第26話 衛生観念
「今帰…ッ!?」
夕暮れ、家に帰ったクラスクは驚愕した。
ミエの姿がないのである。
もしや逃げ出したのか?! 大慌てて外に飛び出し方々を見て回るが彼女の姿は見当たらない。
「ミエー!」
無駄と思いつつあの娘の名を叫び、そのままがくりと肩を落とす。
やっぱりいなくなってしまったのか。
そう考えると同時に別の気持ちが首をもたげる。
…当たり前の話じゃないか。
なぜいなくなってしまったのか。
無理矢理攫ってきて理由が必要か?
自分に何か悪いところがあったのだろうか。
気に入らないところがあったのだろうか。
そんなこと考えるまでもないだろう。
強引に初めてを奪ったじゃないか。
手前勝手に激しく体を貪ったじゃないか。
一体どこに気に入る要素があったというんだ?
…憤怒よりなぜか落胆と自省が先に来た。
オーク族にとって攫ってくる娘は奴隷同然の存在である。
逃げ出したなら怒りと苛立ちで荒れるのが普通だ。
食い物や酒を我慢して手に入れたせっかくの分け前だったのに、と。
それより前に手に入れた他の娘どもに当たり散らすことすら珍しくなかった。
今クラスクが抱いているような感情を、これまで他のオークどもが感じることなどなかったのである。
「だんなさまぁ~~~~~」
と、そこにどこか遠くの方から、どこかくぐもったあの娘の声が聞こえてくる。
「ミエ!」
いた!
いた!
クラスクはどすどすと声のする方角に全力で駆けた。
するとそこには女手で掘ったとは到底思えぬほどの大きな穴が空いていて、あの女…ミエがドワーフどもが使いそうな得物を脇に置き、彼の方を見上げ嬉しそうにぴょんこぴょんこと跳ねながら手を振っていた。
あまりに掘り過ぎて全身がすっぽり隠れてしまったため、その姿が見えなくなっていたのだ。
クラスクはほぉう、と今まで感じたことないほどの安堵を感じつつ、彼の方にぎゅぎゅ~っと手を伸ばすミエの腕を掴み片手で引き上げる。
ミエは「そいやー♪」と声を上げながら勢いそのまま彼の胸に飛び込み頬ずりした後、泥まみれの自分に気づいて慌てて飛び離れた。
「ナニシテタ」
「ええっと……穴を掘ってました!」
「…ソレハ見レバわかル」
ホッとすると同時にふつふつと疑問が湧いてきて思わず質問が口に出る。
理解できない事象に対して怒りや苛立ちより疑問や興味が先に来るのはオーク族としては珍しいことだ。
ミエの≪応援(ユニーク)≫により上昇した知力がそうさせているのである。
「これはその…お手洗い用にですね」
「アア…アノ穴空イタ椅子ノコトカ?」
「…ソレデス」
どこか恥ずかしそうにもじもじとしているミエの説明により一体なんのために掘った穴なのかは理解できた。
が、今度はどうしてそんなことをするのかがわからない。
「ナンデアレ使オウトすル? 壺運ブノ面倒ジャナイカ?」
「それはそうなんですけど…その、衛生的にですね」
「エイセイ?」
聞き慣れぬ言葉に首を捻るクラスク。
とはいえこの無知に関しては安易に彼がオーク族であることを理由にはできまい。
この世界自体、彼女がかつて暮らしていた世界や時代とは衛生観念が違いすぎる。
その上彼女は実家より病院での暮らしのが長かったくらいなのだ。
清潔と消毒の大切さは身に染みて知っているのである。
「ええっと吐瀉物とか排泄物を放っておくと病気になりやすいんです」
「ナッタコトンナイゾ」
「それはその…オークの人たちが丈夫だからで、他の種族の人はそうじゃないと思います」
「ソウナノカ!?」
ミエの言葉にクラスク電流走る。
そう言われて彼にも気づいたことがある。
種族によって寿命が異なることは彼も知っていた。
エルフはとても長生きでドワーフもかなり生きるという。
人間族もオークに比べれば長生きだ。
だというのに、攫ってきた女達はみなオーク達より先に死ぬ。
エルフもドワーフもノームも人間も皆等しくオーク達より先に死ぬ。
言うことを聞かせるための暴力で痛んで死ぬのはまだわかる。
だが暴力を振るわなくても彼女たちはだいたい体調を崩してすぐに使い物にならなくなってしまうのだ。
「ソノエイセイニ気ヲ付ケレバ女モット長生きすルノカ?!」
「はい! そうしたら私ももっともっと旦那様のお役に立てますから!」
ミエは泥だらけの顔で嬉しそうに破顔して腕でガッツポーズを取る。
その瞬間、クラスクは理解した。
この娘はきっとどこにも行かない。
ずっと自分と一緒にいたいらしい。
そして自分も…どうやら、彼女とずっと一緒にいたいらしいのだ。
それも…少しでも長く。
クラスクが無言のままミエを抱き寄せると、彼女は少し驚いたような顔で…だが頬を染め自分からその身を寄せてきた。
「嬉しい…」
「…嬉シイ?」
「はい。だってさっき私の名前呼んでくれました。ミエって」
「ソレガ嬉シイノカ」
「はいっ!」
名前を呼ぶと何故彼女が喜ぶのかわからない。
けれど彼女が…ミエが喜ぶと自分も嬉しくなる。
それは確かだった。
「ワカッタ。ミエ。俺モ手伝ウ。ソノエイセイッテヤツに気ヲ付けレバイインダナ?」
「~~~っ!! はい! はいっ! ありがとうございます!」
ミエがクラスクに抱き着く腕の力をいっそう強め、より強く密着する。
上半身を半脱ぎにしていた彼女の、豊かな胸がクラスクにぷにょんと押し付けられた。
それに関しては……自分がなぜ嬉しくなるのかクラスクはよくよく知悉していた。
オークなら誰でもそうなる。
オークでなくてもそうなる。
「ミエ…」
「はい…」
互いに見つめあい、顔を近づけて。
「少シ臭ウナ?」
「きゃ…っ!?」
首筋に顔を寄せ、ひくひくと鼻を鳴らしたクラスクから放たれるあまりにデリカシーのない一言。
一瞬で顔を牡丹のように染め上げて両手で彼を突き押し大慌てで離れようとするミエ。
が、できない。
がっしと彼女の腰を掴んだクラスクの太い腕がそれをさせてくれない。
「こここここれは一日ずっと穴を掘ってたからでででであああああああ汗! 汗がですねっ! そそそそそのすぐに川で水浴びしてきますから旦那様もももももうちょっとお待ちくくくくくだだだだだだだだだっ!?」
「イヤ…コノママデイイ」
くんかくんかとミエの首筋から肩、さらに脇腹へとそのひくつかせた鼻を移動させ、そのまま彼女を軽々と肩に担ぐ。
「だだだだだめですダメです旦那様っ! あのあのあのせめて布で体を拭くだけでもおおおおおおおおお~~~~~~っ!!?」
「コノママデイイ」
羞恥と動転で目をぐるぐるさせながら彼の肩の上でじたじたと暴れるミエを、だがクラスクは問答無用で家に連れ帰り、ベッドの上に転がした。
「ででですからあの臭いです汚いです旦那様いけませんいけません嗅がないで嗅いじゃダメああ舐めてもダメですぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ~~っ!!! ……ァッ」
「コノママデイイ(フンス)」
その日、夫婦の夜のレパートリーがほんの少しだけ広がって…
クラスクは…耐久力と共に知性を上昇させたのだった。