第39話 怒りとその理由
「旦那様ぁっ!!」
クラスクの突然の登場に動揺したオーク達の隙をついてその束縛から逃れたミエが、ぱたぱたとクラスクの元へと駆け寄りその右腕にひしとしがみつく。
安堵の為か緊張が緩んだのか、ミエは涙をぽろぽろと零してひっく、ひっくと泣きじゃくっていた。
クラスクはそんな彼女の頭をそっと撫でて落ち着かせながら、ぎろりと四人…いや一人は吹っ飛んで気を失っているので残り三人…のオークを睨めつける。
「何シテル」
ミエがしがみついている腕が隆起し、強張ってゆく。
戦いの前のような緊張と怒気が彼の体に満ち満ちていた。
「イ、イヤ、違ウンダ、クラスク」
「ソウソウ違ウ違ウ。落チ着ケ」
「何シテルト聞イテルンダ、俺ハ!」
びりびり、と空気が震え、その瞳から殺気が迸った。
気圧されたオーク共が一歩後ずさり、それに合わせてクラスクが一歩踏み出す。
怖気づいた一匹がそのままよたよたと後ろに下がろうとして足をもつれさせ、派手に尻餅をついた。
「ソノ女ヲ抱コウトシテタンダ」
だが、先ほどミエの行く手を塞いだオーク…イクフィクは堂々と言い放つ。
「アニキ…」
「え? え? 旦那様のお兄様ですか!?」
先刻あれだけの目に逢っていながらえ? 御家族の方? と驚いた様子で二人を見比べるつつどこかそわそわしだすミエ。
まるで結婚を前提にお付き合いしている相手の家族に出先で引き合わされたかのような態度である。
彼女から見て二人の容貌は確かに似ていなくもないが、単にお互いオーク族だからだと言われればそれはそれで納得できなくもない程度のものだ。
「チガウ。兄貴分ダ」
「ああ先輩後輩とかそういう…?」
「そうイウ奴ダ」
イクフィクはクラスクの二つ上で同年代の中ではかなり腕の立つ方だった。
後輩の面倒見もよく、クラスクは彼から斧の手ほどきを受け一人前になったといってもいい。
オーク族は部族の者は皆等しく部族の戦士、とった感覚が強い。
戦闘訓練なども血縁などはあまり重視せず、部族の大人たちそれぞれが部族の子供たちを鍛えるといったことも珍しいことではないのである。
「最近オマエツイテル。ソノ女キットツキアル。ダカラ俺達ニモ抱カセロ」
ミエを指差しながら、イクフィクは当たり前のようにそう言い放った。
そしてそれは…オーク族にとってさほどおかしな感覚では、ない。
日々戦いに明け暮れいつ死ぬともわからぬオーク族はその日さえ楽しければいい、という享楽的・刹那的な傾向が強い。
また生き残るために運不運を気にして迷信深い者も多く、些細な相違からあれはツキがある、あれはゲンが悪い、といった事をいちいち気にする輩も少なくないのだ。
そんなオーク族の験担ぎのひとつに「誰それの家に女が来た」というのがある。
あの女が来たからあいつは今日ラッキーだった。
あの女を抱くようになってからあいつはやけに活躍する…等々。
そういう時、彼らはその家の女を欲しがる。
それが無理なら抱きたがる。
オーク族にとって女は単なる子孫を産むための道具に過ぎず、そこに愛情があることは殆どない。
ゆえにそうした貸し借り…種族によってはおぞましく感じるかもしれないが…決してない話ではないのだ。
さらにひどいケースでは複数のオークが群がって他のオークが飼っている娘を無理矢理奪い取ることさえある。
抵抗する相手のオークを殴りつけ、打ち倒し、強引に。
こうした時、オーク族の掟は単純にこう告げる。
奪われる方が悪い、と。
強者は全てを得て、弱者はすべて搾取される。
それが彼らの不文律だ。
ゆえに今回のイクフィク達の思考や行動は…無論奪われる側の抵抗はあるにしても…オーク族として別段おかしいものではないのである。
「…駄目ダ」
だが、クラスクは低く、呻るような口調でそれを拒絶した。
たとえ貸し借りだとしても、それには当然貸す側の許諾が必要なのだから、当然断ることだってある。
あるのだが…この時のクラスクにとって、許す許さないは二の次だった。
なぜなら彼の内側に渦巻いていたのが…烈火の如き憤怒だったからである。
イクフィクの言っていることは間違っていない。
オーク族としてはなにも間違っていない。
飼い主の許しも無く勝手に女を襲った事には怒るべきだが、それにしても常ならば派手にぶん殴る程度で済む話だ。
(ナらナンデ…俺ハコンナニ腹ヲ立テテルンダ?)
ミエがいい女だから奪われるのが嫌なのか?
無論それはある。
すごくある。
彼らが許しもなく勝手にミエを襲ったから腹を立てているのか?
当然それもある。
だがなにかそれだけでは説明がつかない、けれど自分自身でもわからない妙な違和感があって、クラスクは無性に苛立っていた。
…彼の怒りの根源は、クラスクがこれまでのミエの≪応援≫によって思考と情緒を発達させてしまったこと、そして彼自身が思っているよりもずっとずっとミエに惹かれてしまっていることに起因している。
彼女が襲われた事自体への怒り。
それを止められなかったかもしれない、彼女の助けを求める声に間に合わなかったかもしれない自分への怒り。
こんな所業がまかり通ってしまうオーク族そのものへの怒り。
そんな彼らの、オーク族という種族の思考や感覚そのものに、ミエと出会わなければ自分自身がなんの疑問も抱かなかったであろうという怒り。
そして…こんな怒りを、これまで当たり前のように襲撃し、略奪してきた村々で、他の種族が同じように抱いていたのかもしれない、自分に向けていたのかもしれない、ということに一切無自覚だった己自身への怒り。
そう、彼の怒りはその発達した知性で、理性で、他の誰かの立場を想像できてしまうからこそ抱ける怒り…
つまり、『義憤』である。
誰かのための怒りだからこそそれほどに深く、強く怒っていたのだ。
ただ彼自身、未だそれをはっきりと自覚できているわけではない。
豊かになった彼の知性に、彼の知識が追い付いていないからだ。
無意識にそう感じたことが彼の怒りの源泉だとしても、現状ではそれを上手く言語化できていないのである。
ただ…その苛立ちは、普段ならただの殴り合いで終わるはずのその諍いを、大きな争いに変えてしまった。
クラスクはミエの肩を抱き寄せると、逆の手でイクフィクを指差し、こう言い放ったのだ。
「決闘ダ。兄貴。俺が勝ッタら…二度トミエニ手ヲ出すナ!」