第365話 学校
「学校…」
「はい! とりあえず初等学校ってとこですかね」
「まあ…素敵です!」
ワイアントの呟きにミエが答え、イエタが感銘を受けたのか頬を染め瞳を輝かせる。
「それで…今教会で子供達に教えていただいているイエタさんなんですが…よろしかったら学校の教壇にも立っていただけないでしょうか」
「あら…私が、ですか?」
「はい。特に最初の頃は子供たちに教える『教師』が不足すると思うので、手伝って頂けると幸いです。もちろん読み書き以外に神学も教えていただいて構いませんし布教も許可しますね。えーっと…この場合は道徳って扱いになるんでしょうか…?」
彼女の知る世界では学校と宗教は場合によっては問題ある組み合わせの事もあるが、ミエはイエタの人となりとその宗派について全面的に信用することにしていた。
なにせこの世界の聖職者は神様の声を直接聞けるのだ(その人物の信仰心次第とも聞くけれど)。
さらに以前ネッカから聞いた話から考えれば、聖職者というのは己の信仰する神と性質が似ているほど強い力を発揮するという。
となれば善なる女神リィウーを信仰するイエタもまた強い善性を伴っていると考えていいはずだ。
「それは願ってもない話です! こちらこそよろしくお願いしますね!」
イエタの同意を得られほっと一息つくミエ。
学校を後付けて作る形になったことで彼女に無駄なことをさせてしまったのではと少し気にしていたのだけれど、イエタの方は全く気にかけていないようだった。
「しかし面白いっすねこれ」
「櫓のことですか?」
学校の話が一段落したところで衛兵ワイアントが舟の後ろを眺めながら呟き、ミエが話を受けた。
彼の視線の先にあったのは船頭が操っている櫓である。
「ミエ様はなんでこんなもん知ってたんですか」
「う~ん…うちの故郷ではポピュラーだったから……あ……じゃなくてポピュラーだった気が! 気がするので!」
一応表向きは記憶喪失になっていたことを思い出し慌てて言い直すミエ。
「気がする…ですか?」
「ええ、ミエ様は記憶喪失という御病気だそうで。クラスク市長のところに嫁ぐ以前の事は曖昧にしか覚えておらぬのです」
「まあ…」
ゲオルグに嘘の説明をされてずきりと心が痛むミエ。
だがその後のイエタの反応はさらに彼女を慌てさせることとなった。
「それはお困りでは…? 神の奇跡の手に縋る道もありますが…」
「ふぇっ!?」
すっとんきょうな声を上げるミエの前で、イエタが慈愛に満ちた笑みを浮かべる。
「月の女神オズヲリィムクは知識と狂気を司ります。彼女の神職に就く者であらば失われた記憶と解きほぐしその身に還らせることも可能かと」
「取り戻せるんですか!?」
「はい。存在する記憶ならば、ですが。わたくしたち天翼族が信仰する空の女神リィウーにも人の心身の異常を治す高位の奇跡があって、それならば記憶を取り戻すことも可能でしょうが、申し訳ありません、この身未だそこに至らぬ未熟者でして…」
「へー、聖職者ってのはすげーなあ」
「こらワイアント。だがそうですな、ミエ様がお望みなら記憶を取り戻す方策もあるようですから…」
「いえ! お構いなく! 現状に! 満足! して! ます! ので!!」
ゲオルグの言葉にミエはつい過剰に反応してしまう。
「はあ…ミエ様がそう仰るなら…」
「はい! 仰っております!」
「ミエ様……?」
ミエの必死な反応に首を捻るゲオルグ。
「そうですね…過去がなんであれ今が幸福で前を見つめているのならそれでいいのかもしれません。余計なことを申しました」
「あ、いえ、余計ってことはないですけど…はい。そうですね、私には今がありますから」
過去は消えない。
かつて二十歳まで生きられぬと言われた難病の身は、大人になる前に散った。
それも先の見えぬ命とはいえ、己自身の手で摘み取ってしまった。
なんとも親不孝者な身の上である。
けれど今は健康な体がある。
愛する夫と彼との間の愛の結晶がいる。
それはとてもとても幸せなことで…
だから、ミエは彼らのために己にできることがあるのならなんでもするつもりなのだ。
この舟の櫓もまた、そうした彼女が『今』を生きるための知恵の発露と言えるだろう。
「そもそも原始的な舟の動力には櫂と櫓と棹があってですね…」
「クワイ?」
「サーオ?」
話題を変えたミエの言葉にワイアントとゲオルグが首を捻った。
いずれも聞いたことのない単語である。
「櫂は要はオールですね。それはさっきも言った通り舟がすれ違う時に邪魔なのでパス。あとは棹があったんですが…」
「棹ってなんスか」
ワイアントの問いにミエは船上で立ち上がり身振りで説明する。
「こう…要は長い棒ですね。それで川底を突いて押して進みます」
「ほうほう」
「これも流れが緩やかなところでは優れた操船方法なんですが…ちょっと色々あって没になりました」
「ほう、それはまた何故ですか」
「ええっと…ちょうどその理由が見えてきましたね」
ゲオルグの問いにミエが前方を指差す。
そこには石造りの小さな建物があり、その脇で川が大きく分枝している。
右に曲がれば蛇舌川に続く本来の流路、左はこの半年で新たに引いた用水路だろう。
そしてその石造りの建物の脇に少し川が入り込んだ場所があり、そこに幾つかの大きさの異なる舟が浮いている。
先程ミエ達が船に乗り込んだのと同じ、いわゆる船着き場のようだ。
「川を覗き込んでみてくださいイエタさん。何かお気づきになりませんか?」
「ええっと…あら?」
舟から身を乗り出して川を覗き込んだイエタが少し驚いた声を上げる。
「川が…だいぶ浅いような…?」
「はい。旦那様のアイデアで元の浅さのままにしてありますので」
「元の…?」
そう、ミエ達が今まで舟で下ってきた川は、以前最初に川になった時とは大きく変わっていた。
かつてミエが魔導師…いや今は宮廷魔導師となったネッカの助けを借りてこの川を文字通り『作った』時、河川争奪をするため多島丘陵へと一刻も早く辿り着く必要があった。
当時ネッカが用いた〈泥化〉の呪文は術者の魔力量に応じて一定量の体積の土を泥に変える呪文である。
そこで石材を運び出した後の採石場跡…即ち後の川の流路もまた川底を浅く、川幅を狭くし、その分一回の呪文で『長さ』を稼いだ。
だが地底軍の侵攻を跳ね返し、王国からの騎士団が撤退した後、村には平和が訪れやがて街となった。
人口が増えるに従い狭い川では飲用や用水が賄えなくなり、川を増水する必要が出てきたのだ。
通常河川工事はかなりの土木技術と治水技術が必要となる。
特に川底や川幅を広げる場合など、川の横に別の川の流れを用意してやる必要すらある。
だがこの街には土と石の専門家たる宮廷魔導師ネッカがいた。
彼女の有する〈地動〉の呪文は、土を動かし任意の場所に移動させることができる。
水中の土さえ自由に操ることができるのだ。
魔導師は怪物の身体部位などから魔術に使う触媒などを入手するため自らダンジョンを構える事があるが、その際に土を自在に動かし通路や壁に変え迷宮を構築するのがこの〈地動〉の呪文である。
ネッカはこの呪文で川の造成工事を行った。
簡単に魔術で言えば川幅を広げ、川底を深くしたのだ。
まさに造成技師いらず、土と石の専門家の面目躍如と言えるだろう。
ミエやアーリはこの川幅なら船便が使えるようになると大喜びした。
船を使えば陸上の便より遥かに重い荷物が運べるようになる。
作物の輸出も必要物資の搬入も圧倒的に楽になるし、川沿いの街への販路も広がる。
いいことづくめのはず…だったのだが。
なぜかそこに待ったをかける人物がいた。
ミエの夫であるこの街の市長クラスクと、ミエの妹嫁たるキャスバスィである。