第296話 罠と餌
紫焔騎士団を率いる秘書官トゥーヴの真横に突然出現した巨躯たるオーク。
その左手には本来両手持ちのはずの大斧が握られていた。
突然の出来事に一瞬場が硬直する。
そのオークは漆黒の外套を翻し、ぼそりと何か呟いた。
「便利ダナ」
だがその言葉の意味を理解できるものはその場に歯一人もいなかった。
どこぞの辺境の奇特な村を除いて、他種族がオーク語などわかろうはずもないのだから。
「あれは…『不可視の外套』……!」
ネザグエンが呻くように呟く。
『不可視の外套』はスキル≪魔具作成/衣服・ローブ・マント≫を有する魔導師が作成することのできる魔具の一つである。
〈透明化〉の呪文を外套に込めて作られたそれは、外套を引き被っている間姿を消し、それを翻せば姿を現すことができる。
外套を被ったままでは派手な動きができないし、姿を消したまま戦闘を行うこともできないけれど、それでも相手に気づかれず間合いを詰めることができる。
ましてや非戦闘時において目に見えぬまま行動できる有用性は言うまでもないだろう。
そんな魔具をオーク族が用いている。
いやそれどころか巧みに使いこなしている。
ネザグエンにはそれがまず驚きであった。
彼らは恐ろしく力が強く、驚異的にタフで危険な種族ではあるけれど、そうした知性や知能を用いた行為は苦手だったはずではないか。
「あ、あ、ああ……っ!」
将とはいえトゥーヴは秘書官であり、剣の使い方を習ってこそいるもののあくまでたしなみレベルである。
自らが剣を手に相手と戦うことなど全く想定しておらず、今回もオーク達が蹂躙される様を高みの見物と洒落込むつもりだったほどだ。
ゆえに突然己の隣に現れた敵…そしてそこから容易に想像される己の死に、彼は震え上がりその身を竦ませた。
「トゥーヴ様ッ!」
一瞬早く反応したのは紫焔騎士団第二騎士隊隊長ザルーエム。
熟年にして熟練の戦士であり、専ら兵を率いての籠城戦や撤退戦を得意とする。
また大盾の扱いが特に巧みで秘書官トゥーヴが随行する際は彼の身を常に護っている守備の要でもある。
彼は素早く馬を操りトゥーヴとそのオークとの間にその身を滑り込ませ、大盾を構えてそのオークに備えようとして…
そして、突然その動きを止めた。
「!?」
わからない。
わからない。
己の身に何が起こっているのかわからない。
ただ全くもって自分の体が動かない。
いつもなら自在なはずの手綱捌きも、盾の扱いも、一切できぬ。
身動き一つできず、息一つできない。
酸素が肺に入ってこずに、緊迫した空気の中みるみる息が苦しくなってゆく。
斧が、振り上げられた。
眼前でその巨躯たるオークが、斧を振りかぶった。
ザルーエムはそれをただ見つめている。
だって動けないのだ。
その身が金縛りにあったが如く微動だにしない。
顔の位置も、角度も変えられない。
まばたきすらできないのである。
だから彼はそのオークのその動きを、ただただ見守る事しかできなかった。
振りかぶられるオークの獲物。
鈍く、血まみれの禍々しい大斧。
その動きは彼から見ればなんとも緩慢で、いつもならそのオークが振りかぶり終えるまでに三度は致命的な斬撃を浴びせられたはずだ。
だのに動けない。
一切その身が動かない。
間近に迫る己の死に対し、これまで培ってきた剣の技量も、騎士の矜持も、全く、一切、なんの役にも立ってくれない。
そんな、そんなことが…そんなことがあってたまるか……っ!
遂に訪れたのは絶望だった。
これまで己の力で多くを護り、助け、そして全ての敵を討ち果たしてきた彼は…
この期に及んで己が指先一つすら動かせぬことでその誇りを悉く打ち砕かれ、涙目で陽光に鈍く煌めく己の死…その巨大な斧を見つめた。
「イイ眼ダ」
ぬたり、とそのオークが嘲笑う。
恐怖に怯え、己を畏怖する瞳が、彼は好きだった。
大きく、大きく振りかぶられた斧。
その斧には≪渾撃≫と呼ばれるスキルが発動していた。
力任せの一撃を放ち、命中値にペナルティーを受ける代わりにダメージをその分増加させる≪力撃≫と呼ばれるスキルの上位派生スキルである。
だがいかに命中にペナルティーを受けようと彼には関係ない。
そのオーク…クラスク村の前族長ウッケ・ハヴシには≪威伏≫がある。
対象を精神的に強く威圧し、その副次効果として対象の敏捷度を奪う。
彼ほどの練度となれば相手の敏捷度を全て奪うことが可能だ。
敏捷度を完全に失うということは移動がまったくできぬということであり、一切の身動きができぬということだ。
ゆえに…相手はただこちらの攻撃を黙って受けるしかないのである。
ぶうん、と大斧が振り下ろされる。
存分に、存分に力が込められたその一撃は…
あろうことか、騎士たる彼の板金鎧もろとも、彼と彼の乗馬を地面に至るまで真っ二つに両断した。
「ヒッ!」
「うおっ!?」
あまりの凄惨さに勇猛で鳴らす騎士達が一瞬脅える。
その怯えをウッケ・ハヴシは見逃さない。
己に恐怖するその心こそが、彼のスキルの強さの根幹なのだから。
ひと睨みで手近な二人の騎士の動きを奪い、そのまま大斧を真横に振るう。
対象を二人に分散したことで相手の敏捷度を奪い尽くすには至らないが、その動きは酷く緩慢となり、騎士どもは彼の一撃に全く対処できぬ。
≪渾撃≫の乗っていないその一撃は鎧を薙ぎ断つことはできなかったけれど、その体躯をくの字にへし折り、馬上から二人纏めて真横へと吹き飛ばし、彼らはまるで投石器の石のように別の騎士の一団へと叩きつけられた。
ぎろり。
その植えた獣のような凝視が再びトゥーヴを見つめる。
怯え竦み上がり、ただただ震えることしかできぬ卑小な存在。
だが彼の手により設立された騎士団の一員として、彼を護らんと急ぎ一騎が馳せ参じた。
紫焔騎士団第四騎士隊隊長・ツルーズフスである。
にたり、と再びウッケ・ハヴシは嘲笑う。
それこそが、その献身的な働きこそが彼の狙いそのものだったからだ。
「な…っ!?」
びくん、とその身を痙攣させ、唐突にその動きを止めるツルーズフス。
身体の自由が奪われ、一切の身動きが効かなくなった。
ウッケ・ハヴシの放つ≪威伏≫が、彼の全身の貫きその身を束縛したのだ。
「ハハッ! ヨク釣レル!」
ツルーズフスではそのオークが何を言ったのかはまるでわからなかった。
ただ彼が下卑た顔で己を侮り、嘲笑ったのだけはわかった。
悔しい。
悔しい。
悔しいけれどなにもできない。
どうしようもない。
ツルーズフスの呻くような叫びは、けれど次の瞬間その騎乗した馬ごと放つ断末魔に取って代わった。
そう、ウッケハヴシがこの仰々しい鎧を着た連中の大将らしき貧弱な男を潰すだけなら、それこそ姿を現した瞬間にできたはずなのだ。
だが彼はあえてそれをしなかった。
言うなればトゥーヴは餌だった。
彼を残しておけば彼を護らんと腕っこきどもが労せずして己の斧の届く範囲に来てくれるからである。
「…シッ!」
「ホウ…!」
その時、ウッケ・ハヴシの背後から凄まじい勢いで大剣が突き込まれた。
彼は地面を抉る程の勢いだった己の大斧を手首の力だけで跳ね上げて、飛び散る血飛沫の中それを受け止める。
それは騎士の一人。
馬から降りてウッケ・ハヴシへと挑みかかって来た大柄な中年の騎士だった。
「ナカナカヤルナ!」
「これ以上貴様の好き勝手にはさせん!」
オーク語と共通語。
互いに理解できぬ言葉を放ちながら、だが互いの共通言語たる剣と斧の刃を打ち合わせる。
二合、三合。
互いに相手を惨殺せしめんと凄まじい殺気と力と技量を込めて叩きつける。
五合、六合。
未だ決着が付かぬ。
ウッケ・ハヴシはその相手の刃の鋭さと同時にその『戦術』に瞠目した。
人間共のこうした重そうな鎧を着て馬に乗っている連中は皆プライドが高そうで偉そうな印象があった。
だがこの男は違う。
なにせ目の前の男は仲間が両断されるのを見ながら、なおこちらの斬撃の隙を突き背後から己を討とうとした。
凄まじく冷静で、狡猾で、それでいて純粋に『強い』。
それもそのはず。
今彼の前にいる者こそこの軍団最強の相手…紫焔騎士団団長にして第一騎士隊隊長・ナラトフその人であった。