第228話 蛇舌川の源流に
「それはちょっと考え付きませんでした…」
河川が海に到達しないという彼女にとって常識外の事態にただたただ感心するミエ。
「ふむ…お主にもそういったところがあるのか」
「当たり前ですよぅ!」
「そりゃ少し安心したわい」
「むぅー…なんか失礼なこと言われた気がしますー」
ぶーぶーと頬を膨らませていたミエだったが、川に背を向けたとたんその表情が一変した。
「…わぁっ!」
ぱたぱたぱた、と岩場を駆け、崖先に辿り着いたところで立ち止まる。
てしてしてし、とその後をついてゆくコルキ。
二人の視界いっぱいに広がっていたのは…巨大な盆地であった。
高い丘に登った事で普段住み暮らしている地…即ちアルザス王国の国土が遥か遠くまで見通せるようになったのだ。
「あれがうちの森、あれがうちの外村! わあ、畑もちゃんと見える! わあ、わあ…っ!」
「わっふ! わっふ!」
きゃいきゃいとはしゃぐミエを見て嬉しくなったのか、コルキもまた嬉しそうに尻尾を振りながら飛び跳ねる。
「このあたりってうちの村周辺だけが草原で…あとはほんとにだだっ広い荒野なんですねえ」
「だからゆうたじゃろ。未開拓の地じゃと」
後からゆっくり歩いて来たシャミルが、眼下の景色を睥睨する。
「…あのー…素朴な疑問なんですけど、シャミルさんの計画ですとこっちの…私達が今いる方角に畑を伸ばす予定でしたよね」
「そうじゃな」
「なんていうかこう…北の方はずっと無人の荒野なんですけど、あっちには伸ばさないんです?」
ミエの質問に対し、シャミルはやっとそこに来たか、といった表情で目を細める。
「ミエ。お主の視線の先に川があるじゃろ」
「川…? ああありますね。ここから見えるってことはだいぶ大きな…あれ? もしかしてあれがアーリさんの地図にあった蛇舌川?」
「うむ、正解じゃ」
「やた」
「で、その川はどこから出ておる」
「ええっと出どころは左の方…多島丘陵のずっと北? あれでもこの辺りよりだいぶ標高が高いですね」
ミエは獣の尾のように曲がりくねったその河川の源流を探して…自分達がいる丘陵地帯のずっと北、天を突くような鋭鋒が幾つも聳える天嶮に辿り着いた。
その峰の幾つかは先端に雲を巻き付けている。
丘陵というよりはそちらは完全に山脈、山嶺の類であるである。
「うむ。以前アーリの地図で見たじゃろ。あれが『赤蛇山脈』じゃ」
「あれが…!」
その美しい紅の連峰に感嘆しながらミエがそう呟いて…途中でうん? と首を捻る。
こうした時、シャミルは己の発言になんらかの寓意を込めているはずだ。
では今回のそれは一体なんだろう。
「ええっと…」
ぽくぽくぽく…とたっぷり三拍考え込んで手と手を合わせる。
「整いました! 幽尾川にもその名の由来があったように、あの赤蛇山脈と蛇舌川にも由来となった何かがいるんじゃないですか? って私に聞いて欲しいんですね!」
「心を読むような真似はやめんかーっ!」
「あいたーっ!?」
ミエの心底嬉しそうな顔での問いかけに対しぺしんと彼女の腿を打つシャミル。
「じゃが正解じゃ。赤蛇山脈の由来は『赤蛇山』と呼ばれる火山にある。そしてそこに…『赤蛇山のあるじ』が住んでおる」
「赤蛇山の…あるじ?」
ミエの声の危機感のなさに、まあさもありなんと溜息をつきながらシャミルがその名を告げる。
「イクスク・ヴェクヲクス…魔の言葉で『紅蓮の恐怖』を意味する巨大な紅き竜じゃ。そやつがその火山の火口で眠っておる」
その名から受ける何やら不穏な響きになんの知識もないミエですら思わず唾を飲む。
なにせこれまで聞いた地名を考えあわせれば、その存在は山の名となり、山脈の名ともなって、そこから流れる川にすらその名を冠しているのだ。
「あのー…その方は一体…?」
「先日ネカターエルの名を聞いた時言ったじゃろ。戦乱のゴーリン殿にノーム族が世話になったと」
「ああ言ってましたね…確かこの丘陵地帯を魔族から取り戻した時の戦いの立役者だとかなんとか…」
「うむ。その戦いの記録にも既に成竜となったその赤き竜の暴虐が記されておる」
「それってどれくらい前の話なんです?」
「そうじゃな…ざっと五百年くらい前かのう」
「ごひゃく…ごひゃくねん!?」
ミエの知る限りそんなに長生きな生物はいない。
思わず声が上擦ってしまうのもだから仕方のないことと言えた。
「実際にはそれ以前から報告記録もあるし…まあ古文書に残っておる記述全ての信憑性を確かめるのは手間じゃからやらんとしても…ざっと七百~千年以上生きとる古竜と考えてよい。この辺りの竜の中では図抜けて高齢で、壮健で、強大で、狡猾で、そして危険な存在じゃ……多島丘陵にはあやつに滅ぼされた国が幾つもあるし、焼き払われた街や村なんぞそれこそ数え切れんほどじゃ」
「そん
なに」
一瞬凄惨な光景が目に浮かび、ミエは胸を痛めた。
だがその寿命は長すぎて正直ちょっとピンとこない。
なにせミエの知っている歴史ならまだ中世の時代から延々と生き続けてきたと生き物、いうことになるのだ。
当然と言えば当然だろう。
「それはその…相当恨みを買っているのでは?」
「当然じゃ。竜は財宝や宝物を愛するゆえ幾つもの国を襲っては国宝とも呼べるような品々を強奪しておる。宝を奪われ、街を焼かれ、大切な者達を殺された幾多の種族が幾度も幾度もきゃつを滅ぼさんと討伐隊を送った。高名な冒険者であったり、或いは軍隊であったりな」
「それで…どうなったんです?」
「どうもなっておらん。きゃつは未だ火山の火口をねぐらにしておるし、挑んで帰ってきた者はおらん。そういう存在じゃ」
「ひえええ…」
なんという恐ろしい存在なのだろうか。
ミエは戦慄しその背筋を凍らせた。
「…ゆうても常に暴れ回っておるわけではないぞ。そうであったらわしらがこうして生きておらん。普段は休眠期でだいたい眠っておる。二百年に一度ほど活動的になり、また数百年に一度、繁殖のため一層活発となって周囲の生物を容赦なく蹂躙する」
「眠っている間に討伐とかは…」
「それができた者がおったらこの地方の者はもう少し枕を高くして眠れておったんじゃがのう」
「ですよねー…でもうちの外村で全然噂を聞かないってことは、今はまだ眠ってるってことですか?」
「うむ。じゃが…時期を考えればここ十年から数十年以内に休眠が空けてもおかしくない頃合いではある」
「きゃー!?」
悲鳴を上げたミエをよそに、シャミルが眼下にあるクラスク村…森の外にあり混合農業による碁盤の目のような耕作地を周囲に巡らせた村…の遥か北の広大な荒野を指し示す。
「あの辺り…地図に無人荒野とあった場所が、即ちきゃつの縄張り…『狩り庭』じゃ。あそこに手を出すと言うことはきゃつに喧嘩を売るに等しい。じゃからなるべくそちらには手を伸ばしたくないんじゃ」
「な、なるほどー…」
「だいたい考えてもみよ。なぜこの国は王都をわざわざ東の端に置いておる。中央辺りにどんと構えておればこの近辺のオークも討伐し易かったはずではないか」
「ああ、確かに」
「無論国の中央を縦断する豊穣の森に住まうエルフ族のとの軋轢もあったが、なによりもその眠れる赤竜めを刺激して首都を攻められたくなかったんじゃよ…まあそのお陰でこの近辺をわしらが自由に切り取りできておるわけじゃが」
どうやらこの世界にはこの世界なりの危険な理由がちゃんとあるらしい。
ミエは重々肝に銘じることにした。
「ただのう…」
「え…まだ何かあるんですか」
ミエは流石に若干不安になって問いかける。
「先日お主が言うたじゃろ。『植林』じゃ『植林』。新たな花畑と蜜蜂を生息させるための森は、中森と隣接しては作れんじゃろ。この辺りに作ると街道に蜜蜂が迷い出るでな」
「あ…」
ミエは…昨日の会合で蜂蜜増産のために森の作ろうと皆で盛り上がっていた時、シャミルだけ少し塞ぎ込んでいるというか考え込んでいたのを思い出した。
あれはどうやらその赤竜の縄張りを侵食してしまうことを危惧してのものだったようだ。
「それじゃあ植林計画は一旦止めた方が…」
「いや…お主の目的がオーク族を絶滅の危機から救うことで、そのためにオーク達の人口を増やさんと欲するのであれば蜂蜜の増産とそれに伴う『植林』は避けて通れん道じゃ。耕地もいずれ北に伸ばさざるを得なくなる」
そう呟きながら…シャミルはやや厳しい目つきでミエを見上げた。
「ただ覚悟だけはしておくがよい。これより十年後…或いは運が良くば数十年後となるやもしれんが、いずれあの赤竜が目覚めた時、わしらの村とあやつとで軋轢が起こる可能性が高い。わしらがこの辺りを根城にしている限りは……な」