第364話 教育機会
この世界に於いて舟は基本櫂…つまりオールによって漕ぐか、或いは帆を張って風を受けて走るのが普通である。
小舟の場合オール一本で操船することもあるが、この舟のようにオールのような棒を舟に『取り付ける』ような運用はこれまで例がなかった。
だがこの街の周辺に広がっているのは川の流れの遅い用水路であり、幅も広くないためオールを利用するとすれ違う際に邪魔になってしまう。
そのためミエが己の故国にあった櫓を取り入れたのである。
「珍しいものなのですか?」
「ええまあ。俺はこの街以外で見かけた事ないです」
「まあ、そうだったんですねえ」
イエタの問いにワイアントが答え、ミエが素朴な感想を漏らす。
彼女の故国では旧世代の小舟にしか付いていなかったけれど、それでもだいぶポピュラーなものだった認識があり、この舟に関しても特に他意なく取り入れたつもりだったのだけれど。
さてミエ達を乗せた船は流れの緩やかな用水路をのんびりと降ってゆく。
この流れの緩やかさであれば確かに川をさかのぼることも容易だろう。
「そうだ、せっかくなのでここでご相談してい事があるのですが…」
「はい、なんでしょう」
ミエがこの空き時間にイエタに新たに計画している教育施設についての説明をする。
「義務…」
「教育…?」
隣で聞いていたゲオルグとワイアントが目を丸くする。
この世界にもこれまで学問を教えるための教育機関は存在した。
だがそれらは基本国や貴族が金を出して王侯貴族の若者が通ったりするものが普通であり、庶民相手の経済的格差を問わぬ教育機関、それも市民の義務として、というのは少なくともこの地方においては前代未聞である。
「す…素晴らしいです!」
イエタが瞳を煌めかせてミエの手を取る。
狭い舟がぐらぐらと揺れて四人は慌てて舟の縁を掴んだ。
「全ての子供たちに教育を…なんと素晴らしい理念、そして理想なのでしょう…! わたくし感動いたしました!」
「あはは…そう言って頂けると嬉しいですけどー…」
過剰な反応に逆にミエが少しだけ引いた。
なにせ彼女にとっては義務教育こそが前提であり常識であって、それをこの街の中だけという限られた範囲とはいえ元に戻そうとしているだけなのだ。
己が高く評価される謂れがないのである。
「わたくし達複音教会はもちろん学びに来た子供達に喜んでお教えします……ですが奉仕である以上教会へ来なかった子供たちについてはどうすることもできません。連れて来て下さればお教えしますとご両親に伝えることくらいで…」
教育は、大事だ。
ミエがいた時代ではそれは当たり前の認識となっている。
この世界、この時代でだって教育とそこから得る知識は子供に大きな知見と多様な選択肢をもたらしてくれると思う。
ミエはそう信じている。
問題は…親がそう思っているかどうかである。
子供は親の庇護の下で育つ。
子供は親を選べない。
ゆえに教育を軽視する親は子供にも教育を受けさせようとしない。
そしてその傾向は貴族層や富裕層から離れ、貧困層になるほど強くなる。
王族も貴族も商人も、上にいる者は知識の大切さとその使い方を良く知っている。
そうでなくばそもそも他者の上に立つことなどできないからだ。
不幸にも長い年月を経た王侯貴族の中にはそうしたことを忘れ果てている輩もいるかもしれないが、そういう場合大概そうした知識や知恵は外付けされている。
賢者や軍師、或いは法や戒律などとして。
話を戻すと、つまり上に立つ者ほど知識を重要視ししっかりと学ぶ環境を整えているのに対し、下の立場の者ほど知識を軽視し学びに価値を見出さない。
だが…それでは両者の格差が永遠に埋まらない。
もちろん労働に従事する者も職能で身を立てる者もそれはそれで立派な生活であり、人生である。
そこを咎める気も貶める気もミエには毛頭ない。
けれど同時に親がそうだからという、ただそれだけの理由でその子が、孫が、永遠にその立場に縛られなければならないというのはあってはならぬことだとも思う。
知った上で、学んだ上で親の跡を継ぐのはよい。
だが上に行ける機会も行こうとする機会すらも与えられず、袋小路の中ただ親のバトンを受け取るだけ、という人生にはさせたくない。
少なくとも……自分が携わったこの街では。
そうした時、辺境や貧困層の教育機会として天翼族の複音教会による青空教室が、これまでそれを担ってきた。
けれどイエタの言う通り、無償奉仕の教室は望んだ者しか教育を受けに来ない。
そして子供が親の庇護下にある以上、親が望まなければ子供は連れてこられないのである。
学びたいと思っていても。
或いは…そもそも学びとは何かすら知らぬままに。
…だが義務教育となれば話は違う。
『教育』が『義務』なのだから親の意向に関わらず教育機会を与える事ができるのだ。
それはたった一辺境都市のみのこととはいえ、この世界に於いて非常に稀有な試みであると言えた。
「確かにガキの頃から全員読み書き計算覚えてりゃあ仕事選ぶときも色々助かるよなあ…ただよお」
「うむ。非常に意義のあることだと思いますが…ミエ様」
「はいなんでしょうゲオルグさん」
ワイアントとゲオルグの言葉にすぐ反応するミエ。
「どんな貧しい者にでも教育を? その、寄進とかが大変になるのでは」
「え? 誰か寄進してくださるんですか? 基本無料ですけど…?」
「「はい…?」」
ワイアントとゲオルグが眉をひそめ、イエタが祈るように両手を合わせ輝かんばかりの瞳でミエを見つめた。
「お二人とも気になさっているのはこう…授業料を滞らせるような貧しい家庭の子とたっぷり寄付までしてくれそうな富裕層の子を一緒に教育したら不公平じゃないのかってことですよねたぶん」
「ええ、はい」
「まあ、そうです」
ふんすと鼻息を荒げたミエが人差し指を左右に振って反駁する。
「うちの税制をよく思い出してください。『住民税』と、『所得税』と、『賃料』です。街に住んでいる者は皆戸籍台帳に登録されてますし、戸籍登録されてる方は皆税金を納めています。つまり理屈上街の財源は街の住人全ての出資金であって、そこに貧富の差も意味もありません!」
「「あ……」」
そう、この街は住人全てを街独自の戸籍によって管理している。
逆に言えば戸籍登録されていない者は街の住人ではない。
そして街の住人には必ず等しい住民税(男女によって格差はある)と、収入に応じた所得税と、全ての土地は市長クラスクのものである、というオークの流儀に則った土地の使用料…すなわち賃料を納めている。
所得税の場合、街自体が運営している仕事先…例えば外の畑作業などで賃金を得た時はあらかじめ差し引かれた状態で渡されるため定期収入を得ている住人でなくば実感しづらいかもしれないが、とにかく戸籍に登録されている街の住人から税収を得ていないということはこの街ではありえないことであり、そうして集めた税金で教育施設を建て、街の住人の子供全員に義務として教育の場を与える事はなんら不公平とはならないのだ。
これが他の街だと些か事情が異なる。
人頭税・公共利用税・通行税・市場税などなど…多くの街ではありとあらゆる機会に税を取って街の収入に充てている。
商人などから商売上の特権を見返りに多額の寄付をせしめることだってある。
機会さえあれば新たな税を考え、より多くの収入を得んと領主達は血道を上げているのだ。
だがそうした行為は税金の支払い主を不明確にする。
その税を納めているのは街を通過する通行人か? 街で商売する隊商か? それとも街の住人なのか?
あらゆる手段を用いて集めた金は確かに結構な額になるのかもしれないけれど、果たしてその使い道は集めた相手に不公平にならぬようになっているだろうか?
…まあ実際のところ大概の街はそこまで深く考えていない。
収入は収入であり、支出は支出として街の……つまりは領主の自由に、そして好き勝手に使う。
税というのはそういうものだ。
ただ…ミエは集めた金の出所が明確である以上、それはしっかりと税を支払った者達に還元されるべきだと考えている。
そうでなくばなんのために納める税金なのだろうか、というのはミエの感覚であり、それはこの世界の封建領主達とはだいぶ異なる価値観と言えるだろう。
「そういうわけで…そろそろ学校を建てようかと思います!」




