第32話 夫婦と禁忌
「ナニ、キノコ切れタ?」
「はい」
「ミエよクキノコ使ウナ」
「ハイ。メンボクシダイモゴザイマセン」
夕食時の夫婦の会話。
クラスクの言葉にミエが沈み込み、机に頭をごんとぶつけた。
「別にイイ。取りニイけバイイダけダ」
「そんなに簡単に取れるものなんです?」
「そうダナ。このアタりナラソウ」
「へえー」
興味津々といった感じのミエの表情。
「明日にデモ取りニ行ク」
「すいません。お願いしますね」
「…一緒ニ来ルカ?」
「いいんですかっ!?」
クラスクがふとした思いつきを口にすると、予想以上にミエが食いついてきた。
「…大丈夫ダ」
「はい! それでは! 是非!」
なぜそれほどにミエが嬉しそうなのかクラスクにはわからなかったけれど。
はしゃいでいる彼女を眺めるのはなぜか不思議と嬉しくて、クラスクは犬歯を剥き出しにして口元をぬたりと歪ませた。
…オーク族であるクラスクはまだ『微笑む』という仕草をよくわかっていないのである。
× × ×
「では出発しんこー! です!!」
「アア」
翌日、クラスクとミエは二人で家を出た。
出がけに狩りに出ようとしていたオーク達とすれ違い、彼らから好奇の目がミエに注がれる。
なにせこの家の若造は鎖に繋いでもいない己の戦利品を、それも村の外に連れ出そうとしているようなのだ。
逃亡しない理由も不明なら攫ってきた娘が素直に飼主ついてくるのも奇妙だし、なによりその娘が暗くも辛気臭くもない表情をしているのが不思議でならぬ。
…ひょっとしてこの若者はよっぽど夜の生活が上手いのだろうか。
そんな噂が彼らの間で交わされる。
以前にも述べたがそもそもオーク族は夜の営みが巧みである。
それは彼らが女性出生率の低さゆえ多種多様な異種の娘と子を為さねばならぬというその生存戦略の結果錬磨されたもので、半ばオーク族の本能、いや種族特性といっていい。
異種の娘との体格差からくるサイズ差など、彼らの手練の前には些細なものに過ぎないのだ。
したがって拐かされてきた娘達はその惨めな日常生活や奴隷のような扱いに苦痛や絶望を感じることはあっても、少なくとも夜の生活に関して不満を抱くことはないとされる。
実際攫われて隷従生活を送る中、オーク族との性交に過度に依存することで精神の均衡を保とうとする娘もいるようだ。
ともあれクラスクとミエは他のオーク達からそんな奇異な目で見られていた。
特にミエはオーク達の理屈で言えば放し飼いにされてもオークから離れられぬ、いわば相当な『スキモノ』ということになる。
彼女の大きな胸や張りのある臀部を眺めながら、オーク達は皆良からぬ想像を巡らせ鼻息を荒くしていた。
「…気ニすルナ」
「はい。大丈夫です、旦那様」
ミエの≪応援(ユニーク)≫の効果により少しずつ精神系ステータスを上昇させつつあるクラスクは、彼女がこの村の、そしてオーク族の女性の扱いについて理解しつつあることに気づいていた。
そしてそれがオーク族への、ひいては己自身への嫌悪感に繋がるのではないかと危惧し、恐れている。
さつなオーク族は本来であればそんな心の機微など気づきようがないし、気づいたとしてもまず気にしないだろう。
クラスクの情緒は少しずつ、だが確実に豊かになっていた。
「俺ハ、ミエ、繋ガナイ」
「はい。存じております」
「存ジテルノカ?! ナンデダ?」
言い訳のように口にした言葉に即答されて、まるでまじないのように己の心を見透かされたのかと錯覚し、驚愕する。
「だってその気なら初日からそうしてますでしょう?」
「それハマア…ソウダガ」
実は最初はそのつもりではあったのだが、言い出しづらいので黙っておく。
このあたりも彼の精神が成長した結果と言えるかもしれない。
「それに旦那様は最初から優しかったですし…」
「…そウカ?」
「ハイ!」
森へ山菜摘みに行く時まで危険だからとわざわざ同伴し護衛してくれたと思い込んでいるミエと、せっかく分け前としてぶん捕った娘に逃げられでもしたらたまらないと気を張って見張っていたクラスクとでは、その認識に大きな齟齬がある。
ゆえにクラスクが放った疑問の台詞は当人にとってみれば身に覚えのないことへの素直な疑義なのだけれど、ミエにとっては自らの労苦をひけらかそうとしない夫の奥ゆかしい態度に映ってしまう。
勘違いゆえの実に好意的な解釈である。
かつてこことは別の世界で過ごしてきたその過酷な人生からやや達観した考え方をするところがあるミエだったが、こと婚姻や恋愛ということになるとその誤謬や思い込みが全く是正されぬ。
まさに恋は盲目、といったところだろうか。
「そウ言エバ、今日ハ随分嬉シそウダナ?」
森に分け入りながら、普段と違うミエの様子について尋ねる。
とは言ってもクラスクはまだ都合の悪い流れから話題を逸らす、といった高度な話術までは会得していない。
今話題を変えたのは、単に今気が付いたからだ。
短絡した、だがある意味実にオークらしいシンプルな理由と言える。
「ハイ。だってその…夫婦初めてのその、デートみたいで…っ」
ぽっ、と頬を染めクラスクを上目遣いに見つめ、その後両手で頬を押さえやんやんやんと首を振る。
ミエの朱に染まる肌、特に彼の目の高さからよく目立つ彼女のうなじの火照り具合は、わけもなくクラスクの胸を高鳴らせ興奮させた。
「…デートっテナンダ」
「ええっと…恋人…私たちの場合は夫婦、でしょうか。そういう人たちがお互いをよく知るために二人で出かけたり遊んだりすること…でしょうか」
んー、とミエは己の顎に人差し指を当てながら言葉を選ぶ。
「とか言いながら実は私もデートするのは初めてで…色々と足りないところはあると思うんですけど。えへへ」
恥ずかしそうに肩を窄めて亭主に笑いかける。
…いや、正確に言えば未だ亭主と信じ込んでいる相手に、だが。
「と、とにかく今日はよろしくお願いしま…」
「オ前ノ言ウ『フーフ』ッテ、ナンダ」
空気が、固まる。
オーク族は徹底した男系社会であり、さらに暴力を許容し戦場での武勲が評価の大部分を占めるという些か戦闘に偏った価値観の種族である。
結果として女性の地位は著しく低く、奴隷やペット、部族によっては価値のある家具調度程度の扱いしかされないことも珍しくない。
同族の女性すらそうなのだ。
そんな彼らにはそもそも他種族で夫婦と呼ばれる概念自体が存在しない。
かつてはあったのかもしれないが、今や失われて久しい。
国や世界によって夫婦や婚姻にはさまざまな種類や形態がある。
だがそれがどんなものであれ、夫婦というのはなんらかの合意の上に形成されるものだ。
それが法的な約定であれ、個人間の約束であれ、互いの同意で結ばれる契約関係である。
襲撃し、略奪し、拐かし、女性を隷従屈服させる彼らオーク族の流儀は一方的な関係の強要であり、そこには互いの合意が存在しない。
夫婦の概念など生まれようがないのである。
けれどミエにとってそれは禁句だ。
彼女のこれまでと、そしてこれからの全ては、あの時クラスクの言葉を求婚と誤解し、受け入れてしまったことが根幹となっている。
それが否定されるということは彼女がこの村で、いやこの世界で生きてゆこうとしている基盤そのものを否定する事になりかねない。
二人が夫婦であることは彼女にとって絶対の前提なのだ。
「んー…そうですねえ」
…だが当のミエは腕を組み、首をくくく、と傾けて思案の体だ。
とてもショックを受けている風には見えない。
「色々な関係があって確固とした定義…ええっと一言では言うのは難しいんですけど…一般的には同居して、お互いを尊重…じゃなくて大切にして協力し合う男女のこと、でしょうか?」
ミエは彼女の認識にほど近い一般的な説明をしながら、同時にこんなことを考えていた。
(確かに…オーク達の夫婦像とはだいぶ違うかもしれないですけど…)
そう、ミエは誤解していた。
クラスクにとって夫婦という概念は未知のものであって、だから彼の質問は単純に夫婦という言葉そのものへの確認であった。
だが彼と夫婦であることを大前提と考えているミエにとって、クラスクの質問は「お前たちの種族の解釈では夫婦というのはどういう定義なのだ」という風に聞こえてしまったのだ。
思い込みの強さゆえの盛大なすれ違いと言える。
「一緒ニ住ンデ、オ互イ大事ニ…男ト女…」
ミエの言葉にこれまた腕を組んで首をぐぐぐ、と傾けるクラスク。
その様は隣にいるミエとよく似ていた。
「俺達ノコトカ!」
「ハイ! 夫婦の男性の方を夫、亭主、旦那と呼んだり、女性を妻や嫁と呼んだりしますね」
頭頂部に松明を浮かべポンと手を叩くクラスクに笑顔で説明するミエ。
「つまり俺が『ダンナ』! お前が『ヨメ』ダナ!?」
「え、あ、は、はぃぃぃ…」
返事をしながら尻すぼみに声を小さくし、かわりにみるみる赤くなるミエ。
「ドうシタ?」
「あのその、旦那様がわ、私のこと嫁って呼んでいただいたの、その初めてで…っ」
恥ずかしそうに両手で頬を抑え、けれど喜びを隠しきれぬ風でミエが答える。
クラスクはミエの内心まではわからなかったが、どうやらその『フーフ』なるものが彼女を喜ばせる要因なのだ、ということは理解できた。
「ダンナ、ヨメ、フーフ…」
覚えておこう。忘れないでおこう。
それでミエが喜ぶというのなら。
クラスクはそんなことを考えながら、やがて足を止める。
森の一角、小高い丘の麓に…薄暗い洞窟が口を開けていた。
「ミエ、キノコハコノ中ダ」