとミエが勘ぐって、クラスクがそれを否定したのだが、そうした事にはとんと疎いイエタにはさっぱり通じていなかったわけだ。
まあミエの場合仮にそうだったらそうだったで別段咎めるつもりはなくむしろけしかける側なのが困りものなのだが。
ちなみに一鐘楼というのはこの世界に於ける時間の単位であり、およそ三時間を表している。
これは教会が時を刻む鐘の音の間隔から名付けられた単位であり、街に教会ができるまでは居館に備え付けらえた鐘を鳴らしてその代替としていた。
「デ、用事ハナンダ」
「ハッ、そうでした! ちょっとお付き合いをお願いしてもよろしいでしょうか」
「構わんガ」
「御用事なのですね。ではわたしくしはこれで…」
窓辺から降り立ち、ミエに深くお辞儀をして部屋を出てゆこうとするイエタ。
別段どうということはない。
手が空いたから来た。
忙しくなりそうだから帰る。
ただそれだけ。
それだけのはずだ。
…はずなのに。
「イエタさんイエタさん。よろしかったら一緒に来ます?」
「よろしいのですか?」
「よろしいので伺ってるんです」
「はい。それでは是非」
両手を合わせ、嬉し気に微笑むイエタ。
事実彼女は嬉しかったのだ。
まだ一緒にいられることが。
まだ傍にいられることが。
嬉しい…のだけれど、その理由が自分でもよくわからない。
イエタはぱあと顔を輝かせた後、自らの内に湧き出たその感情に不思議そうに首を捻った。
「じゃあ参りましょうか」
「参ルハイイガ、ドこへ参ル」
「ええっと…谷戸ですかね?」
「ヤト……ミエが以前作っテタ谷カ」
「谷戸は谷じゃないんですけど…まあいいです。とにかく来てください。見ていただきたいものがあるんです」
× × ×
「ウオッ!? なンダ?! なンダこれハ!」
ムワっとした空気にクラスクが驚嘆し目を丸くする。
その後に続いてその空間に立ち入ったイエタもまた見る間に浮き出た額の汗を拭った。
「これは…これは一体…?」
「これはイエタさんに協力してもらった魔具のお陰です」
「え……?」
目をぱちくりとさせながらイエタは周囲を見回した。
目の前に広がっているのは澄んだ沼…ミエが水田と呼んでいたものだ。
ただ以前訪れた時とは明らかに様相が変わっている。
まず暑い。
とにかく暑い。
この地方特有の強い風は鳴りを潜め、代わりにむせ返るような暑さとムワっとした湿気が肌にまとわりついている。
こんな気候イエタはこれまで味わったことがなかった。
そして…この前訪れた時とは明らかに異なるものがもう一つ。
水田と水田の間にある人の歩く通路…ミエは畦道と呼んでいたが…の交差地点に、小さな黒い円盤状の台座が誂えられており、そしてその上に石細工の家のようなものが置かれているのだ。
しかもそれがあちこちにある。
イエタはそれを知っている。
知っているも何も彼女がこの街の宮廷魔導士たるあのドワーフの娘に協力し作り上げた魔具というのがまさにそれなのだ。
ただおかしい。
おかしいのだ。
だって彼女がその魔具に込めた呪文にはこんな効果はないはずなのだから。
魔具というのは要は何かのアイテムに呪文を込めたものだ。
呪文によっては封じられるアイテムの形状には向き不向きがあり、例えば≪魔具作成(指輪・腕輪・脚輪)≫や≪魔具作成(衣服・ローブ・マント)≫などのように特定のスキルでなければ再現できない呪文もあるけれど、基本的には「本来術師が唱える呪文を、そのアイテムを使用することで再現できる」のが、魔具の本質である。
作成される魔具にはさまざまなバリエーションがあり、例えば≪魔具作成(巻物)≫で作られた巻物は呪文の効果そのものを発現させるが、その魔術が元々使える系統の術師でないと使用することができない。
魔導術の代表的的な呪文である〈魅了〉、これを巻物に記した場合その巻物を使用できるのは魔導師のみである。
当人が〈魅了〉の呪文を覚えていたり魔導書に記載したりしている必要はないが、その呪文を唱える資格がある者…つまり魔導師しか巻物は使用できない。
そして巻物に記された呪文は一回唱えれば巻物の上から文字ごと消え失せてしまう。
一方≪魔具作成≫で精霊魔術の〈姿消し〉の呪文をポーションに込めた場合、それを飲むことで誰でも透明になることができる。
当人がその呪文を唱えることができる必要もなければその資格を有している必要もない。
ただし広範囲に影響を及ぼす呪文は込められないし、効果は飲んだ者にしか適用されない。
そして一回飲んでしまえばポーションは空となってしまうため、やはり使いきりである。
≪魔具作成(杖)≫であれば杖に呪文を幾つも込めることが可能だ。
例えば〈魔力探知〉を込めた杖であれば合言葉を唱え杖を振るうたびに〈魔力探知〉が使用できる。
込められた数を使い切ってしまえばただの杖に戻ってしまう一方、一度作ってしまえば使用回数をリチャージすることもできる。
そして巻物と同様こちらもその呪文を唱える資格のある術師しか使うことができない。
このように様々な効果や制限のある魔具だけれど、共通しているのは「魔具を作成する際に唱えた呪文効果を再現する」点であり、それはほとんどの場合覆らない。
だのに…今目の前にある魔具は、違う。
イエタが唱えた呪文にはこんな効果はない…ないはずだ。
だってイエタがその魔具を作成する際に唱えた呪文は…
「ですがわたくしがあの時唱えたのは〈環境遮断〉の呪文だったはず、ですが…」
そう、かつてミエに相談された際例に挙げた呪文。
効果範囲内を外界の悪環境から守るための神聖魔術である。
この呪文を唱えると周囲に不可視の結界が張り巡らされ、例えば外が吹雪でも砂漠でもその範囲内では常温で過ごすことが可能となる。
これにより過酷な環境を踏破する、長旅で有用な低位の奇跡…『防御術』である。
このように環境を激変させる力などないはずなのだ。
「はい。仰る通りです」
「魔具が置かれているということはこの辺りを結界が? ですが内部の温度は外界の影響を受けないはずですし…」
というか、そもそもあの呪文に結界内の温度を上げる効果なんてものはなかったはずである。
これは一体どういうことだろうか。
「はい。イエタさんの疑問の通りあの呪文には外界からの影響を遮断する効果しかないみたいです。ですが…内部の環境も外へ出てゆかぬよう遮断されますよね?」
「え…?」
イエタはその呪文を悪環境で唱えることを前提としていた。
砂漠や雪山などの人型生物の生存に適さぬ悪い環境があって、それを遮断することで過ごしやすい環境を整える防御呪文なのだから当然だろう。
だが外界からの影響を遮断するだけではこの呪文は意味がない。
例えば猛吹雪の中を進むとして、結界内の暖かい空気が結界の外にだだ漏れしてしまっては結局冷気によって凍えてしまうだろう。
外界からの影響を遮断する以上、結界内部の環境もまた外部へ漏れ出ぬよう遮断されているはずなのだ。
「それなら…ほら、こうして結界の中を暖めてあげれば…」
「コレハ…蓄熱池ト放熱器カ!」
クラスクがその石製の小さな家…それが置かれている台座を見て目を丸くした。
「はい! せっかく集めた熱なんですから、ずっとここで使いたいと思ってたんです!」
ミエが手を合わせてぱああ、と顔を輝かせる。
つまりこういうことだ。
蓄熱池によって放熱器から熱を発し、周囲を暖める。
通常であれば多島丘陵から吹き降ろす強風によって吹き散らされてしまうはずのその熱気は、けれどイエタとネッカが協力して作り上げた魔具の結界によりそこに留められ、そして同時に外の強風は結界に阻まれて中へと侵入できぬ。
結果として無風の高温地帯となったこのあたり一帯は、その熱によって水田の水が蒸散し、湿度が高くなる。
そしてその湿度もまた結界によって拡散を阻まれ、この辺り一帯に留まる事となる。
つまり冷涼なこの地に於いて、この周囲のみ温暖湿潤気候が成立し得るのだ。
「ミエ、お前この為ニ、冷蔵庫ヲ」
「はい! せっかくシャミルさんが作ってくださった素晴らしいアイデアですから活用しないのはもったいないと思いまして!」
そう、この環境を作るためには蓄熱池が必要だ。
それも少なくとも稲の開花期から結実期に至るまで熱を放ち続けるだけの数が必要だ。
だからこその蓄熱池の量産であり、
その量産した蓄熱池に熱を貯める為の大量の冷蔵庫であり、
大量の冷蔵庫の使い道としての庶民への普及であり、
そして蓄熱池のあの回収法なわけだ。
繋がっていた。
シャミルによって冷蔵庫がお披露目されたあの日から、全部。
イエタとクラスクが驚きに目を瞠りミエを見つめたその先に…
稲穂が、小さな花を咲かせていた。




