第293話 見えているのに見えぬ城
「そうだ…魔術だ…」
秘書官トゥーブはふと何かに気づいたようにぶつぶつと呟く。
「おい、魔導師!」
「はいっ!」
声をかけられた相手は樫の杖を突き立てるようにして身を支えている、黒いローブを引きかぶった人物だった。
声色からすると女性だろうか。
「はい。従軍魔導師ネザグエン、ここに」
ローブの内側から漏れ出る髪は銀髪で、整った目鼻立ちながらその目尻はやや下がっており愛嬌を感じさせる。
どうも顔の諸々のパーツは美形と評するに相応しいものであるはずなのに、全体的な印象が可愛い寄りになってしまうタイプのようだ。
もしかしたらそう見られるのが嫌でローブを引きかぶっているのかもしれない。
彼女…ネザグエンは宮廷魔導師ヴォソフの肝入りでこの戦いに従軍することとなった女魔導師である。
正直戦や殺し合いには全く興味がないのだが、師匠に頼まれた以上断れぬ。
己の魔術の研究費も国が出しているのだし、こうした時に役に立たないとなんやかやで難癖をつけられて援助が打ち切られるかもしれない。
魔導師としてそれだけはなんとしても避けなければならぬ事態なのだ。
「あれはまじないではないのか」
「は…?」
「なんらかの魔術で我らに幻覚を見せているだけではないのか、と言っている」
「はあ…」
「そうでなければ! 僅か一月で城ができるはずがないだろうが!」
ネザグエンの生返事に苛立たちを募らせがなり立てる。
確かにこの世界、この時代にこれほどに高速な築城の例はない。
仮にそんなことが可能ならバクラダ王国は各地に砦を次々と築き、もっと容易く隣国を攻め滅ぼし勢力を拡大できているはずだ。
「軍事大国たるバクラダが未だ確立できておらぬものをオーク如きが成し得るはずがない! あれは単なるまやかしのたぐいだろう!」
「…わかりました。確認してみます」
この秘書官の言っていることは一理ある、と彼女も部分的には賛同した。
彼は特別にオーク族を蔑視しているようだが、オーク族ならずとも他の人型生物の誰だとてこの短期間にあの規模の築城をそれもあの見事な出来栄えで成し遂げられるとは思えない。
報告された当時の状況と今日までの期間を考えれば城壁ならばもっと小規模か、逆にあの規模であれば土を盛った土塁を用意するのがせいぜいだろう。
ならばなんらかのまやかし…例えば幻術などによって単なる土塁を見た目だけ立派な城壁に見せかけてこちらを足止めしたり攻撃を躊躇させようと試みても別段おかしくはない。
…だがそれは同時に別の危険性を示唆している。
仮にあれが幻術系統だとするなら、該当する呪文の中で最も可能性が高いのは幻覚地形である。
地形に対して別の地形の幻影をかぶせることで、沼地を平地に見せたり渓谷を街に見せかけたりする呪文だ。
変更するのはあくまで地形のみであり、そこで行動している人間などはそのまま観測可能である。
それを利用して生活感を醸し出すことで幻覚をよりリアルに見せかけ、相手を騙したり罠にかけたり、或いは村一つをまるまる覆うことで隠れ里にしたり…といった用途で用いられる有用かつ危険な呪文である。
だが城である。
目の前にあるのは城である、
ぐるりと囲った城壁は結構な大きさだ。
あの範囲をまるごと幻術で覆うとなると、最低でも中位以上の魔導術が必要となるし、使い手の魔力も相当高くなければならぬ。
それはつまり…相手陣営に魔導師なりまじない師なりが控えていて、しかもそれが相当な域の実力者である、ということに他ならぬ。
そうなると今回の上司たるこの秘書官の言っているオーク族など容易く蹴散らし蹂躙し…といった宣言に黄信号が灯る。
高位の魔導師を相手にするほど厄介なことはない。
それこそオーク族が一生懸命石を切り出して削り出して必死になって積み上げて頑張って城を建てた、の方が遥かにましかもしれないのである。
(とりあえず魔術がかかってるかだけでも確認しよっか…)
〈魔力探知〉の呪文を詠唱しながらそんなことを考える。
この呪文をもっと城の間近で唱えられれば魔術の系統まで分析することが可能であり、幻術かどうかなどすぐに判明するのだが、未だ城は視界のずっと向こうであり、ここからわかるのはせいぜい対象に魔術がかけられているのかどうかとその魔力量程度だ。
逆に言えば仮にあの城がなんらかのまやかしだというのならここからでも全体を覆う魔力を感じ取ることができるはず。
ネザグエンは己の視界に魔力を探知する効果を発現させ、目を細め対象を凝視して…
そして、言葉を失った。
「どうした。黙りこくって」
トゥーヴが詰問するような口調で尋ねると、ネザグエンは声を震わせながら呟いた。
「…見えません」
「なに?」
「城が…見えません」
「おお…! やはりそうか! まやかしのたぐいであったか!」
己が望んだ答えが返ってきたのだと思い込み、愉悦気味に嗤う。
そうだ。
その通りだ。
そうでなければならぬ。
まさかにオークがそんな築城術など備えているはずも…
「そうではありません! 占術で! あの城を見ることができないのです!」
「なにが…なんだと?」
己の想定とは異なる従軍魔導師の様子に首を捻り、そしてその言われた内容が理解できず、つい鸚鵡返しに問いかえす秘書官トゥーヴ。
「ええと我がアルザス王国の王城たるザエルエムトファヴ城。トゥーヴ様はそこの居館にて宮廷会議のご経験があると思いますが…」
「当たり前だ。私を誰だと思っておる」
「その会議の内容を、他国の宮廷魔導師が盗み聞かんと占術を用いたとします」
「そんなもの、我が国の大魔導ヴォソフ殿がお許しになるはずもなかろう」
自らの師の名を出され、ネザグエンは同意するように頷く。
「はい。ヴォソフ様があらかじめ施したる防御術により我が国の宮廷は魔術的に保護されており、万全の体制を以って盗聴を防ぎます。魔導術には占術を阻害する魔術があるのです」
「そんなことは知っておるわ」
何を言うかと思えば馬鹿らしい、とトゥーヴは鼻を鳴らした。
けれどその軽侮の感情は、次の彼女の台詞で一息に吹き飛んだ。
「それが…あの城にも、目の前の城にも施されております」
「なに…? もう一度言ってみよ」
「はい。あの城には占術を妨害する魔術がかけられております。簡易な占術であの城を覗き見ること叶いません」
ネザグエンの言葉に、文字通り目を丸くしながら信じられぬ、といった表情のトゥーヴ。
「いや…しかし…オークだぞ?」
「はい」
「それでは貴様、オークがあの城を建て、その上我らが王都の王城と変わらぬ魔術に対する対策を取っておると言うのか!」
「いえ、その…はい」
ネザグエンの観点で言えば、彼の言い方は誤っている。
いや正確ではない。
王都で彼女の師たる宮廷魔導師ヴォソフが構築しているのは相当に高度な防御魔術であり、しかもそれを多重に複層的に展開させている。
言わば目に見える城に重なるように築かれた、堅牢な魔術の城と言っていい。
それに比べたらこの村の護りはそこまで大したものではないはずだ。
おそらく低位の〈対占術防護〉かなにかだろう。
ただしそれだと魔導師が毎日毎日各地に魔術をかけながら徘徊し続けることになる。
なので魔術効果をなんらかの魔具に込め、あの村…もとい城の各地に設置しているのではないだろうか。
ネザグエンはそんな風に推測した。
…彼女の推論は当たっていた。
かつてネッカの占術によってこの村を襲う黒エルフの正体を探った際、ミエは防御術の存在を知った。
より正確に言えば情報収集の要たる占術の結果を妨害する防御術の存在を、だ。
そして彼女はその会合の後、ネッカやアーリと相談してそれをさっそく魔具に込めてもらったのだ。
ネッカの造り上げたそれは…この世界の神々の像の形をしていた。
一つだけだと範囲が狭いため、異なる神々の像を幾つも作って、それを城壁の各所の内側に埋め込むような形で安置している。
敬虔な村人たちは毎朝その神像に礼拝してから仕事にでかけるほどだ。
…あの晩アーリがその魔具の作成に難色を示したのは、当時まだ城壁を造る算段がついていなかったからである。
城壁のない村など木の柵だけで仕切られたいわば丸裸に近い状態だ。
占術に対する護りなど固めたところでほとんど意味がないではないか。
だがいざ城壁が間に合ってみれば、それは非常に有用な護りとなって機能するようになった。
なのせこの世界に於いて城壁で村を全て覆ったとてそれで絶対安全と言うことはないからだ。
例えば占術で城壁の内部を透視され内情を知られてしまったら?
占術で城壁の中の作戦会議を盗み聞かれたら?
占術で城の者しか知らぬ秘密の抜け道を暴かれてしまったら?
ある程度の実力や規模を伴った軍団であれば魔導師が従軍することは珍しくない。
そして魔術がある前提の戦争は、そうした占術による情報収集とそれを妨害せんとする防御術による魔術の応酬なのだ。
いわば実際に刃と矛を交える前の、もうひとつの戦争と言っていい。
そしてこの村は…辺境にある小村だというのに、まるで国同士の戦いでもあるかの如くそうした魔術戦に対する準備と覚悟を有していたようなのだ。
ネザグエンはごくりと唾を飲み込んだ。
そして…村の魔術的防護と同時にミエが企図した、もう一つの策謀が蛇が如く鎌首をもたげる。
それは…毒。
魔導師に向けて放たれる興味と好奇心という名の埋伏の毒。
そしてなにも気づかぬネザグエンは…すでに、その目に見えぬ毒蛇の牙を首筋に突き立てられていたのだった。