第385話 祝福の逆、保存の逆
「ええっと…もしかしてなんですけど、〈保存〉の逆移相呪文てあったりします?」
ミエの言葉と同時にネッカが目を見開き、シャミルが眉をひそめ、そしてイエタがなんとも言えない微妙な表情を浮かべた。
「ふぇっ!? なんですかその反応!?」
「よりにもよってそこに至るかこの娘は」
「え? あるかどうか聞いただけですよね?」
「お主の妙な才能を考えるとなあ」
「誉めてるんだかけなしてるんだかはっきりしてくださーい!?」
ミエのツッコミを一通り聞いた後、イエタが言葉を選びながら説明する。
「はい。存在します。〈腐敗〉と呼ばれる呪文で、対象を腐らせる魔術ですわ。低位なので人体などには効果がありませんが…」
「あるんじゃないですかー! ってあれ? それじゃなんでシャミルさんそんな顔してるんですか」
「悪名高い呪文だからじゃ」
「悪名…?」
ミエが首を捻ると、シャミルが嘆息しながら腰に手を当て語り始めた。
「かつて魔族がまだこの辺りを跋扈していた時代、彼らと戦をしていた国があった」
「はい」
「その城に忍び込んだ魔族の信者に悪しき僧正がおってな。そ奴の唱えた〈腐敗〉の術により城の食糧庫は全滅。全ての食料は腐れ落ち兵も民も皆飢えて、じゃが城の外は魔族がうろついておって外にも出られん。彼らは飢餓に苦しみ抜いて力尽き、最後には魔族に喰われ滅んだとされる」
「きゃあ」
なんとも悲惨な歴史を語りつつ、シャミルがその魔術の恐ろしさと危険を伝える。
「なるほど…それは危険ですねえ」
「うむ。そのあまりに悲惨な戦の伝承によりこの地方では忌み嫌われておる呪文じゃ」
「なるほど…つまり誰も使いたがらない呪文なんですね」
「まあそうなんじゃが…ちょっと待てお主何を考えておる」
「いやあ…その、それは都合がいいかなあーって」
ミエの言葉にシャミルならずとも、その場にいた一堂が驚きに目を瞠った。
「ええっとですねえ、イエタさんとネッカさんにはものすごーく抵抗あるのかもしれないんですが…その呪文、魔具にできたりしませんか?」
「ええ…?」
「ええっと…できるできないなら可能でふが…」
「一体何を企んどるおぬし」
「人聞きの悪いこと言わないでください! ただ私はいい商機になるかなって思っただけで…」
「商機? ものを腐らせて何の商売をするつもりじゃ」
「はい。わたくしの方からもお伺いしてよろしいでしょうか。この街に世話になっている身として可能な限りお力添えしたいと思ってはいるのですが…」
忌まわしい歴史がある呪文ゆえに抵抗があるのだろう。
イエタも少し困ったようにミエに尋ねた。
「ええっとぉ…このあたりって比較的過ごしやすい地域だと思うんですよ。盆地なのでちょっと風が強いことがありますけど、夏は比較的涼しくって、冬もそこまで寒くならないですし」
「まあそうじゃな」
「そうでふね」
「ただ雨季が冬場ですから暖かくって湿った季節…つまり梅雨がないんです!」
「ツユ? なんじゃそれは」
「比較的高温多湿な気候な事ですかね…そういう季節がないからか、あんまり見ないんですよね、アレ。この地方だと」
「アレ? アレとはなんじゃ」
シャミルの質問に対し、ミエが真顔で答える。
「発酵食品!」
× × ×
「でぇーきまぁーしたぁー」
夜、今やすっかり街の名所の一つとなり店構えも大きくなった酒場『オーク亭』。
閉店後の店内にて、て小人族のトニアがテーブルの上に次々と皿を並べてゆく。
「「「おおおおおー」」」
歓声に包まれる一同。
この街の首脳陣一行である。
今回はそこに協力者として天翼族のイエタも招かれていた。
「ム…! これ美味イ! この肉美味イ! なんダコレ!」
クラスクが興奮しながら牛の焼いた薄切り肉を頬張り叫ぶ。
「これってトニアさん、お醤油使いました?」
「はいー。その調味料をー使わせていただきましたぁー」
ほにゃっとした口調ながらもトニアは軽く興奮しているようだ。
「ショーユ! ミエが言っテタ奴カ!」
もぐもぐ、と口を動かしながら酒を流し込んだクラスクがそのままごくん、と牛肉を嚥下する。
「デモ腐っテルんダロ?」
「腐ってませんー! 発酵食品ですー!」
ミエが強硬に主張する。
そう、卓上に並べられているのはこの街で新たに開発された発酵食品の数々であった。
「おー…発酵食品…お酒とかチーズとかのやつ?」
「そうですサフィナちゃん! それも発酵食品ですね!」
「酒ハ酒! 腐っテナイ!」
「…市長殿市長殿。ミエの肩を持つのもなんじゃが…そもそも腐敗と発酵は同じものじゃよ」
「「「ナンダッテー!?」」」
クラスクだけでなくリーパグやラオクィクも目をぎょっと見開いて驚愕する。
「デモ酒ウマイ! 腐っタ肉不味イ!」
「では市長殿、腐りかけの肉はどうじゃ? オークなら食った事あるじゃろ」
「ム…!? 腐りかけハ…」
「美味イ。俺好キ」
「ソウイヤソウダナ…?」
クラスクが言葉に詰まり、その背後で醤油で焼いた肉を食いながらワッフとリーパグが首を傾げながらも
頷く。
「じゃろ。要は発酵と腐敗は同じ現象の『呼び方』の違いに過ぎん。わしら人型生物の用に立つのなら発酵、害をなすなら腐敗と呼んでおるだけじゃ」
「「「ナルホドー」」」
オーク一行が感心しながらも肉を頬張り酒をかっ喰らう。
「その割にゃー酒とかチーズ以外あんまり見かけねえな」
「うむ。わしも原理自体は知っておったがあえて利用しようとは思わなんだしな」
ワインは葡萄が発酵して作られる。
チーズやヨーグルトは乳が発酵したものだ。
それらはいずれも発酵食品ではあるが…ただその発生契機からそれが腐敗であるとは気づきにくいのである。
葡萄はその高い糖度と付着した酵母菌のお陰で放っておいてさえ勝手に発酵を始めるし、チーズも牛の胃袋などを運搬用の道具として用いていればロモス…ミエの世界の言葉でいうなら凝乳酵素だろうか…によって勝手に生まれてしまうからだ。
だがそれ以外の発酵となると、この地方の場合、なかなかに広がる契機がなかったのである。
まず第一にこのあたりの水が少なく比較的乾燥した気候風土。
湿度が低く冷涼なためそもそも発酵が起こりにくい。
第二に魔術の存在がある。
この世界はなまじ魔術が発達し、また生活に根差してしまっている。
特に〈保存〉の呪文などによって十年単位で鮮度を保つ事が可能となっており、長期保存が必要な食べ物は大概腐敗自体しないような処置が行われているため、そもそも発酵が起こらない。
そして過去の歴史。
〈腐敗〉の魔術によって発生した地獄絵図は、各国に腐敗に対する強い警戒感を嫌悪感を抱かせた。
また吟遊詩人たちも悲劇物のネタとしてその戦をよく題材とし、庶民にも強い禁忌が植え付けられている。
結果としてこの地域の者達は日持ちしないものは可能な限り早く使い切り、それが不可能な時…例えば季節毎の野菜を取っておきたい、あるいは街に出荷する時…などには教会に赴き、山と積まれた野菜に〈保存〉の魔術を施してもらう、という習慣ができてしまった。
もちろんそうは言ってもうっかり腐らせてしまうことはある。
そうした中に十分食用に耐える発酵が起きたこともあったはずだ。
ただしそうした現象は〈保存〉の恩恵にあずかれない辺境、或いは貧困層の前で発生し、それを体系的に後世に残すことができなかった。
こうしてこの世界は多くの場所で腐敗が抑制され、発酵の恩恵も構造的にほぼ確実に発酵が起きてしまうワインづくりやチーズなど以外に発展する事がなかったのである。
実のところオーク族も腐りかけの食べ物を平気で口にしていたため、彼らが口にしていた食べ物の中には発酵により食味が向上していたものもあったはずだ。
ただ彼らにとって最重要なのは「食べられるかどうか」と「食べて力が出せるかどうか」であって、せっかくの発酵現象も全く彼らに自覚されることなく、日の目を見ることもなかったのである。
発酵が生活の一部に根差している国からやってきた娘が、この地に来るまでは。