第354話 かくて空より舞い降りし
空に、ある。
空に、いる。
それは大きな翼を広げて空に輪を描くように飛んでいた。
『それ』が描く輪の真下に、街がある。
二重の城壁に囲まれ、その内側に洗練された街並みが詰め込まれ、そしてその外側に雑然とした、だが活気ある下町が広がっている街…クラスク市。
『それ』はクラスク市の上空を輪を描くように飛んでいた。
ゆっくりと、ゆっくりと。
輪を描きながら、しかして同じ高さに留まることなく。
ゆっくりと、ゆっくりと。
徐々に、そう徐々にその高度を下げていった。
× × ×
雑踏の中、クラスクが街中を歩いていた。
服飾職人エッゴティラ特製の帽子をかぶっている。
「店主、失礼すル」
「あ、しty…お客さん!」
店を訪れたクラスクに、店の主が市長といいかけ慌てて言い直す。
帽子をかぶったクラスクの事は市長と呼ばずただの客として扱う。
それがこの城壁の内側の約束事なのだ。
「ホウ、腕を上げタナ」
「恐れ入ります。これも店に来るお客様のお眼鏡に叶うようにと研鑽を積んだ結果でして…」
他の客の手前市長に取り入らんがためとは口に出せず模範的な回答に終始する。
クラスクが眺めているのは小さな石造りの家の模型。
ここは彼行きつけの模型店である。
他の客層も明らかに身分の高そうな者か、或いは身分の高い者に仕えていそうな者が多い。
そして全員この街の住人ではない。
クラスクが広めた模型とジオラマという趣味は、どうやら金持ちや貴族の道楽として浸透しつつあるようだ。
「コレとコレ、あとはコレをもらう」
「ありがとうございますお客様!」
市長でありお得意様でもあるクラスクに深々と頭を下げる店主。
そんな彼の様子を眺めながら、クラスクは懐から小さな模型を取り出した。
「これドウ思ウ」
「おお、これは見事な…!」
店主が感嘆したのは石段の上の石造りの家である。
クラスクに触発されて模型作りの職人が幾人もこの街に生まれていたが、先達であるクラスクの技術は未だ彼らの上にあった。
特に彼の場合市長業やオーク達の戦闘訓練、騎馬訓練などにも顔を出しつつ余った時間でこれだけのものを仕上げているのである。
店主はその造形技術の高さに舌を巻いた。
「高低差のある場所の建物ですな」
「そう。今度作ル街がそういう奴ダ」
「ははあ、ついに多島丘陵に雪辱を果たすおつもりで」
「おつもりダ」
クラスクは以前多島丘陵多島丘陵の山城とその城下町をジオラマに仕立てようとしたことがあった。
その時は一応完成はしたのだけれど、高低差を上手く表現することができず失敗作と断じお蔵入り。
より技術を高めての再挑戦を誓ったのである。
「デ…これト同じタイプの建物、作れルカ」
「……!! はい! いかほど御入用で!」
クラスクから注文を受けるのは腕のいい職人のみ。
それだけでも十分な名誉な上に数を納入となれば店の収入も上がる。
なにより市長御用達を謳うことで店に箔をつけることができる。
店主は高揚すると同時に強く緊張もした。
クラスクの眼鏡に叶った事は素直に嬉しい。
だが同時にこの市長は非常に厳しい目も持っている。
彼が持ち込んだ品より一段ならともかく二段劣る作品を渡したらその後は見向きもされないだろう。
立ち去るクラスクに深々と頭を下げた店主は、彼の背中が見えなくなった後頬を叩いて気合を入れ直した。
模型店を出たクラスクは街中をゆっくりと歩く。
彼の背後の居館ではその屋上にて衛兵たちが訓練を行っている。
以前は衛兵と言えばほぼ全員キャスの配下たる元翡翠騎士団の騎士達だったのだが、街の規模が急速に拡大したため圧倒的な人手不足に陥り、結果大幅増員することとなった。
今行っているのはその新人たちの訓練のようだ。
教えているのは衛兵隊副隊長の女剣士ウレイム・ティルゥ。
そしてサポートに元翡翠騎士団のライネスとレオナルが付いている。
ただなぜか衛兵隊長であるエモニモの姿はない。
「はい、はい。西の、はい、リウカブファスの先、はい、アッハルディの街までですね。承りました」
元気な声がオーク護衛隊の店内から響く。
店主であるゲルダが雇った店員の中でも一番の古株、人間族のクメスィである。
ちなみにリウカブファスの街は多島丘陵の東端に位置する、いわばクラスク市の隣町だ。
アッハルディはその先にある丘陵の奥の街である。
前に述べた通り多島丘陵の街の幾つかと条約を結び、現在この街のオークはそれらの街に護衛として立ち入ることが可能となった。
そのためオーク護衛隊の派遣先が広がったのである。
商談がまとまり、クメスィが笑顔で隊商の主人を送り出す。
ただこれまたなぜか店内にゲルダの姿はない。
「うン…?」
『何か』が気になって、クラスクは上を向いた。
理由はわからない。感覚的なものだ。
今日は好天に恵まれ、雲も少なく乾いた風が吹いている。
陽光が燦々と街に、畑に降り注ぎ、街の外では農業従事者たちが汗をかきながら農作業を営んでいた。
そんな太陽に…小さな黒点が見える。
そしてその黒点は、少しずつ大きくなっているようだ。
「おい、あれなんだ…?」
「降りて来てる…?」
クラスク以外に勘の鋭い者が幾人かその異変に気付き、空を見て指を差した。
そしてそれによって気づいた者達が、次々に上を見上げてざわめき囁き合う。
クラスクは陽光に目をしかめ、日差し避けに帽子を深くかぶり直しながらその点を凝視する。
まだだいぶ遠いが、それは大きな羽根を持っているようだ。
そしてどうやら…この街、この二重城壁の内にある中心街へと降りてきているようである。
「ゲユクリィ」
「ハッ!」
クラスクが呟くと、路地裏にいたオークが急ぎクラスクの元に駆け寄った。
キャスの下、クラスク親衛隊の一人のゲユクリィである。
クラスクが短く何か言い含めると、ケユクリィは小さく頷きすぐに駆け足でその場を走り去った。
クラスクは再び空を見上げ、目をすがめつつその黒点の主を注視する。
徐々に近づきつつあるそれは……ようやくその全体像を明らかにした。
…人型である。
手足があって衣服を纏っている。
人型生物のようんだ。
ただその背中には純白の大きな羽根が生えている。
ミエが見れば天使か何かだと思ったことだろう。
ただこの世界の住人ならば知っている。
背中に大きな鳥の羽を生やした人型生物のことを。
…天翼族である。
街の上空にいるのは天翼族の女性のようだ。
そう、どうやら天翼族が空からこの街に降りようとしているようなのだ。
とはいえ城門をくぐらずに街中に入る事はいかに羽根が生えていようと禁じられている。
このままではその天翼族は城壁の守備隊から矢を射かけられ城内に着地ではなく墜落の憂き目にあってもおかしくはない。
…のだが、だいぶ地表に近づいているというのに兵士達からの反応はない。
敵対的な行動もなければ警告も発せられない。
それもそのはず。
その天翼族を撃たぬようにと、先刻クラスクが急ぎ守備隊の者どもへと親衛隊を通じて通達を出していたのである。
羽根をゆっくりとはばたかせ、その天翼族が街の広場に降りてゆく。
その頃には誰も彼もその存在に気づいていて、皆一様に足を止め天を見上げていた。
ゆったりとした白と青を基調とした修道服を身に纏い、黄金の髪がまるでたゆたう麦穂のように風に舞っている。
首に下げている聖印は鳥の羽を象ったものだろうか。
空を舞うその姿は美しく、そして神々しく。
普段雑踏と喧騒とであふれ返っている街の中心部は、今やその娘と彼女がもたらす静謐によって支配されていた。
その娘の羽ばたきはあまりにゆっくりで、その羽で飛んでいるのか、或いは羽はただの飾りで彼女自身が奇跡の力で宙に浮いているのかわからなくなる。
けれどその羽は確かに空を掴み、そして最後のひと打ちでふわり、と居館のほど近く、街の中心たる四方へ通じる十字路……その真ん中にある噴水の前に舞い降りた。
美しい、娘であった。
纏っている修道服と共にその身から発する威厳がなくば、あまりの絶佳に男どもは一様に眦を下げていたことだろう。
顔は面長で、目鼻立ちが整い睫毛が長い。
まさに美玉と呼ばれるに相応しき佳人である。
目は薄目なのかずっと閉じたままなのか随分と細められておりその瞳の色は定かではないが、目尻がやや低く垂れ目気味で、その神秘的な雰囲気の中で柔和さと親しみやすさを醸し出している。
特徴的なのはその耳で、耳の先端が幾筋かに分かれている。
まるで耳の先に幾本か鳥の羽が生えているかのよう。
その口元には微笑が浮かんでいるが、それは笑顔と呼ぶにはやや違和感があり、その古拙な面持ちは彼女の真意を容易には覚らせぬ。
「もし……」
高く、透き通るような声が響く。
まるで天から女神の声を賜ったかのような澄んだ声音に、男ならずとも皆一様に聞き惚れた。
ふ、と彼女を包む威容が薄れ消え失せる。
先程まで口元だけだった微笑を綻ばせ、どこか人懐っこい笑顔を浮かべたからだ。
「わたくしの名はイエタ。天翼族の娘イエタと申します。この街の市長……クラスク様にお会いしたいのですが」